というわけで、第一回の「湯島天神」。何かバタバタと急いでいるような駆け抜け方になってしまったんだけど、実のトコロ原因がありまして、引っ越す予定だったんでその前に強引にでもまとめたというわけなんですな。“住民”の間にっつーことで。しかし、何となくどの辺りを押さえたり突っ込んだりしたら良いかは分かったような気もするので、次回はもうちょいマトモになればと思っとります。
この湯島、住み始めた頃は噛んで無理矢理にでも味出してやろうと思っていたんですが、実際は口の中に入れたら勝手に味しまくりといった感じで、基本的に住めば都な考えというか、お前の中で都にしちゃえばいいじゃん的なマイものさしを使うこと無く、それなりに楽しみつつ住んでしまったというところが正直なところだったりして。
ということで、今回はまだ味が出てくる余り物というかオマケといった辺りなんですが、それほど本筋から離れずにと言った辺りで、湯島花町の西側にくっ付くカタチの「新花町」(現在の湯島2丁目)をサクッと眺めて行こうかと。
湯島新花町の名は元々この地に「大根畑」(もしくは御花畑)と呼ばれた菜園があったことに由来してる。宝永7年(1710年)に湯島花街とも主にウシロ方面での関係が深い上野寛永寺の宮様(輪王寺宮)の隠居所(御隠殿)を作るってことでこの地に場所を確保したんだけど、宮は移ってくる前に亡くなっちゃったんで、しょうがないっつーことでそこを畑にしてしまったと。
町家の中にそういう(ひらけていて)夜には人が来ないような場所ができりゃぁ当時は当然のようにそこは夜鷹の良い商売場所ってことになっちゃうわけで(同じくの火除地のような場所もそうだったと一茶の句なんかにある)、「畠の中で袖を引くものなあに」「大根を引いたる跡でもんしもし」「五十ぞう大根持って追ってくる」なんて川柳も残っていたりして。“五十ぞう”ってのは枕代五十文の娼妓を指しての言葉なんだけど、大体当時の私娼の相場は百文(尚、これはあくまで“ご入場”前の言い値で実際はもうちょっとかかる)だったそうだからその半分っってことで、どういうのが商売していたかってのはその辺りからなんとなく分かるね。因みに当時の蕎麦代が十二~十四文くらい。いかにも場末な感じがして渋くてよろしい感じなんですが、どうも買っていたのはやはりここらから上野辺りの坊さん関係者(寺男とか下々な方々)だったようで。上は男で下は女とイソガシイことで。
問題は夜鷹ってことで花街との関係はあるのかというのが気にもなったりするんだけど、実はこの「大根畑」、その後40年ほどで畑関係者は駒込に移動して、「新町屋」という町家になっちゃうんだよね。新花町ってのはこの“新”と御花畑の“花”をくっつけたもんなんである。が、その“町家”ってのがアレで、どうもその長屋をさらに細かくしてちょんの間(切見世)として稼働してたようなんだな。いわゆる「座り夜鷹」って奴。どうもこの場所、その流れで続けて「大根畑」と呼ばれ続けたらしい。ということで、どうも「大根畑」イコールそういう場所みたいな定評というかイメージがしっかりとあったようだ。上の川柳もこの頃のものも混じっていたりする。
果たして、それがさらに湯島の花街と連続性があるのかっていうと、残念ながら資料を当たってみてもチト分からないんだよね。湯島の座敷に連れてきても正直安すぎるという。ただ、そういった辺りでこの土地は湯島と本郷に挟まれた“安い”土地でとしてのイメージを明治になっても引きずることに、というのもチョイとあったようだ(後でふれる)。
と、簡単に昔々を探ったところで、まず紹介していくのは花街の真隣にある湯島小学校である。前にちょっとふれたがこの小学校が真隣にあったということが花街衰退後に猥雑な方向に行かなかったという大きなファクターとなっている。風営法で商業地域であっても50mの制限距離があり(東京都の場合)、そっちの方面の店は営業できないかんね。花街的なものが静かに消えていくことになった要素でもあり、残り香が上手く残ることになった要素でもあるということで、良かったんだが悪かったんだがって辺りなんだけど。
この小学校は歴史も古く明治5年(1872年)に明治政府が近代的学校制度を定めた教育法令を出す以前、江戸時代の寺子屋からという続くという、都内の小学校で一二を争う歴史があったりする。百周年の記念式には皇太子時代の現天皇が来ていたり、卒業生には長岡半太郎や横山大観といったビックネームなんかも居たりと。
今回はその歴史の中で、特異な建築様式というか、建築思想で作られていた一つ前の旧校舎にふれておきたいんだな。現在の湯島小学校の校舎はとくにコレといって面白くもない普通の校舎なんだが、その旧校舎はいわゆる震災復興小学校ってやつで、同時に避難場所としての公園用地を確保すべしという当時の“東京市”の意向で公園と同化しているという面白いカタチをしていたんである。戦後になって盛んになる学校を地域社会のふれあいの場所っていうヤツの先駆けっつーわけなんだな。まぁ、宅間守の出現で今じゃ完全にワヤになったムーブメントなんだけれども。
上が大正15年(1926年)、落成当時の平面図。震災の復興計画の理想主義が非常に分かりやすい建物ってことでそのまんまで残してもらいたかった辺りなんだけど、やはり校庭が狭いのは問題であったのか14年後の昭和15年(1940年)には公園部分が運動場として潰され(公園は向かって北の敷地に移動)、さらに講堂部分が体育館建設のために昭和41年(1966年)に壊され、昭和のオワリである昭和63年(1988年)に校舎も取り壊されてしまったようだ。
復興小学校は下の黒門小学校もそうだけど結構残っているわけでとっとと壊された事情ってのは関係者じゃないのでイマイチよーわからん。復興小学校としてはカナリ早い時期に建てられたものなんで、突貫だったか耐震性とかに問題があったのかもしれない。
北に移った新花公園は平日はタクシーの運ちゃんの休憩所(トイレがあるんで)となっている。妙に味があるクジラの遊具があるんで近くに来た方は是非覗いて見てほしい。
公園を見た後、小学校校庭側の道路に移動すると向かいにドーンとデカイ寺院が見える。真言宗霊雲寺派総本山である霊雲寺である。徳川綱吉と柳沢吉保のコンビに大事にされて関東における真言律宗の中心として結構な伽藍があったそうだが、関東大震災と東京大空襲と二度共に火災に大当たりして残念ながら当時からの建物は残っていない。この辺、空襲なんかじゃ結構焼け残った場所なんだけどね。入口の標柱もヒビ入っとる。二度火災にあってるからか、現在の本堂はやや要塞風である。
デカイ寺院だったこともあり、この辺の土地は結構この寺院の持ち物だったりしたそうだ。小学校も一部寺から土地買ってるとのこと。そういう妙に広い敷地に要塞本堂がドーンとあるので中に入るとややスカスカ感があるんだが、近所に猫達がそこでダベって居たりするような場所になっているので、これはコレでいいんだろう。
霊雲寺を出るといよいよ本命であるところの「大根畑」であった辺りへ、となるわけだがその前に旧「大根畑」出身の著名人を一人紹介しておきたい。映画監督の溝口健二である。
溝口健二が明治31年(1898年)新花町で生まれたってのは大概の溝口本に書いてあるんだけど、そこがどういう場所であったのかふれられることはまず無い(というか映画評論家はそういうのに興味が無いんだろう)のでここでキッチリとサワッておきたいんである。
さて、その(当時の)溝口家がどういう感じであったかは(特に名作中心に)脚本を担当した依田義賢の溝口伝記本にこのように書かれている。
家は大工職で、お父さんの善太郎さんはお人好しで、世渡り下手だったので、溝さんが小学校へ上がる頃には浅草の玉姫町でひどい貧乏ぐらしをしていたといいます。
世渡り下手が住むくらいって辺りでどういう街だったか分かるっつ―もんだ。なお、同じようなカタチで島崎藤村もこの街に出たり入ったりしている(『春』に「湯島の家は俗に大根畑と称するところに在った。」とある)。と、言うわけでモロモロの性格が形成される上で大事な幼少期にこの旧「大根畑」で育ったというのが分かるわけだけど、問題はその後の浅草に移ることになる原因だ。これは溝口自身が依田にこう語ったことがあるらしい。
おやじというのが、いわゆる、江戸っ子によくある奴で、意気地がないくせに大きなことを夢みて、失敗するんだよ。いつまでも大工ではうだつが上がらないと思ったんだろう。日露戦争の戦争景気をみて考えたのが、兵隊の雨外套だ、ゴムびきのね。どうして金を作ったのか知らないがその製造をやったんだ。それはいいんだ。なかなかうまいアイデアだったんだが、それが君だめなんだよ。手遅れなんだよ。いざ売りだそうという時に講和さ。どうだい君。
この損害をどうすることも出来ず、浅草に引っ越すことになってしまうのだ。玉姫町というのは現在の山谷のドヤ街であるところの玉姫稲荷神社の辺り。『あしたのジョー』でジョーと丹下段平が始めて出会う場面の舞台だな。まぁ当時からそういうトコロだ。さらにこのことで姉が芸妓になって家族を支えるということになる。進路的なものを含め、その後の溝口は全て姉に相談してアレやらコレやらの経済的援助を受けて育つことになるのである。
いい加減な父への嫌悪と、芸妓に身を売ることになった姉への思慕が溝口作品の根底にあるってのは、結構語られるわけだけど、この湯島花街真隣りである新花町(旧大根畑)の家庭崩壊が原点としてあるってのは、ここを探ってきた最後に突っ込みたかった辺りだったのだ。“虐げられる女性”が主人公になることが多いのも姉プラス湯島ってのをアタマに入れておくと何となくわかるんじゃねえのっていうね。
この旧「大根畑」には戦前からのものを思われる建物が結構残っているんだけど、溝口の生家跡に行く途中にも印象的な建物があったりする。生家があったのはこの建物の横の路地。
家があったという辺りは現在はナンの変哲もない静かなただの住宅街だ。近所で全てを済ませていた当時は生活物資を売る店なんかもあったんだろうけど。
ということで、いよいよシメの旧「大根畑」の中心へ。現在そこには湯島御霊社って神社がある。宮様隠居所を作る時に上野から移ってきたらしいんだけど、上記のように宮様が先にお亡くなりに~なので、畑の中にこれだけ残されちゃったんで「畑の稲荷」と呼ばれていたらしい。っつっても本来は御霊八所神社って名前で、早良親王を中心とした祟りそうな人達の霊を慰める神社であったようだ(何故か祭神に関係ない吉備真備も居るんだが)。京都から来た宮様らしい神社と言えばそうだが、江戸庶民には関係ないんで稲荷っつーことになっちゃったんだろう。「江戸名物、伊勢屋、稲荷に犬の糞」って言うしね。で、大正になってキッチリ御霊神社も改めたと。
特に周りに何もないようなトコロにポツネンとあるのでわざわざ訪れる人も居ないようで静寂に包まれている。で、雰囲気は良いんだが、失礼ながら神社自体はコレといって面白みのあるものは残っていなかったりする。恐らく「畑の稲荷」の頃だと思われる奉納の石水鉢もあるんだが、一点だけなんでどうにもならん。
が、唯一南にある参道が妙に良いのだ。
この神社坂に建っているため、南側が大谷石の石垣になっているんだが、時間の経過で変な味が出ているのである。
この坂下で溝口と姉が遊んでいたと思うと更に面白い。
オマケだけに脈略がどうも無かったけど、今回はこの辺で終わりにしますかね。このシリーズの次回は下谷っつーことになると思います。どうぞよろしく。
東京都文京区湯島2丁目11−15
溝口健二の人と芸術 (現代教養文庫)
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当地は江戸城から見て鬼門であった為、円満寺、御霊神社、霊雲寺、湯島天神、弁天島(不忍池)それから寛永寺と筑波山の筑波神社に向かって一直線です。
現在でも東京医科歯科大学の新しいビルがその鬼門上のラインを日本刀で切るようにして、刀のように、鬼門を切るようにして設計されています、、また、現在の国立博物館(旧寛永時)の正面から上野公園の噴水や桜並木の真ん中に医科歯科の刀のようなビルが丁度真ん中を切るようにしてそびえ立っています、、上記は国立であり誰がその様な風水上の計算を現在まで行っているのか、小生において、びっくりしています。
清水大策