以前神田駅ガード下の大衆割烹「大越」紹介のマクラで端唄(はうた)「芝で生まれて神田で育ち、今じゃ火消しのアノ纏持ち」で何で“神田”なのかっていう解説をちょいとしてみたが、今回は“芝”の酒場を周るってことでこっちの方の解説をしてマクラとしてみよう。
江戸の頃の“芝”って聞くと落語の「芝浜」を思い浮かべる人は結構多いかと思うんだけど、志ん生版芝浜では「日本橋に移る前に魚河岸は芝の浜にありまして~」と始まる。落語はご存知のっていうある種の典型をネタに話を進めるものなわけだけど、江戸の頃から“芝”といえばそっち関係っていうのがお約束があったわけだ。冷凍技術も何もない当時、魚河岸では目の前の海(江戸前)で取れたものを扱うことになる。当然、そこで働くのは地元(地生え)の人間達ということになるわけで、地生えというのはすなわち“江戸っ子”。魚河岸では威勢の良さが身上で喧嘩も上等ってのもそうだが、その日取れた魚をその日のうちに売って暮らすってのも宵越しの金は持たない(というか持てない)“江戸っ子”そのまんまだ。日本橋の魚河岸で大きな商いを行なっていた上方系の魚問屋とは違い、地元っ子である芝の魚河岸関係者は神田の青物市関係者や職人達と同様に“江戸っ子”の典型ってのが一般認識としてあったと。つまり「芝で生まれて神田で育ち」ってのは二つの典型を経て単なる“江戸っ子”じゃなくて磨きがかかってるんだぜっていうことを強調しているっつーことなわけだ。
というわけで、今回は酒場紹介と同時にこういうかつては典型の場として語られたの“芝”の欠片のようなものが残っているのか確認してみようというのが眼目っていうことかな。毎度おなじみ後付なんだけどさ。
仕事終わりの大体7時半くらいに大手町方面より都営地下鉄三田駅に到着。第一京浜と日比谷通りの分岐点にである芝5丁目交差点に一番近い福祉会館方面改札前でCUE氏と合流する。実は田町はCUE氏の勤務地っつーことで、こっちは研修という名で観光をする癒着系地方県議並におまかせな感じなのだ。今回、夜の酒場めぐりなのに明るい写真もあるのもCUE氏が説明すんのに分かりやすいだろうと昼間に追加で撮ってくれたものなんである。まぁ、そんなお気楽鳩バス気分のまま連れられて先ず向かうのは当然元“芝浜”の地である。
芝5丁目交差点からビルの間の路地を抜けていくとすぐに神社らしき建物が見えてくるが、これが江戸時代から芝浜の南限にあった鹿島神社(正式名・御穂鹿嶋神社)で、その前を過ぎるとかつての芝浜のことに思いを馳せる間もなく元“芝浜”であるに到着しちゃうんである。うーん、幹線道路からめちゃめちゃ近かったんだな。
海だったんだよってのを表しているのか帆船のアスレチックやサザエのオブジェやらがある手前に、昭和45年(1970年)に江戸時代からの海岸線が残っていたのを埋め立てて公園としたものと書かれた案内板がある。昭和に入ってもまだ残っていたんだな。確かに昭和38年の航空写真を見ると線路外側の運河と繋がった小舟の溜のようになっていて、現在ドデカイマンションが建っている辺りは漁業関係者の家が並んでいたってのが分かる。
案内板にもいろいろと書かれているんだけど、芝浜は家康入府前から芝村という名で歴史書に出てきており(漁民が船で立ち往生した家康を助けたという話もある)、土地の歴史は江戸自体のそれよりも古い。しかし、将軍のお膝元となり日本橋で上方系の商人たちが魚河岸を始めると芝浜の魚河岸は正式名「御用撰残魚売捌所」という雑魚場にされちまうのだ。いい魚は日本橋の方に上納となり「残魚」だけ扱へと。上納された値の張るいい魚は大名やら旗本やらに行くわけで、いわゆる庶民であるところの江戸っ子は芝浜の主人公・魚屋勝五郎のような棒手振りから芝浜の「残魚」を買っていたというわけ。江戸っ子の反骨心も手伝って、馴染みにはいい思いをしてもらいってのが落語の「芝浜」にはこめられているってわけだ。
納得したところで次に向かうはその江戸の頃にはパーフェクトに海だった芝浦。芝浜から芝浦に出るには公園のど真ん中にポッカリと開いている雑魚場架道橋をくぐればすぐだ。この架道橋はかつて芝浜と東京湾をつないでいた運河跡で、そこを歩いて芝浦に出るってのは面白い。どうもこんな感じで元運河の架道橋は近くにいくつかあるらしい(当初鉄道が海の中を走っていたため)。
芝浦に抜けると気分的なものもあるんだろうが、空気が妙にしっとりとしているような感じがある。ただ、右手のスポーツセンター前をモノレールが走っているのが見えるのいいが、左手のだだっ広い東京ガス跡地が土壌汚染改良中ってことで鋼板に囲まれた空き地になっており、いかにも埋立地的な空虚感も漂っている。ちょっと劇場版パトレーバーっぽいっていうか、なんというか。
そのまま歩いて行くと芝浜につながっていた運河の一部が芝浦運河通りに面した辺りにちょろっと残っていて屋形船の係留所のようになっている。埋立地で工業地帯的なイメージのある芝浦で舟遊び?と訝しがる人も居るかもしれないが、実は鉄道開通後の明治中期から昭和初期までここは舟遊びのメッカで、それには付きものの芸者衆が所属する花柳界もあったんである。下の画像は明治中頃にその芝浦にあった温泉旅館(経営者はエビスビール創業者の木村荘平)を紹介する錦絵なんだが、旅館が海っペリに建ってるのが分かると思う(旅館名が芝浜館なのも面白いんだけど)。当時、線路より海側の埋め立て地には芝浦製作所敷地(現在の東芝ビル付近)を除き、こういう店が立ち並んでいたんである。実は今回一軒目の酒場はそのかつての芝浦花街の地で置屋(芸妓の所属事務所みたいなもん)の建物を利用して営業しているお店だったりする。
と、店へ向かう前にこの芝浦花街跡にはちょっと見ておかないとマズイ建物がある。ここにはまだ花街華やかなりし頃である昭和11年(1936年)に建てられた検番(花街の料亭・置屋・待合の三業組合の事務所)がそのまんまの形で残っているのだ。
一旦入る予定の酒場の前を後でねと通り過ぎると、スッポリと町の一部が無くなったように駐車場があり、その奥にズドーンとデッカイ木造の建物がある。この建物がかつての検番である「協働会館」である。名前がそれっぽくないのは戦時中に港湾労働者の宿泊所に転用されたからである(というわけで正式名称は港湾労働者第二宿泊所)。
いやー、こりゃすごいもんだ。東京で戦前からの検番建築が残っているのはここだけというが、おそらく東京どころか日本全体でも玄関が唐破風屋根のこれだけ立派なものはなかなか無いだろうと思う。しかし、困ったことにどうも保存するのかしないのかハッキリしていないらしく、現在は補修もされないまま建物全体がネットで覆われているのがなんなんだが。現在の持ち主は東京都港湾局らしいが周りの駐車場っぷりなんか見ると壊す気まんまんというか、とっととマンションかなんかにしたいんだろうねえ。区の方は残したいらしいけど、どうなることやら。
さらに突っ込んでいきたい「協働会館」と芝浦花街なんだけど、酒場めぐりの片手間にふれるにはちょっと重いネタでこれ以上長くなるのはなんなんで、いずれ花街シリーズでも始めた時に別途キッチリやろうかと思っとりますってことでこの辺りで納めて酒場へゴー。
今回の一軒目の酒場は上で書いたように芸者置屋だったという築80年だという建物で営業する割烹「い奈本」。この旧花街には他にも一件料亭が残っているが酒場といっていいような店はここしか無い。“割烹”だし「ふぐ料理」と書かれた看板もあるってこのシリーズじゃグレード高くね、という気がしつつも店の前に植木やらが置かれたザッパ(フランクじゃなくて)な感じから、まぁ大丈夫だろうと覚悟を決め店に突入~。
と、店に入ってみると元置屋の造りのためか割烹が付く料理屋としてはやや狭いかなという印象。もっとせっまいスターウォーズの壁が迫ってくる牢獄みたいな酒場にはよく行ってるんだけど、割烹ってことで身構え気味。しかし、奥のカウンターに通されると調度品やらなにやらが民芸居酒屋風で気分的にやや落ち着く。
席に座り王道の生二つを注文しおすすめが書かれた黒板を見ていると、ビールと一緒に普段の酒場じゃまず見ることがないようなちゃんとした突き出しが出てきた。この辺で割烹としての格はしっかりと守っているようだ。
ビールを胃袋に流しこめばいつもと同じボンクラモードへ移行し怖いもんナシ。今回時期的に花粉症がヒドイんであんまりガッツンガッツン行けないんだけどね。とりあえずオススメってことでカツオの刺身と白子焼き、鳥のつくねとレバーを注文。それを待ちつつビールをチビチビとやりながら店内を眺めると、先刻気づいたように民芸風調度品や片岡鶴太郎風水墨画なんかがやや過剰に飾られているので、ソッチ寄りかと思いきや奥にはデジタルダーツボードもあったりして、それなりにフレキシブルな感じでやっているようだ。そういう意味ではあまり緊張を強いるような雰囲気は無い。
一階は元置屋らしい妙に仕切りが多い造りになんだけど、二階は所属芸者が踊りなんかを練習していた場所で、今は広い座敷席になっているらしい。一階でも多少花街の残り香を感じられるけど、上の方がそれが濃かったりするんだろうか。
と考えているうちにやってきた料理は素材の良さはもちろん、一般的な居酒屋よりもちょっと手の込んだ仕事がされている。周りの元花街は往時とは違い閑散としていて、現在の飲食系店舗の立地条件的にはかなり厳しいような気がするのだが、店はほぼ満員というのも納得である(金曜ってのもあるんだろうけど)。自分の横では店主に「先生」と呼ばれる謎紳士が日本酒を傾けているがどうも近所っぽい感じじゃないしわざわざ来ているんだろうな。
もう一つ特筆すべきは店主夫婦のお人柄。“割烹”となっているんで俺料理を押し付けてくるような疲れる店なんじゃないかとちょっと警戒していたわけだけど、そんなんは杞憂もいいところで、逆に丁寧でありながら押し付けがましくない接客に感心してしまった。この店の妙な居心地の良さはここから来ていると思われる。かといってアットホームって辺りまではベタベタしてないってのが、謎紳士のよろしく気楽に来やすいってことで店が繁盛しているんだろう。であるのに隠れ家的雰囲気もあるしね。
といったところで次もあるので早めにオアイソ。いつもの酒場やらよりはイッてるけど思ったほどではなかったといったところか。おつりと一緒にそれぞれに何かカードのようなものをくれるのでお店紹介的なものかと思ったらポイントカードだった。ちゃんとリピートしてくれるよう工夫もしておるのね。なんかハンコ押すとこ二つしか無いし。ランチもしっかりしたものを出すってことなんで花街のことをやるときにでも食べに来てみようか。
割烹「い奈本」
住所:東京都港区芝浦1-11-11
電話:03-3451-1647
定休日:日曜・祝日
営業時間:11:30~13:20 17:00~23:00
東京都港区芝浦1丁目11−11
次の店は線路の向こう側に戻っての三田方面になるわけだが、一旦休憩を兼ねえってことでなんとなくの歴史散歩となる。ということで芝浜、芝5丁目交差点を過ぎ一気に札の辻交差点まで歩く。この交差点は「札」とあるようにかつて高札場(官報掲示板)だった場所である。もうちょっと下ったところに東海道への出口だった高輪大木戸跡があるが、江戸初期はもうちょい内のここが江戸の外れで芝口門ってのがあったんである。
外れの場ってことで当然のように処刑場もあった(後に鈴ヶ森に移動)。この地で行われた処刑で最も知られているのが一気に50人が火刑となったいわゆる江戸の大殉教ってやつだ。その札の辻刑罰場跡に今はキリシタン史跡があるってことで、とりあえずそれを探してみようってことになる。酒場巡礼の途中にキリシタン殉教地を探すってオマエラ馬鹿か、馬鹿なのか。
まぁ目印くらいあるだろうと、高田純次ばりの適当さで歩いて行くがどうもそれらしきものがない。三田ツインビル西館前を通り、途中の八幡神社の境内を探したりしてもしてみたんだが全く見当たらず、援助交際をもみ消した人がオーナーのビルの前辺りまで来て(ここまで来てるのに向いの笹川記念会館のことは忘れてた。銅像は後日CUE氏撮影)何か過ぎちゃってねと両者iPhoneで確認してみると、どうもツインビルの敷地内にあるらしい。
戻ってみるとツインビル横奥に階段のようなものがあるので登ってみるとビンゴでそこに「都旧跡・元和キリシタン遺跡」があった(当日は酒入った状態で暗い中を歩いています)。途中特に目印も無いしこりゃ狙ってこないと見つからないな。登った階段を振り返ると結構な高さがあって第一京浜がよく見える。なるほど見せしめってことで見渡しのいい高台で執行したわけか。当時の公開処刑は娯楽でもあるしね。今は周りがバブル紳士・淑女の街ってのは何か皮肉だなぁ。
火刑では火がまわる前の煙で意識を失うのが通常らしいが、海沿いのこの地では煙が海風で流されるため、生きながらにして焼かれることになるらしく、後の鈴ヶ森周辺では火刑のある日は叫び声が周辺に響いたそうだ。当時の(キリスト教をめぐる)状況と倫理観は違うからまぁそのあれだ。この元和の江戸大殉教に関して深く知りたいって人は確か遠藤周作が短編を書いているのでそちらでどうぞ。モノズキ的にはこの処刑の現場を取り仕切ったのが品川非人頭松右衛門の祖である浪人・三河長九郎だったいう辺りは押さえておきたいところかな。
目的のものを見つけて満足したところで札の辻に戻る。ここで江戸期のJR田町駅周辺の地図を見てみよう。田町駅三田口が地図だと伊藤修理の屋敷の辺りに当たるんだが、その向かいに稲荷神社とくっつく形で三角という区画がある(あんま三角には見えないんだが)。ここは江戸の頃は三田の三角と呼ばれ、周辺の横新町や三田同朋町をひっくるめて岡場所だったところで、ネタ的に現在ではかけられることもなくなった落語「出世夜鷹(塵塚お松)」の舞台になるようなあまりグレードは高くはないけれども結構繁盛していたっていう場所だったらしい。川柳もいくつか残っていて「三角へ丸と四角の客が来る(頭を丸めた坊さんと頭の固い田舎侍が来るという意味)」なんてのがある。それにしてもこの辺りって地図的には江戸時代からあんまし変わってないのね。
今この辺りが飲み屋街になってるってのに歴史の連続性あるのかどうかは知らんが、次の酒場はこの旧三角の慶應仲通り商店街にある串揚げ「たけちゃん」だ。しっかしこの辺りに夜来たのは初めてだけど、こんなにリーマンと学生でごった返すとは知らなんだ。CUE氏も仕事飲みだと大体この辺になるとのこと。串揚げ「たけちゃん」はこの通りに入ってすぐにある店で、大阪平野の店から暖簾分けしたきた本格大阪スタイルの串揚げ屋だそうである。串揚げ屋は結構増えたけどわざわざ向こうから暖簾分けしてきたってのは珍しいのかな。こちらは馴染みな感じの店構えなんでサックリと入店と。
入ってみると立ち飲みオンリーかと思ったらちゃんと椅子席もある。そんな遅くに入ったわけじゃあないんだが、もう店も常連さん達もほとんど終盤戦のようである。早いな。カウンターに陣取り、とりあえずビールと串揚げ8本おまかせってのがあったので両者ともそれを頼む。と、女将さんと思われる女性が自分達の前の箸置きに色の付いた箸を立てる。これが後で精算に役立つらしい。
ビールが来たと思ったら串揚げもガンガン来る。もう椅子席の人間は酒飲んでダベってるだけなのでがっつりと注文してるの自分らぐらいなのだ。バットに入ったソースにくぐらせ(当然二度漬け禁止)揚げたてを食うってのは説明せんでもどんなもんか分かるよね。いやー最高。店主が寡黙な感じで黙々と揚げてるのも良い。ほどよく客がほっとかれてる感じで。
どんどんと揚がってくる串揚げの合間にソースバットの奥にあるキャベツぶつ(自由に食っていい)をカジって口の中をさっぱりとさせながらやっつけていくといくらでも食えるのでキケンである。しばらくはレポのことなんかはすっかりと忘れて食い続けていた。
数本食べて脳内麻薬も安定してきたんで串のぐあいをチェックしていくと、衣がサックリ揚がっているのに妙にやわらかく、どうもこの辺は串揚げの本場大阪秘伝のもんらしい。山芋混ぜるとかいろいろあんだろうね。すばらしいのはこんだけ良い立地で繁盛してるってのに、しっかりチープな辺りを守っているってこと。ハムカツはハムを重ねたもんだし、ウインナーは昔懐かしいやっすい味のするものだ。
残念ながら今回もう店が終盤戦だったのであんまし串が残っていなかったんだけど、数日後に一人で来ちゃったCUE氏によれば芋とシュウマイは外せないとのこと。どて焼きも最高らしい。
怒涛の8本コースも終わり残っている串をいくつか注文しつつ、ゆっくりと店内を見渡してみる。立ちありの串揚げ屋ってのはハードボイルド系ってことになるんだろうが、椅子席もあるっていうそんなにカリンカリンは方向ではなく、結構女性客も多い。自分達の後ろの壁を見るとズラッとサインが並んでいて、店主夫婦のイラストが入った時計も一緒に並んでいる。サインの中に飯星景子や高嶋政伸、眞鍋かをりのような何かいろいろあった人がいるのもポイントが高い。この店にはそういうイイ意味でのゆるさがあって立飲み特有の変なハードルのようなものが全くない。一人でゴチャゴチャ考えないで来れるってのはすばらしいよな。
店員さんも店主夫婦の息子さんなのかは知らんが、細眉の城南ハスラー見習い風あんちゃんと慶應合コンヤサ男風あんちゃんという全然違う系統が仲良く接客してて、そういう辺りでも店内の雰囲気がやわらかい感じになっている。
といってるうちにもう揚げる串が無くなってしまったようで、よく分からないドライブ感を抱えたまま店を出ることになっちゃった。上の串を見てもらえば分かるように結構行ったけど一人二千円くらい。安っ。まぁラストスパート的にピッチが早かったんだけどね。しかし、気持よく飲んで食えたけど、串が揃っている早いうちにもう一度来なきゃ駄目だろうなぁ。串揚げ「たけちゃん」はそういう決意がグラグラと沸き上がってくるようないい店でした。
串揚げ「たけちゃん」
住所:東京都港区芝5-20-19
電話:03-3451-0488
定休日:土曜・日曜・祝日
営業時間:16:30~22:00
東京都港区芝5丁目20−19
というわけで、今回の酒場めぐりは終わりになるわけだけど、とにかく気持よく飲めたってのが全体を通しての感想。これにピッタリきて、マクラにもつながってる文章が故・杉浦日向子女史の『江戸アルキ帖』にあったので最後にそれを引用してシメとしたいと思う。
芝の辺りは住んでみたいと思う。
江戸湾から、日本橋までの海側の地域は、なんとなく明るい。人々も、どこか、サバサバしているようだ。目前のひらけた景色、ことに、水平線から昇るお天道様に、毎日、かしわ手を打って暮らしていると、そんなふうになるのかもしれない。
―芝で生まれて神田で育つ―というのが、江戸っ子の理想だ。幼児期を芝の明るい環境ですごして、少・青年期を、最も江戸らしい町、神田の活気の中で育つうちに、サッパリして、クヨクヨしない、早とちりでケンカっ早い性格が出来上がるのだろう。
伊皿子町から田町の屋根と、芝浦を見ながら、この景色は、やっぱり「江戸前」だ、良いものだ、と思った。
写真協力:CUE氏
追記 2014年5月1日
というわけで、また田町をウロウロしたので追記っつーわけなんだけど、まずは訂正から。
岡場所「三田の三角」の三角があんまし三角に見えないって問題あり、どうも場所が違うんじゃね?ってのがあったんだけど、正確な場所はやっぱり違ってたんだね。イナリの場所と大きさから、ここかいなと思っちゃったんだけど。
で、矢印の場所がそう。名前通りに三角形に尖っているトコロ。地図だと「有浦」って武家がどーんとあるんだけど、この地図は時代が新しかったんだな。「三田の三角」は天保の改革で取り潰しとなるんだけど、その年は天保13年(1842年)。この地図は安政4年(1858年)に刷られたものなんで、十年以上の誤差がある。有名な切絵図なんかもこの時代のものなんで、この時代ベースの地図が結構多いんだよね。「三田の三角」が潰された跡に「有浦」氏が越してきたと。“江戸時代”っつっても長いんで、結構入れ替えはあったんだな。
で、その「三田の三角」の詳細は上記のごとく。かなり狭い岡場所だったってのが分かると思う。ここが“公式”な岡場所で、周辺にチラホラと私娼をやってるのが~って感じだったんだろうね。なお、値段は右の切見世(局見世、ちょんの間のこと)が一切り(15分くらい)百文(1500円くらい)、左の大見世(キチンとした格式がある娼家)だとお遊びは一分(4万くらいか)、泊まりは二分っていうから、右と左でモロモロ天国と地獄だな。
隣の水野家下屋敷ってのは、実は岡場所を取り潰した方の水野忠邦が出た水野家だったりする。というか忠邦、すぐ隣の“三角”を見ていて、岡場所を嫌悪していたんじゃ無かろうか。なお、この水野家の下屋敷は赤穂浪士がお預かりになった場所であり、どうも跡地辺りに説明板のあるようなので、今度見てみよう。
さて、ウロウロ前の燃料補給ってことで「たけちゃん」へと。やっぱり時間が早いとネタがイロイロあるんだなと関心したりしたんだけど、今回は隣のオッサン達が面白すぎた。
二軒目か三軒目で流れて来たらしき、50代くらいの社長(やや天知茂風)と専務(上田吉二郎風)のコンビだったんだけど、専務がベロベロ。「オ○ンコ」連発するわ、「韓○人は嫌いだ!」ってシャウトするわ、「一緒に飲んでる奴はみんなファミリー」とか言い出すわ、愉快痛快だったんだけど、帰り際に社長がキチンと「ご迷惑を~」と挨拶したりして、多分仕事がメチャクチャ出来る人なんだろうと、コンビが帰ってからCUE氏と話し合う。韓○人が嫌いってのに全くヘイトな響きがしなかったので、多分そっちも含め海外で仕事してるプラント系のなんじゃないかなとか(実際嫌な目にあってる)。
そして、食い終わってからは芝浦散歩。
港区スポーツセンター横の船溜まりが埋め立て中だったり、さらにその横の空き地にデカイ病院が建設中だったりと、変化はそれなりにあるものの、運河なんかは昔通りで、その景色を見ながらの、海風を感じるってのはナカナカ気分がよろしい。
それにしても、ここらもタワーマンションがドシドシと建って、エセ金持がドンドン増えているようで、その下に港湾労働者達の汗の匂いが封じ込められていると思うと、何か面白さを感じる。このタワーマンションが放出しているナニカは郊外型の建売住宅地の生活感の無さに似ていて、埋立地特有の生活感の無さと掛け合わさって、妙な雰囲気を醸し出している。この辺は一度シッカリと考えてみたいもんである。
そのままウロウロして、あるラーメン屋の前に来ると、CUE氏が「ここのラーメンは(銀河鉄道)999に出てくるようなのだよ」というので入ってみることにする。というか、名前は「斬鉄剣」なんだけど。
ラーメンと一緒に頼んだビールを飲みながら店内を見渡すと、一人飲みしているリーマンや妙齢の女性が居たりする。後で聞いたらおでんとかも美味しいらしく、これから変える配送系の人や帰ってきたマンション住人がそれなりに入っているらしい。
やって来たラーメンは確かにレトロにオーソドックス。というかナルト乗ってるラーメンなんて久しぶりだ。スープも東京ラーメンらしくさっぱりと、飲んだ後にもやさしくてよろしい。こういうラーメン、昔出前やるような蕎麦屋で出してたりしたんだよなぁ。
と、灰皿を見ると全然別の店だったりする。カウンターの一部が屋台風になってるのも含め、なんだかユルい店なんである。仕事帰りに寄るには気が張らなくて良いだろうね。
食い終わって、向かうのは芝浦花街方面だ。ヤナセ帝国からジュリアナ東京跡を通って、置屋跡で営業していた割烹「い奈本」はマンション変化して、その一階での営業している。それなりに元花街の風情も残しつつって感じか。繁盛もしているようで、なによりである。
ここで見番は大丈夫なのかと心配になったが、無事であった。といってもまだ檻の中状態なので、結局どうするのか決まってないのね。とりあえず、残ってただけでも良しとしましょうかね
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