思春期の頃から役立たずに生きたいと思って今まで来た人間なので、どうも読書傾向というか本を買うときのスタンスもそういった感じになってしまう。なんで、ご立派な小説を読んで人間性を深めたり、ポジティブなハウツーものを読んで小器用になったり、ハイブローな方々が注目のトレンド本を読んでナウになったりするのは自分からすると邪道だ。ある意味“無償の行為”といった辺りで行きたいわけである。
ということなので妙な読書量の多さ(アマゾンで1円本を買うようになって更に拍車がかかっている)に比して、それら頭の中にぶち込んだものが日常において繋がってくるということは滅多に無い。~無いハズなんだけど、今回は珍しくアレヤコレヤと繋がって行っちゃったのがネタとなっております。始めは何かのマクラにでも突っ込もうと思っていたんですが、余りにも長くなったので独立させることとなりました。んなわけで、以下よろしく。
確か以前のCUE氏との芝浦・三田での飲みの後、もう一度串揚げの「たけちゃん」に行きたいという話になり、何時もの様に適当な場所で落ち合って、やはり適当な会話をしながら店へ向かう途中にだったと思う(まだ5月だったか)。世界貿易センタービルの南にある辺りは関東大震災前までは貧民街だったらしいという話をなんとなしに振ったのだ。と、そこは昔(CUE氏の)バアさんが住んでいたところだよという返しから、じゃあ飲む前に行ってみようという流れになったんである。
東京都港区浜松町2丁目9
第一京浜、首都高、そしてJR線に挟まれ、ちょうど真四角といった感じになっている浜松町二丁目の下半分に当たる場所は明治期には芝新網町という名前で、四谷鮫河橋(現在の新宿区南元町辺り)、下谷万年町(現在の上野郵便局周辺)と共に東京の三大貧民街の一つだった場所である。
新網町というくらいで江戸の初期に網干場として開かれた“漁村”だったようだが(真ん中に入堀もあるしね)、江戸の中心へのアクセスの良さやらもあり、早いうちから町人達の流入があったらしい。問題はその流入してきた“町人”の素性。どうも漁民のマレビト信仰的なものからのルーズさなのかもしれないが、近くの増上寺を追い出された破壊坊主を皮切りに、願人坊主を中心とした当時は身分的に最下層とされた芸能系の人々が多く住み着くようになっちゃったのだ。当然ながら貧しい彼らが集まってくれば街の色もソッチ寄りとなる。
といった流れで江戸の頃からソコソコな“貧民街”ではあったらしいんだけど、仏教的施しと共に「宵越しの銭は持たない」なんつってなんとなく生きて行けた時代である。まして彼らも当時は(最下層とはいえ)社会制度の中に組み込まれていた人々だ。そんなわけで、漁民のルーズな開けっぴろげさと芸能民のしたたかな明るさを併せ持つ、貧乏ではあるけれど(漁民も基本その日暮らしなのは変わらない)ある種の風通しの良さがある街だったようである。落語の「井戸の茶碗」の貧乏浪人なんかも始めはここに住んでいる設定だったらしく、そういう“ご存知”のという場所だったわけだ(黙阿弥、幸田露伴の作品でもそのように扱われている)。
それが暗い色調に変わるのは明治維新。それまでの社会制度が崩壊したことによりその下層で生暖かくそれなりに暮らせていた人々が全て“貧民”となってしまったのだ。彼らが流れこむのは当然のように都市部のルーズで入り込めそうな場所ってことで、芝新網町は明治に入ってから本当の意味での“貧民街”になって行ってしまう。そして、新政府が作った海軍関係の施設から残飯を運び込みやすい立地にあったことから三大貧民街の一つとして完全に固定化していくのである(ちなみに四谷近辺は陸軍関係の施設が多かった)。
ただ、どうも芝新網町は他の二つと違い、それまで住人であった漁民系と芸能系の人達はそのままどんと来いと住み続ける人も多かったようで、貧民街であるけれど同時に下町的なところもあるという多層的なトコロ、まぁ江戸の頃の風通しの良さはそのまま残った部分もあるようだ。実際、その風通しの良さから「かっぽれ踊り」作った豊年斎梅坊主(元々願人坊主出身)や第一京浜を作った政治家の後藤新平が一時的に住んでいたこともあったらしい。
この貧民街としての芝新網町、というか明治の三大貧民街は関東大震災で完全に崩壊する。そして貧民達は北は南千住・三河島・日暮里、南は品川・大崎・大井町という当時の郊外、というか場末へ移動していくことになるのである(人口的には北が圧倒的)。といった感じで芝新網町はその後普通の~その後も芸能系が多く住み祭り等に妙に気張るようなトコロがあったらしいが~下町オンリーな場所に変わることとなり現在に至ると。
と、その旧芝新網町に到着すると夜ということもあるのか結構店はあるのにどうもイマイチ人のニオイがしない。まぁ今の下町はどこもこんななんだけどね。ややウロウロした後にスマフォで地図を見るとちょうど街の中心辺りに稲荷神社があるようなので何か古い残り香的なものがあるかもしれんと、とりあえず行って見ることにする。
到着すると鳥居が横に二つ並んだ妙な造りの稲荷である。中にパンフ的なものが置いてあったので読んでみると、讃岐と小白の二つの稲荷が合祀されているこの讃岐稲荷神社・小白稲荷神社は、讃岐稲荷は明治の始めの大名屋敷の整理で、もう片方の小白稲荷は昭和になってから区画整理でこの街に来た、というか引き取ったものとのこと。元々ここにあったわけじゃないんだ。縁起良いんだから、他でいらねえならもらっとけよってのはこの街の歴史そのまんまというかなんというか。
社が一つで賽銭箱と鈴が二つずつってのも面白いんだけど、まぁ神社自体はいい。思いっきり気になったのは神社外柵に並んでいる寄進者達だ。「間組」「神明芸妓組合」「神明三業組合」なんてのはお約束ってことでいいんだが、「鶴田浩二」「伴淳三郎」「水原茂」ってのが並んでるのはなんだ?正直こんなところに、というかこの街の歴史的な流れでご縁があったんだろうか。CUE氏は近くにあった日活アパート絡みじゃないか、と。なるほど。
ちゃんと確認しつつ、ずずっと見ていくと左手の真ん中の寄進者にガシーンと来るものがあった。「銀座 おそめ」。こりゃ川口松太郎が小説『夜の蝶』(吉村公三郎監督で映画化もしている)でモデルにしたバーマダム・上羽秀のやってた店じゃね。というか他に並んでいるメンツからしても絶対に間違いは無い。いや~、こりゃあ面白くなってきた!
上羽秀は超人気芸妓(芸妓名・そめ)から転身して京都・木屋町にバー「おそめ」を開店。芸妓時代からの上客(政治家の大野伴睦・西川布団社長等)に加えて、映画界(小津安二郎・川島雄三等)やら文壇(上記川口松太郎・大佛次郎・川端康成等)やらの文化人やら集まる一種のサロン的な人気店に。その余勢をかって銀座にも進出してややこしい上客(白洲次郎・三浦義一等)も獲得。当時はまだ珍しかった飛行機で羽田と伊丹を往復したため「空飛ぶマダム」なんでマスコミに書かれた伝説のバーマダムである。
とザッと書いていくと何かギラギラした人物を想像してしまうが、石井妙子著『おそめ』 なんかを読むと天真爛漫ではんなりとした京女といった雰囲気、そういうトコロからの観音様的な魅力に男達が群がる、といった感じの人だったようだ。
その上羽秀のパートナー(晩年に結婚)だったのが任侠系映画のプロデューサーとしてボンクラ方面ではご存知の俊藤浩滋だ。俊藤が四十半ばにして東映に迎えられてプロデューサー業を始めたというのはよく知られているが、それまで何をやっていたかというと~まぁ平たく言うと上羽秀のヒモである。それも妻子(この“本妻”の娘が富司純子)があるのにそれを隠して上羽秀と交際して子供を作り、それがバレてからは飄々と上羽秀の稼ぎ(本人は基本無職)を“本妻”とその子供の生活費に当てるという、パーフェクトグレード・ヒモといったような生き方をしていたんである。
その俊藤に転機が訪れるのは「おそめ」が銀座に進出して上羽秀が全てに手が回らなくなったということで店のマネージャー的な立場に収まってから。店の常連だった鶴田浩二と年近だったこともあり非常に親しくなったことから、同じく常連の東映社長・大川博に東宝からの引き抜きを頼まれ、見事成功させたことから俊藤の運命は大きく変わって行く。続けての大川の依頼で巨人軍監督・水原茂(やっぱり店の常連)を東映フライヤーズへの招聘にも成功。大川の信頼を得た俊藤は鶴田のマネージャー兼プロデューサーということで東映に招き入れられることになるのである。どうも俊藤は元々映画界への強いあこがれをもっており、京都時代からマキノ雅弘の現場を手伝いに行くなど、その機会を狙っていたトコロもあったようなんだけど。
というわけで、この奇妙な寄進者のまとめ人ってのは恐らく俊藤浩滋(上羽秀)と見て間違いないだろう、と思ったわけだ。メンツ的にね。「おそめ」の横に「銀座 鮎」ってあるのもどっちかの知り合いのバーかなんかで、他の伴淳三郎、前沖縄主席・太田政作(主席をやめた後は東京で弁護士をしていたようだ)って辺りも多分店の常連絡みだろう。そして神社との繋がりだが二人の東京での住居が日活アパートだっていう辺りかな。どちらも金銭感覚がズレていて、どうも“お金を撒く”みたいなところがあったようなんで同じアパートに居た関係者とかに頼まれたりして寄進ってことになったんだろうと想像。
といったところで今回は暗い中でいつまでもこんなことやってられんのでココマデ。帰りに芝神明神社を廻ってから飲みへとゴー。今度時間が空いた時にでも一人で写真を撮りに来てしっかり調べて見ることにすっか。当然、明るい時にね。
で、なんのかんので次に来れたのは3ヶ月後くらい後の糞暑い日。しかも、思いっきり映画の上映時間を間違えて空いた時間を利用しての再訪問である(その後撮影の為もう一度再々訪問している)。明るい時間に浜松町来るってのはモノレールで羽田に行く位だな。と、ホームから上を見ると思いっきり看板が見える。このモノレールも本来は新橋駅から羽田の予定だったのが、新橋駅前の土地権利関係のややこしさ(以前触れたこれとかコレ)から浜松町に来たもんだったりする(貿易センタービルの場所は倉庫だったのでまとめての入手が容易だったようだ)。神社よろしくなわけだ。最近も再開発で文化放送とかポケモンセンターとか色々やって来てるしねえ。
稲荷神社へ最短で向かうには金杉橋口から出るのがよろしい。いかにも後から取ってつけたような感じなんだが、CUE氏によれば浜松町駅には南(旧芝新網町の方)にちゃんとした改札口が無いということで住民運動的なものもあったそうである。浜松町駅ができたのは明治なわけだけど、やっぱり貧民街があったみたいな理由で改札が作られなかったみたいなトコロもあったりしたんだろうか。
出てすぐに向いにあるのが渡邊ビル。昭和6年(1931年)に大林組が設計を請け負った建物だそうだけど、いかにも震災後の復興建築といった感じのモダンな建物である。街の歴史という点でも象徴的な建物となっている。一部に瓦屋根が使われていてプチ帝冠様式になっているのが面白い。よく映画やテレビの撮影に使われるなんて聞いていたが、ちょうど屋上で映画らしき撮影をしていた。
とっとと神社に到着。改めて寄進者やらをちゃんと見ていくことにする。どうも異形の寄進者達は前の目立つ辺りだけで、他は地域と関係のある、例えば“め組”とかばかりのようだ。夜に確認できなかった石柱裏の寄進年号を見てみると「昭和四十年三月吉日」とある。すでに俊藤浩滋がプロデューサーとして活動している時期だな。まとめやすい立場にはなっちゃってるわけだが~。
と、神社にもその前の通りにも人はまるで居ないような状況で撮影したり眺めたりしていたんだけど、全景を撮影しようとちょっと神社から離れてみると、どう見ても地元なジーサマが隣の家の壁に地域イベント的なポスターを貼っているのが見えたので、こりゃあ聞き込みするのに打って付けだなと、声をかけてみる。ズルっと会話を全部書いてもしょうがないのでジーサマの発言で重要と思われる部分を書きだしてみると~
「あの頃はお金出してくれるのはあーゆー人達しかいなかったんだよ。」
「この神社の親はそこの芝の神社だからそっちの関係者が多いんだよね。」
「確か伴淳三郎のがあるのは伴淳さんのアレが芝の芸者さんだったからじゃなかったかな。」
なにい!伴淳?そうか、まとめ人が伴淳って可能性もあるのか。そういや寄進者の中に「株式会社 芸映」って今もある芸能事務所があったが、あれ伴淳が取締役だった(こともあった)な。うーん。
伴淳三郎というと「アジャパー」なんかのギャグを繰り出すとぼけた味の喜劇役者、『飢餓海峡』を筆頭とした酸いも甘いも噛み分けた老練な刑事役、あるいは久世光彦のテレビドラマでの実直で腕のある職人役、といったイメージとしてはマトモなトコロが強かったりするが、実際はかなりややこしく面倒くさい人物である。
戦前から吉本興業所属のあきれたぼういず引き抜き等で暗躍、戦後もその手のブローカー的な仕事にも手を出し、東北出身でそのナマリを持ちネタにしてるのに何故か関西喜劇人協会の会長を努めたりしている。このような伴淳のコスさの被害に遭った人物として若き日(売り出し中の頃)の渥美清が居る。
「週刊誌が俺のインタビューにくるだろ。そうすっと、あの男はそばにきて、じっと俺の話を聞いているんだぜ」
渥美は苦笑する。
「頭がおかしくなってんじゃないかと思うこともある。俺に向かって『(伴淳三郎を)古いと思っているんだろ。嗤いなよ』って言うんだ」
渥美はまだ主演映画を撮っていない。だが、いずれ松竹で主役を演じるであろうことはわかっていた。それを承知の上で、伴は渥美を挑発したとおぼしい。
–中略–
その夜、渥美の怒りが限界に達していた。
「おれに向かって、いやみを言うだけなら我慢するよ。フジテレビの公衆電話を使って、知り合いの芸能記者にいろいろと吹き込んでいるんだな。おれが傲慢だとか、先輩を立てないとか」
小林信彦『おかしな男 渥美清』より
戦後、仕事が安定しても伴淳がこういうイビリや政治的立ち回りをしていたのは森繁へのコンプレックスと遅れてブレイクしたことからの時代への焦りがあったからと言われている。森繁はやや出自が似ている渥美を可愛がっていたそうである。憎さ二倍と。
その伴淳の葬式で委員長と務めたのは皮肉な話だが森繁である。まぁこの頃から森繁は葬式マスター化して葬儀委員長と言えばみたいなことになっていくんだけど。しかも上のは基本笹川良一動画ってのが悲しいな。あゆみの箱うんぬんはこの辺だろうか。なお、伴淳三郎はそういう付き合いが喧しく言われるようになってからもこういう付き合いを隠さなかった人でもある。自伝にハッキリと「神戸芸能の田岡さん、元錦政会の稲川さん、元姉ヶ崎一家の山本五郎さん、山晴の太田秋実さん、みんなわたしをかわいがってくれる方たちだ。」なんて書いっちゃっているのだ。隠さないことで周囲にある種の威圧を与えるってのは、まぁ気が小さかったんだろうねえ。上の小林信彦本には「戦後、伴淳三郎をスターにした斎藤寅次郎監督が、ぼくの家に来て話したところでは、彼を<使わざるを得なくなった>裏話があるのだが、ここには書けない。」ってくだりもあるが、十中八九このあたりの事情だろう。
というわけで、確信していた俊藤浩滋(上羽秀)まとめ人アングルへの確信がどうも怪しくなって来ちゃったのである。伴淳の人脈からの「おそめ」ルートってのもあり得るもんなぁ。伴淳(笹川良一)から上羽秀(三浦義一)っていう右翼の大物繋がりかもしれんし。
一応説明しておくと晩年の室町将軍・三浦義一は上羽秀にご執心だったそうで、金銭感覚が破滅している“おそめ”の為に不動産購入の口利きをしたりという繋がり。その辺は上記本に出てくる。他の右翼の大物と違いテフロンなまま死んでいった人なんだけど、そういう部分もあったのかという。
まぁ、ともかくジーサマの話通り、芝大神宮に行きゃあ同じような寄進者的なもんがあるかもしれないと、御礼をしてとりあえず行ってみることにする。
途中大門前を通って横手を見ると、旧日活アパート敷地に建つ芝パークビルが見える。高さに比べて幅が長いんで軍艦ビルなんて異名もあるみたいだが、確かにそんなカタチをしている。
ついでに川島雄三と内縁の妻・八重司の日活アパートでの生活シーンがある動画をピックアップ。川島雄三の急死の後、同じアパートに住んでいた俊藤浩滋と上羽秀はおくやみに行った行ったそうだが、川島雄三が「おそめ」の人間とそういう関係だった時期もあったことから、冷たい対応をされたそうである。まぁそりゃそうだ。
というわけで芝大神宮だ。め組の喧嘩なんかで知られているように元々“興行”という意味では芸能系と縁が深いっちゃー深いし、祭神が天照皇大御神ってことで右方面の方々との関係もそれなりに有ってもオカシクないと言えばオカシクない。残念ながら伴淳のアレが居たという芝神明の花街はすでに昭和50年代の始めに滅んじゃってるので情報を取るのは無理だろうとなると、結局神社内に並んだ寄進者を見ていくしかないんだな。流石に上記の内容を宮司さんとかに聞くのははばかれるし。
まず迷惑料として賽銭をした後、境内のあちこちにある寄進者の石碑やらをしつこく見ていく。それにしても最近若い女性が一人で神社に来て熱心に祈っているのをよく見るようになったがスピリチュアル的な流れなんだろうか。とか考えたり、関係ない力石(力自慢の興行もやっていたとのこと)を眺めたりしつつマメに探してみるが、ねえ!地元の人ばっかりだな。当てが外れたかもしれんと、神社の階段を降り始めると、鳥居裏にも寄進者の石版が貼り付けてあるのが見えた。と、あまり期待しないでソッチに近づいていくとあったんである。多分発見した時、自分はニヤニヤしていたと思う。
俊藤浩滋と伴淳三郎が並んで居るううううう。しかも他全員任侠系いいいいい。スゴイんだけど、黒い石に彫られてるんで分かりづらいじゃろと思い図にしてみた。
俊藤浩滋が京都ってのは基本の住まいはそうなんでまぁ分かるんだが、伴淳が右に同じで京都ってのはなんだよ。関西喜劇人協会会長って辺りか。というツッコミはともかく、まぁなんといっても任侠系の方々のメンツの華々しさだ。芸能でも国粋でもなく任侠だったんだね。一人ひとり触れていけばカラクリも見えてくるだろってことで右上から順に。
「錦政会 稲川裕芳」
書かんでも分かるだろっていう後の稲川聖城(本名・稲川角二)、稲川組を作った初代会長である。映画『修羅の群れ』主人公のモデル(プロデューサーは俊藤浩滋)。
「松葉会 藤田卯一郎」
松葉会会長であり、若い頃から“不退の軍治”と呼ばれ、晩年まで多くの者に畏れ敬われたそちら方面での有名人。茨城出身が影響(水戸藩からの流れ)しているのか政治活動にも熱心であり、岸信介に協力して反共の為に組員を出したりしている。ということで児玉誉士夫とも近しかった。
「国粋会 森田政治」
日本国粋会初代会長。“独眼竜の政”の通称もあったやはりそちら方面での有名人なんだが、藤田と同じく反共的な政治活動に熱心なであり、いわゆる「反共抜刀隊構想」の中心人物の一人でもある。
「住吉会 磧上義光」
住吉一家四代目総長。住吉会(旧)会長。(旧)となっているのは住吉会は一度解散して住吉連合会になり、平成になって住吉会に戻っているから。同じく政治活動に熱心であり、こっちも同じく組員を動員して岸信介に協力している。
「神戸 松浦繁明」
神戸で一匹狼と恐れられた人物で昭和28年に松浦組を立ち上げ。ボンノこと菅谷政雄と俊藤浩滋とは幼馴染である。後に住吉連合総裁・堀政夫と近しくなり、その関係からか現在松浦組は住吉会と親戚縁組している。「おそめ」の関連人物である京都のフィクサー・山段芳春とも関係が深い。
「名古屋 高山実」
現在名古屋市中村区に本拠に置く高村会の二代目。イマイチ名古屋のソッチ方面は不案内なんで細かくはよう知りません。
「名古屋 松波鉦之助」
後の導友会の中核となった三吉一家の六代目。やはり細かくはよう知りません。
ここで例の二人はすっ飛ばして~
「発起人 阿部重作」
住吉一家三代目総長。住吉一家を中心に前進となる港会を作って住吉会を近代化させた立役者である。三代目になる前には芝浦で代貸していたようで(住吉一家の始まり自体芝浦だったり)、地元に馴染みがあるっちゃーある人物である。
「発起人 波木量次郎」
さて最後に控えしは~となるわけだけど、住吉会波木一家三代目総長で阿部重作の右腕だった人物。“波木量次郎”となっているがどっちかというと“並木量次郎”と表記されることの方が多い。以前紹介した新橋の“カッパの松”こと松田義一が兄事していたことから、新橋事件で松田芳子の三国人撃退に協力したりと色々とご活躍。任侠方面だけではなく、何故か犬養健(造船疑獄で指揮権発動したことで知られる)の秘書をやっていたこともあり、政治絡みの人脈(上で出てきた児玉誉士夫・白洲次郎等)がしっかりしていたため、同業者からは「先生」と呼ばれていたそうである。
波木のことを「先生」と呼んだ業界がもう一つ。芸能界である。別に建設会社の顧問かなんかを勤めており、そっちの名義でタニマチとして結構知られていた存在だったようだ。そして建築会社ってのはナント間組。稲荷に寄進者としてしっかりとあったな。
ここでもう一度稲荷神社に戻ろう。讃岐神社の方の入り口、明治座と向かい合うカタチで「波木~」と最後の文字が削り取られたような石柱があるのだ(上の画像矢印)。これは「波木組」なんだろうと思う(“一家”かもしれんのだけど、まあ同じってことで)。偶然削り取られたのか、それともって辺りが非常に面白いんだけどね。
さらに、トドメとして波木量次郎の出身地は芝神明、組の本拠地は浜松町なんである。しかも、波木組は現在もこの地で存続している。こりゃあキマリだね。俊藤浩滋も伴淳三郎もホンモノ出てきちゃあ役者不足だ。本当の寄進者まとめ人は波木量次郎ってことで間違いないだろう。両者はそれに協力ってカタチだな。明治座ってのもタニマチ絡みの寄進だって考えると非常に分かりやすい。
あ~全部スッキリした。というかあのジーサンに感謝だな。
それにしてもこの鳥居裏の寄進者リストは色々な面で資料的に面白いもんだね。メンツがグランドパレス事件の人間とかぶるカタチで対山口組的意味合いが強かった関東会(後の関東二十日会)の中心的人物達なんだよね。名古屋はよく分からないけど、昭和38年(1963年)当時は山口組傘下じゃないだろうし、そういう点でも興味深い。細かく照らし合わせていくと色々出てくるもんがありそうだ。
俊藤浩滋と伴淳三郎に関しては、伴淳はともかく俊藤浩滋は“半分そっちの人”なんて言われつつも、役者なんかのザ・芸能人と違って基本裏方の人なんで、(任侠系の方々と)一緒に写真に写ってるみたいのが表に出てくることはほぼ無かったわけだけど、これだけハッキリと関係がアカラサマってことでもかなり珍しい資料と言えるだろうね。
別のとの絡みで再登場もあるかも。
それにしても今回は長くて疲れたがパーフェクトにスッキリしたし、楽しめたな。なんも残らんけどね。だが、それが良い。良いネタ見っけたらまたやります。というわけで以上。
撮影協力:CUE氏