深沢七郎がこう書くように、菖蒲町を含む埼玉10地域区分で言うところの利根地域は起伏がほとんど無いのっぺりとした土地である。秀吉の北条攻めに従い忍城を攻略しにきた石田三成は、城の望めるちょっとした高台も無いので仕方なく古墳跡を本陣にしたくらいだ。忍城も水城として知られているが、流れてきた水が他にナカナカ出て行かない土地故に湿地だらけである。
そのくせ、上州おろしに晒されまくりなので空気は乾いて、日本で一、二を争うほど洗濯指数が高い。と言っても、冬場なんかはその乾きっぷりのせいで砂埃がひどくて洗濯どころじゃなかったりするわけで、風の強さは向かい風だと自転車が漕げなくなるほどだ。この土地の古い農家や屋敷はそのからっ風を避けるための防風林に囲まれている。
他で似たような土地をイメージするとアメリカ中西部のミシシッピ流域の辺りだろうか。土地は湿っているが空気は乾いている感じ。どちらも起伏の無さに合わせて、住む人たちの人気(気風の方)も起伏があまり無かったりするが、どういうことか忘れた頃にポコッと大きな犯罪があり、それを納得できるようなジメジメとした暗いものが穏やかな風景の後ろに隠れていたりする。そういう映画で見たり本で読むと感じる、水が澱むのと近い感じのなんとなしの閉塞感も同じものを感じたりする。
自分の生まれ育った場所(久喜出身)ではあるけれど、なんで深沢七郎がこんなとこに住む気になったんだろうと思ったりもしたが、間違いなく言えるのは菖蒲町が陸の孤島(だった)という辺りだろう。大宮から扇状に広がって北へ延びていく高崎線、東北線のちょうど間にあり、近場の桶川か久喜で降りてバスかタクシーで行くしかないのだ。今じゃ、車は一家に一台という感じで、モラージュ菖蒲なんていう大規模ショッピングモールも大賑わいらしいが、深沢七郎が「入植」した1965年の頃は今とは比べ物にならないくらい車の普及度も低い上に道も悪く、陸の孤島感はより強かっただろう。
風流夢譚事件からその後の放浪(逃亡)生活を経て、「旅が嫌いになった」深沢七郎が静かに腰を落ち着かせるには絶好の場所だったといえる。そのような孤島ではあるけれど、都内への日帰りも比較的容易なところもよかったのかもしれない。
その「入植地」であるラブミー農場跡を訪ねてみようと思ったのは、去年からチョコチョコと復刊している深沢七郎の本を読んだりしたからだが、当サイトのコンセプトとニアリーイコールな「生きているのはひまつぶし」「人間滅亡教」マインドに何時か敬意を表せねばなぁと思っていたのだ。しかし、暖かくなったらと思っていたら震災やらナニヤラで、結局その機会が訪れたのは程よい暖かさが過ぎ去り、熱中症でブッ倒れそうなむしむしと暑い夏が来てからだった。
さて、とカメラを用意し、出かける前にラブミー農場の場所を調べてグーグルマップでそこを見てみるとまだ建物が残っている。
見沼代用水と星川が分流した間に挟まれた場所。近くに「久喜市役所支所」とあるのは合併前の菖蒲町役場だ。役場の近くにあったのは意外だった。そういえば町長に鍬をもらったって話が冒頭に上げた「生態を変える記」にあったな。
ラブミー農場の実際がどうだったかを一番詳細に知ることが出来るのは本人の作品ではなく、ラブミー農場に出入りし交流が深かった嵐山光三郎が書いた『桃仙人』がいい。
十五年前に来たときに比べ、家屋は巨大なプレハブの要塞になっていた。
トタン張りの砦だった。
遠くからみると、家はうずくまって草を刈るオヤカタの後姿に似ていた。這いつくばって、ざら土から草をむしるような砦なのだ。敵から用心深く身を守りつつ、土に化けて、土の保護色となる砦なのであった。
オヤカタの家は、来るたびに変化していた。客室が増え、二階が出来、ブラックホールという音楽室もあった。外からみるとトタン張りでも内側には江戸城大奥を思わせる豪華な「西のマラ御殿」も出来た。
<中略>
オヤカタの家は生き物だった。少しずつ、西へ西へと手を伸ばして増殖しつづけていた。
グーグルマップで確認できるラブミー農場には確かに、実際何か増築というか小さな建物が組み合わさったようなカタチになっている。
てなわけで、建物もこんな感じでしっかり残っているようだし、これは楽しみだなと現地へ向かってみたんだけど…
造成中の更地になってたよ。
埼玉県久喜市菖蒲町上大崎735−3
グーグルマップの方も更地に変わっている。
『深沢コレクション 転』の巻末解説に「取り壊す予定がある」ってあったのでやな予感もあったんだが、見事に当たってしまった。
唯一の残っているのはぶどう棚のようなものだけ。元からのものなのかは不明。
しょうがないので、周りを見回ってみたが、編集者が持ってきた百万円を投げ捨てたという向かいの用水路(見沼代用水)は余り変わっていないようだ。
もう一本の星川の方にも行ってみたが、冷たく荒い風が吹き付けて関東でいちばん寒いところと書いた「八束土手」はこっちじゃなかろうか。見沼代用水の方ははっきりとした土手らしきものが無いし。
後でいろいろと経緯を調べてみると、87年に深沢が死んだ後、一緒に暮らし養子となっていた男性(深沢や嵐山の本にミスター・ヤギの名前で出てくる元コックの人)が引き継ぐ形で農場に住み続けたらしいが、8年ほど前にその男性も死亡。縁者(深沢の弟か?)は縁もゆかりも無い土地の管理、相続を放棄。ツタやらなにやらが絡みつき、荒れ放題になっていたらしい。
菖蒲町は自分たちの土地に住み着いていた深沢七郎という人にまるで興味が無かったようで、土地は売りに出され地元の人が購入。流石に「ラブミー農場」を“消去”しちゃうのはアレなんじゃないかとかいう紆余曲折あり、土地の一部に小さな資料館のようなものを作るとかいう話になる。ということで建物は取り壊され、中にあった深沢の私物含む貴重なものは資料館が出来たときのために選別して別の場所に保管してあるそうだ。
といってもその現在の土地の所有者も始めからそういう方向性でというわけではなく、親が老後を過ごす土地を探していて偶然といった流れとかいう噂。実際建物潰しちゃったら、土地としての意味はもう無いよなぁ。
なんとも深沢七郎が住んでいた場所らしい結末である。
しかし、嵐山を含むあれほど深沢を崇拝して出入りしていた人達は、いったいどうしてしまったんだろう。ちょっとは保存や何かに協力してもよさそうなもんだが。
結局のところ、深沢の周りには自意識をキラキラさせようと近寄ってくる「ラブミー」な人達ばかりだったというのは少しらし過ぎる。
前出の嵐山光三郎の『桃仙人』はその辺をセキララに書いた「小説」だ。
嵐山はその「ラブミー」ゆえに最後には深沢から斬り捨てられることになるのだが、その痛みをひっくるめて自意識のエッジを立てるための道具にするというのは世代的な病なんじゃないかと思ったりもする。
『桃仙人』購入する場合は、赤瀬川原平との対談が巻末にある筑摩文庫版もいいが是非ランダムハウス講談社版をお勧めしたい。その興味深いあとがきの最後はこうなっているのだ。
『桃仙人』が出版されたとき、水上勉氏から激励の手紙をいただいた。「よくできた小説だ」とほめてあったが、手紙の巻末には「君はこれ一作でいい。これで気が済んだろうから、以後は小説は書くな」と付記されていた。