“おまえらはジョークが好きらしい。見ているとまるで女学生並だ”――『レザボア・ドッグズ』
犯罪者は魅力的である。犯罪が魅力というのではない。犯罪そのものが反社会的行動の前提にあるにも関わらず、古女房の愚痴や糖尿や癌の病気自慢、はては歯医者の高額治療費に頭が痛いとかどうでもいい会話に花を咲かす、犯罪者たちのこの緊張感のなさ。まるで彼らだけでなく、その周りの時間軸すら弛緩しきっているようだ、という与太は、ジョージ・V・ヒギンズの同名小説『ジャッキー・コーガン(原題COGAN’S TRADE)』の正直な読後感だ。
ギャングの強奪とマフィアの報復の背景が、登場人物たちがひねもす延々のべつなくまくしたてる恐ろしく大量の会話の中に霞んでこちらもあやうく煙に巻かれそうになるが、突如巻き起こる血と暴力描写は、この弛緩は彼ら犯罪者特有の社会病質者的な暗い狂気の歪みであることを痛感させられる。まさに油断のならない犯罪小説だ。
似たような作風を持つ作家にエルモア・レナードやチャールズ・ウィルフォードが挙げられるが、彼らに共通するのは登場人物が性格一辺倒なステレオタイプでなく、状況や気分によって読者の予想していた展開を裏切ることだ。まったく鼻持ちならぬのである。だが、この天然というか自然体というか、彼らが描くキャラクターたちの行動原理は我々の一般社会ではごく当たり前のことだし、人間として非常に近しさ、生々しさがある。そこがかえって可笑しさだったりする。
「自然な人間の姿にこそ、ユーモアがある」犯罪小説の大家ドナルド・E・ウェストレイクが、クウェンティン・タランティーノのデビュー作『レザボア・ドッグズ』についてインタヴューでかつてこう語っていたように、『ジャッキー・コーガン』のキャラクターたちのひと癖もふた癖もある性格が、一見単純な事件を微妙にややこしくしていく展開はまさに非情なユーモアというべきノワールであろう。
閑話休題。さて、映画である。作中では、原作の大きな特徴である病的な長広舌はばっさりカットされている。とはいえ、原作の饒舌なノワール風味はまったく損なわれていない。かえって、小説的表現で肉付けされた本来の持ち味が、映画的文法に置き換えられることで簡潔になっている。
(映画的、小説的な)ノワールとは大まかに言えば、揺らぎ、である。一見、ハードボイルドと似ているような錯覚があるが(錯覚そのものもノワール的揺らぎといえる)が、ハードボイルドでは主人公の生活規範は明確であり、揺らぐことは決してない。この揺らぎとは、ブレであり、ノイズであり、自己同一性の崩壊である。
映画本作品のオープニングは、まさにノイズである。寒々とした刑務所の外、舞い散るゴミ、薄汚れたひとりの男、くわえた煙草から上がる紫煙、それらのスローモーションに、割れた声のサウンド・トラックでバラク・オバマの演説が被る。非常にわかりやすい演出、導入法といえばそれまでだが、このあとこの男を待ち受けている未来が、決してハッピーエンドではないことを匂わせる素晴らしいシーンである。
そして決定的なのは、組織のフィクサーに雇われた殺し屋ジャッキー・コーガンの登場シーンに流れるジョニー・キャッシュの“The Man Comes Around”である。世界の崩壊を歌ったこの曲のラストに登場する“死”はまさにブラッド・ピットが意気揚々と演じるジャッキー・コーガンそのものだ。これは旧約聖書からの引用を基にしている。
『・・・視よ、蒼ざめた馬あり、これに乗る者の名を死といい、黄泉これにしたがう・・・』(ヨハネ黙示録 六章八節)
救われるものなど、誰ひとりいやしない。かの死の貴公子ジャッキー・コーガンですらミソをつけられる。観客を待ち受ける本作品のラストには、この犯罪劇の人間臭く、シニカルなおかしさを感じさせられずにはいられないだろう。