神田須田町(旧連雀町) 鳥すきやき「ぼたん」 贋作御馳走帖

江戸の頃、新しく(普段着である)着物を買うということは、どうも今で言うと新車を買うくらいのハードルがあったようだ。何しろ江戸っ子は宵越しの金は持たぬってわけで、それを買う貯金ってのはまず無い。じゃ、どうしていたかというと、大概は古着を来ていたんである。税務署前でバラバラになったブルース・モービルのようにギリギリまでカッコよく乗り潰すってのが一般的だったわけだ。
では、その古着をどこで手に入れていたか、というか古着を扱う店はどこにあったかというと、最も知られていたのが柳原(やなぎわら)である。今の万世橋から浅草橋の間の神田川南岸、住所でいうと、須田町二丁目、岩本町三丁目、東神田三丁目って辺りだな。柳の木がズラリと並んだ土手(柳原の名はそこから)の下に屋台よりはちょいとマシな畳敷きの簡易店舗が並んでいたんだそうだ。ちょいと夜になると薄気味悪いような場所だったようだけど、当然のように夜鷹が出たそうで「流れの末の昼夜出る柳原」なんて川柳が残っている。昼は流れものの古着が売られ、寄るは流れものの~っつーわけだ。そういう場所だというのは、どうも江戸っ子の常識でもあったようでいくつかの落語、黙阿弥・作「三人吉三」のセリフなんかにもそのことが出てくる。
江戸頃の柳原土手
だから、というわけでもないんだろうが、この辺の店には古着屋だけではなく古道具屋や薬屋、易者に大道芸なんかも居並び、胡散臭いインチキなもの、所謂パチもんを扱う場所としても知られていたようなんである。「ふんどしが訥子(とっし)に化ける柳原」なんて句が残っているが、訥子(とっし)ってのは宗十郎頭巾というアラカンの鞍馬天狗が被っていたような頭巾で、使い古しのふんどしが頭巾に改造されて売られるような場所だったと。どうも頭巾にされているのはふんどしだけでは無かったようで~

ある日、柳原の頭巾を扱う古着屋にイカツイ侍が怒鳴り込むようにやってくる。
「この店の頭巾は、女郎の腰巻を染め直したものだというのは誠か!」
「いいえ!滅相もございません。うちの頭巾は古手ではなく、呉服屋からちりめんを仕入れて作っている新品でございます。」
「そうか。だったらいらん。」

~という、ヘンタイ日本って本当に良いですね、と、その変わらない素晴らしさを水野晴郎風に称揚したくなるような小話も残っちゃってる。と、こんな話ばっかりだとイメージ取れないと思うので、『江戸名所図会』の柳原の図とくだり、ついでに浮世絵(和泉橋からの図)を紹介しておこう。柳森神社が神田川の際にあるのを確認して欲しい。
「江戸名所図会」柳原堤(柳原土手)
柳原の封彊(どて)
筋違橋より浅草橋へ続く。その間、長さおよそ十町ばかりあり。享保年間【1716-36年】、このところ堤にことごとく柳を植えさせらる(寛永十一年【1634年】の江戸絵図には柳堤とあり)。堤の外は神田川なり、また、この堤の下に柳森稲荷と称する叢祠(そうし)あり。ゆえに、この地を稲荷河岸と呼べり(昔は、神田川の隔てもなく、この川の南北ともに、おしなべて柳原といひし広原なりしとなり)

柳原和泉はし
しかし、維新後の明治6年(1873年)になるとこの簡易店舗での営業は禁止となり、次の年には土手自体が撤去されて道路(現在もある柳原通り)になってしまう。当然ながら700本以上あったという柳の木も引っこ抜かれ、全く景観なんかは変わっちゃうのだ。
現在の柳森神社
今も柳森神社の前なんかに一応柳の木が街路樹としてあるんだけど、当時を偲ぶといった程度といった程度。まぁ、夜鷹が出そうな雰囲気は結構残っているんだけどね。なお、美倉橋の辺りから神田多町の辺りには“比丘尼”と呼ばれる短髪オカッパ頭に頭巾姿という女性達もそっち方面の商売をしていたらしく、「神田のに毛があろうなら根津の邪魔」「神田では髪より尻の吟味をし」なんて句も残っていたり。
では、明治になって古着屋はどっかへ行ってしまったのかというと、そんなことはなく、土手撤去後に古着屋が集ってしぶとく陳情でもしたのか、結構すぐに江戸の頃と同じような簡易店舗での販売が再開されている。明治に入っても庶民の懐具合は変わらず、というかプラス往来の自由な社会になったため、市場がかつての江戸オンリーってわけでもなくなり、むしろ需要は増えてしまったので、その方が良いと官の連中も判断したのだろう。そのまんま明治16年(1883年)には正式に古着市場が開設、ということになるのだ。
柳原古着市場
そして、明治に入っての大きな変化はこれだけではなく、「洋服」の需要ってのが出来たこと。元々変化自在にインチキ商品を扱っていた柳原は日本橋なんかの呉服店よりもフレキシブルにその需要に食い付き、見事モノにしちゃうのだ。以降、“古着市場”と名乗ってはいるものの、古着だけという店舗は段々と減っていき、明治の終わり頃になると既製服を中心に繊維関連の商品をアレコレと扱う店舗が400軒以上も集まる“繊維街”となっちゃうのである。今もそうだが、貧乏国の外貨獲得に繊維産業は欠かせないってのも含め、なんだろう。んなわけで、岩本町には「既製服問屋街発祥の地」なんて金属板があったりするのだ(現在は和泉橋に方に移動している)。
明治期の柳原通り
その後、柳原通りに市電がやってきたりして更に繁華な場所となり、既製の洋服が安く買えるってんで(ただしアラブ的値段交渉が必要だったようだ)東京の名所の一つとなるが、そこにやってきたのが関東大震災である。一帯は焼け野原に。ということで、綺麗サッパリとなったこの辺には大規模な復興事業計画がやって来て、昭和通りと靖国通りが出来ることになる(市電はこっちに移転)。と、市場もそれに合わせなくちゃねと、近代化していくことになるのだ。結構、機を見るに敏なのね。
東京衣類市場
繊維ものに乗っかるカタチで商売をしていた駄菓子問屋、玩具問屋等のゴチャゴチャしたもんは日暮里、浅草橋方面へ整理なんかをした後、繊維に一本化した市場取引の殿堂として、鉄筋コンクリート製5階建ての東京衣類市場ビルが完成する。場所は現在山崎製パンの本社ビルがある場所、昭和通りと靖国通りの交差点の角だな。復興事業におもいっきり乗っかったわけだ。地下には飲食店、4階にはダンスホールがあるという豪勢な造りで、床店や露店が並んでいた頃のことを考えるとエライ変わり様のような気もするが、市場の中はひとつの店が2畳という感じで、以前とあんまし変わんない売り方をしていたようである。
現在の旧柳原のボタン屋
と、繊維街としてはさらに盛り上がっていくわけだが、そこに戦争がやって来る。市場がどんどんアカンようになったところに空襲、またも一帯が焼け野原になってしまう(ビルも焼けて、別の用途に)。前の震災と違い、日本全体の話である。なんも無いのだ。焼け跡の中で繊維業者が徐々に街を復興させていったものの、市場的な場が闇市の流れから各地にバラけて日本一等の繊維市場としての地位は流石に喪失してしまうのだ。
といっても、衣食住ってのは人間生活に基本的に必要なもんなんで、高度成長へ向けて景気も良くなってくるとそれなりに繊維街としては復活、業界的な紆余曲折はありつつも今に至ると。てなわけで、現在も街を歩くとアチコチにそっち関連のお店が並んでいるのを見ることが出来るわけだ。
須田町交差点のガードレール
さて、食い物の話なのに何で長々と繊維街の歴史ナンカをやっているのかとお思いでしょうが、紹介するお店におもいっきり関係があるからだ。今回の「ぼたん」創業者である櫻井八四郎氏はこの街の羅紗(ラシャ)屋でボタンの担当をしており、店の名前もそっから来ているのだ。花の牡丹でもぼたん鍋からでも無いんだね。羅紗はこの街が洋服製造に手を染め始めてから大規模に扱い始めた最初の生地で、現在もチラホラと“ラシャ”と書かれた看板をみることができる。そして、ボタンも洋服製造に必要不可欠なものだ。んだもんで、店がある旧連雀町含むここら一帯のガードレールにはボタンがあしらってあったりする。街の歴史と店の名前が直結してるんである。ふれなきゃしょうがないのだ。
旧連雀町のシンボルでもあった廣瀬中佐の銅像
というわけで、明治30年(1897年)頃に創業した今回の「ぼたん」。しばらく経っての大正期にはしっかりと繁盛する店として定着していたらしく、大震災前の大正10年(1921年)出版『三府及近郊名所名物案内』には以下のように紹介されている。

江戸の真ん中須田町角から右に横町を入ると神田の食傷新道で名高い連雀町である。この新道へ入口で小粋な門構いの『ぼたん』と小旗を出した鳥専門の店がある。年がら年中朝から晩まで客の絶えた事がない。細長い入口を敷石伝いに入ると、数室の小座敷がある。ここの女中は一風変わっていて、筒袖姿で甲斐甲斐しく働いて祝儀などは決して欲しがらないで、世辞良く旨い鳥で御飯を食って呑んでも馬鹿げた程安く食えるのだから繁盛するのはもっともである。

評判的なものは最近と変わんないんじゃねという文章なんだが、果たしてこの辺はどうなっておるのかってのが確認ドコロと言えるだろう。どうでもいいけど現在「食味新道」なんて言われてるけど、昔は「食傷新道」だったのね。
さて、なんとか店紹介まで行けたわけだが、もうマクラは十分かと思う。この辺をキリにいい加減実際の店レポへと入ることにしよう。
食味新道からの鳥すきやき「ぼたん」
今回は主催・CUE氏というカタチであり、フラッと行くというトコロでもないんで時間厳守である。というわけで、仕事をとっとと終わらせ旧連雀町へと急ぐ。なお、メンツは以前のジャングルビアガーデンの回と同じである。CUE氏、自分、ゲスト氏だな。ゲスト氏の方は、いい加減そのまんまだと不便なのでN氏(女性)としておく。
丸ノ内線でサックリと最寄りとなる淡路町駅に到着。移動前にCUE氏よりすでに到着してるとのメールが来ていたので、駅からやや小走りな感じで店入り口に到着したが、何故かしら誰も居ないんである。
鳥すきやき「ぼたん」
ありゃ、もしかして中入っちゃってるのかと、店の入口前でメールをすべくスマフォを取り出していると、店内にN氏が居るのが見えた。しかし、どう見てもご入店ではなく、出てくるところである。どうしたのかと中に入って行くと、まだCUE氏は来ていない、というか同じく先に入っているのかと思ってCUE氏の名前出したら、同名の別のリーマン団体のとこに連れて行かれたとのこと。で、よう分からんので一旦出てきたという。いや、ここで間違いないとハズだなんて話をしていると、下足番(が居るのだよこの店)の人が怪訝な顔をしながら「ではこちら(待合)でお待ちになっては」と言われたので、素直にそうすることにする。

はて、何で怪訝な顔をするのだろうと思いつつ、下足番の人が靴を片付けるのを見ていたら、見事に革靴オンリーで、スニーカー履いてきているのは自分達だけなのであった。なるほどねと内心ニヤニヤしつつ、あぁこういう店らしいと妙に生暖かい感慨もあったりして、個人的には来てそうそうにナカナカ喜ばしい状況となる。という、あしらわれるっぷりと主催者不在というどちらもユラユラする辺りを、ガキの頃通っていた書道教室を思い出す造りの待合室で話したりしている内に、CUE氏も無事やって来てお部屋へということになる。CUE氏曰く、なんでもこの店予約は4名様からなんだそうだ。なるほどね。
「ぼたん」廊下
てっきりN氏が間違って通されたという二階席に連れてかれるのかと思ったら、一階のエラクしっとりとした個室に通される。個室には同じくしっとりというかややねっとり気味の先客が一組。金融屋とIT長者を香り高くブレンドしてみました、といった感じのゴールドブレンド紳士と、落ち着いたOL風の格好がコスプレに見えるバックでバレバレのスパークリングウォーター女子、という食品サンプルならぬ客サンプルとでも置いておいたのかと言いたくなるようなド定番カップルである。いや、カップルじゃないけどね。女子の方、ヌメっとした敬語だし。
「ぼたん」個室の欄間
とりあえず席の辺りに移動すると自分の隣りには松と思しき立派な床柱がある。後で調べたところによると、個室にはそれぞれテーマがあり、欄間がそれに合わせて違うらしいが、ここの部屋は床柱に合わせて“松”だろうか。そういや近くの「まつや(蕎麦屋)」の入り口の意匠もこんなんだったような気がする。因みにこの店の家紋は二階笠で、その欄間がある部屋もあるそうだが(そこは住居だったらしい)、どうもここじゃないようだ。
「ぼたん」個室の障子
と、皆席に着き「何か坂本龍馬みたいに暗殺されそうだよね(軍鶏鍋を食おうとしたところに襲撃されてと云われる)」「どっちかいうと陰謀側じゃね」みたいなボンクラ会話をしていると、着物を来た接客担当の中居さんがやってくる。どうも黙っていても人数分の鳥すきやきが出てくるそうなんだが、一応といった感じで儀礼的に聞きに来るらしい。
この店、CUE氏のお母さんが常連という話は前から聞いていたんだけど(「ぼたん」がボタンから来てる話もそっち経由である)、CUE氏はやってきた中居さんにその辺を話つつ(中居さんの当りがやや柔らかくなる)、今回もそっちからのプラス情報があったらしく、単品の玉子やきを追加注文する。行っとけと勧められたとのこと。なお、神田祭の時にご登場のおばあさんに、この店に行くことを言ったら「(あんたにゃ)まだ早い」的なことを言われちゃったとのこと。落語の師弟か。
しかし、本来鳥の鍋もんってのは牛のに比べると比較的お手軽だったということで“書生鍋”なんて呼ばれていたもののはずだ。何時まで経っても書生気分というか、それを超えてまっとうな社会からの逸脱感が抜けない自分達には実に正しい食い物だと言える。と、勝手に規定して己の気分を盛り上げてみる。で、飲み物はキマリ過ぎの日本酒ではなく、それらしく瓶ビールである。
「ぼたん」鳥すきやき三人前
鍋の用意ってのは意外にとっとと来る。決まりもんだからね。中居さんが軽く説明してくれるが、胸肉、もも肉、砂肝、ハツ、ネギ、焼豆腐、白滝、つくね、といったラインナップで、割り下やらも特にコレといった特徴というか特殊なところは無い。完全にモノで勝負なんだろう。
「ぼたん」鉄鍋と具(煮始め)
こちらの内面セッティングに関係なく、中居さんがズンズンと鍋をセッティングしていく。もちろんその後の鍋の取り扱いに関するサゼッション込みだ。御主人っぽい年配の従業員が持ってきた銅張り炭火コンロの歴戦の強者っぷりが大変味があってよろしい。そして、同じく歴戦っぷりが感じられる鉄鍋の耳を見てみると何故か左右で「牡丹」とある。まぁ三文字だと一文字余っちゃうからな。とか眺めているうちに、中居さんの一通りのレクチャーも終わったようで、ジャッキーに一通りのカンフー奥義を伝え終わった赤鼻師匠(CV:小松方正)のようにサッパリと去っていった。
「ぼたん」鳥すきやき(煮途中)
と、後はグツラグツラと煮えるのを待つだけだが、その時間でこの建物の歴史にチトふれておこう。つい最近、近所の神田薮そばの建物が焼失してしまい、ニュースで「ぼたん」の主人が人事じゃないみたいなコメントをしていたけど、現在の「ぼたん」の建物も薮そばと同じ、関東大震災後の建て替えだったりする。東京都選定歴史的建造物ではあるけれど、流石に創業時である明治30年(1897年)からのものじゃなくて、昭和4年(1929年)からのもんなのだ。ただ、薮そばが以前と同じような造りで建て替えたのと違い、この建物には、さっき紹介した欄間やなんかの凝った造りにプラスして、地下と厨房は鉄筋コンクリート製、さらに厨房には防火シャッター(二重)を設けてあるとのこと。どうも、当時の二代目ってのが建築に一家言あった人だったようだったそうで、火を扱うだけにその辺に結構気を使ったようだ。ついでに、外壁も当初は板張りだったそうだが、防火規制なんかもあり現在はモルタル塗になっていると。ただ、薮そばの出火原因も電気配線関係だっつー話だし、この辺は難しいですな。
「ぼたん」鳥すきやき(煮上がり)
とか言っているうちに肉がいい具合に煮えてきた。固くなる前に、と、それぞれ期待感を胸に肉を引き上げ、卵に漬けてから口へと運ぶ。一瞬全員黙った後、うーんとなる。こういう時あーだこーだ言っても蛇足となりますな。「まったり」だとか浮かぶかっつーの。味も濃い目で完全に関東のものであるのが非常に良い。ここで薄味だったら白けちゃうもんね。すき焼きに関しては関東風だ関西風だとやかましい人達もいるが、美味けりゃどっちでもいいじゃねえかと思う。ただ、東京の古い店としてはこれが正しいっつーことでね。
それにしても胸肉、もも肉のモチモチ感は尋常じゃない。濃い目の味に負けないくらいに噛み締めていくと出てくる鶏肉の出汁のようなものも普通じゃない。砂肝、ハツ方面も言わずもがなで、ちょっと笑っちゃうくらいである。
「ぼたん」個室
そんな風に、自分達が黙ったり騒いだりしている間に同室のカップル、というか同伴出勤バロム・1がお帰りあそばす。何パワーで変身するのかは知らんが。間違いなくゴールドブレンド紳士はモロモロの距離を縮めに連れてきたんだろうが、多分よく分かんない連中が隣に居たという印象が全てになっちゃうんだろうな、なんて話をCUE氏とN氏が会話するのを聞きながら、玄関の方を眺めていると(自分の席からは見えるのだ)、個室方面にはどうも他にも似たようなバロム・1が出たり入ったりしている。まぁ、よく考えてみると連雀町のすぐ上、昌平橋を渡ったところには神田講武所の花街があったわけだし、連雀町にも芸者が居た頃もあったようだから、ある意味あの方々は伝統を守っていると言えるだろう。ナンカ居なくなった席、妙な艶っぽさが残っているし。
どうでもいいが、ゴールドブレンド紳士がみんな全く同じ空気感なのは何故だろう。彼らを金太郎飴のごとく鍛え上げるビリー・ライレージムみたいな場所があるんだろうか。

で、食う合間にちょこちょこ眺めていて一番多いのはやっぱりというかリーマンである。黒い皮靴多かったしね。パーフェクトに接待って辺りのようで、上げておかないといけないのか全員声のオクターブが高くて妙に耳に残る。正直、一緒じゃない個室で良かったなと思っちゃったが、店的な筋としては大事な客であるのは間違いない。ただ、バロム・1もそうだが、そういう用途だけで使われる店としては勿体無いなと思う。

いい具合に鍋が片付いてきたトコロで、それを察知したように先ほどのカンフーマスター(中居さん)がやって来る。そして、入れてしっかり白くなってきてからひっくり返す、というつくね拳の奥義を伝授してまた去っていく。その奥義のままに煮上がったつくねは味は当然として、軟骨とは違うようなコリコリ感があるのに、歯ごたえがあるといった印象が残らないという逸品であった。忘れていたが焼豆腐も大豆の匂いが妙に濃ゆい、恐らく「ぼたん」仕様のものである。当然こちらも美味い。
「ぼたん」玉子やき
そこに謙信の車懸りのごとく玉子やきという新手を繰り出してくるカンフーマスター。口に入れるとチト甘いんじゃないかと思ってしばらくすると、ドどっと不意打ちのように旨味が口の中に広がる。うーん、とまた全員黙る。面白いのはこの店、これだけのもんを出しておいて、こんな肉使ってます!こんな卵使ってます!みたいなことを全く前面に押し出していないこと。この辺も実に東京の古い店らしいんである。言っちまったら“野暮”っていう。

さて、ここで言及して置かないとイケないのが『恨ミシュラン』である。「ぼたん」でこの記事にたどり着いた人に説明は不要かと思うが、同グルメレポート本の中で「ぼたん」は藪そば、伊勢源(すぐ近くにあるあんこう鍋の店)、と一緒に“神田最悪トライアングル”としてぶっ叩かれている。未だにこれを取り上げている人は多いんで、一応流れとしてふれておこうと思う。
バブル崩壊の年に始まった同レポなんだが、今読んでみるとそのバブルで極まった戦後大衆の自己肥大ってのが丸出しっていうか、それと似たようなベクトルの成り上がらんとするライターと漫画家の上昇志向的なものがスパイラルになっていて、そこが面白かったりする。滅んじゃったティラノサウルスって面白かったんだねっていう方向なんだけどね。「お客様は神様です!」思想ってのは実はそういうドロドロとしたものと共に育っていった戦後生まれのもんだってのは散々言われているわけだが、彼らが戦前もはるか昔、客と店が対等に近かった頃、いや客が神様じゃなかった頃から続いている店、成り上がらないことを良しとする江戸っ子の本拠地・神田にある店と齟齬がでるのは当たり前なんである。
たっぷりと取材費をかける出版文化ってのは滅びつつあるわけなんだけど、相変わらず食い物サイトで「(“私”には)合わなかった!」なんつって自己肥大型マイナス評価つけてる人が多くて、そんなツマラナイ“私”は寝かして置けよ、と思ったりなんかもするわけだが、正直どうでもよくなってきたんで食う方に戻る。
「ぼたん」親子丼方面へ
ちょっと驚いたのは肉の量が結構多いこと。というわけで、それなりに腹が膨れてきたんだが、これで終わるわきゃあ無い。鍋がいい具合に片付いたトコロにカンフーマスターがご飯を持ってやって来て、余った玉子を使って(基本つける為のものなんだけど、一人2個プラス1個あった)親子丼を作ってくれるんである。たっぷりダシが出まくってるんだろうしねぇ。
なお、今回自分達は親子丼方面へとなったが、客の食いっぷりによっては玉子丼方面になる場合もあるようなので、この辺は注意してもらいたい。
「ぼたん」おひつ
ご飯が入っているのは“おひつ”である。しかも白木だ。お椀に盛られるのを眺めながら、ドリフのコントくらいでしか見ないよな、なんて会話が出たりしたが、もうドリフのコントも更新されないので、謎の物体から飯を出しているナンテ話になったりするのだろうか。旅館とかで見たりするけど、大概塗り物だしね。
「ぼたん」親子丼方面
当然、美味くないわきゃないんである。ぐいぐいと飯がススムススム。そして、その飯がイイカンジで半煮えになってる玉子と妙に合うんである。多分おひつ効果で飯の無駄な水分が抜けているからだろう。こういう飯食うとおひつ欲しくなる。そういえば、おひつに入れておいた冷えた飯ってのも美味しかった記憶があるな。というか、自分達は“炊飯”に関しては随分と進化したのかもしれないが、美味い飯を食うってことにゃあんまし進化してないんじゃね。
「ぼたん」香の物
忘れちゃいけないのが飯を食い始めるとやってきた香の物だ。実のところ、自分はこういった和食系の店で出てくる香の物に手を付けないことの方が多い。漬かりがキツイ漬物が余り好きじゃないってのもあるんだが、何か味が混じってしまうようで嫌なんである。が、今回三人分にしてはそれなりに盛られて来たので何となく手を出してみたら、見事なくらいに親子方面の味を邪魔しない上にしっかりと美味いんで驚いた。
というわけで益々飯がススんでしまい、正直食い過ぎで苦しい。というか眠くなってきた。昔の人はこれ食ってから色っぽいトコロによく行けたな。
「ぼたん」メロン
だが、まだ終らない。デザートのメロンがトドメとしてやってくるんである。先割れスプーンが素晴らしすぎる。というかもう合羽橋にでも行かないと売っていないだろという声あり。さらに、おしぼりも新しいものがシメとして一緒にやって来ていたれりつくせりである。

メロンを食らいながら、すでに思いっきりおネム入ったぼやけたアタマに何か爽やかな敗北感と共に、やはり多様性というものも大事なんだなという思いが、ゆるゆるとやって来る。何時ものようなアングルの入った戦いもそれはそれで面白いのだが、こういうガチンコもやっておかないとやはり諸方面がそれこそ“私”の中で閉じていってしまう恐れがある。飯を食うことに限らず、淀川長治先生の「いいところを見つけて上げなさい」メソッドは己(と周り)を楽しませるために重要ではあるが、戦うことだけにベストを尽くせば勝者も敗者も存在しないというカール・ゴッチの名言的な試合を可能なリングにも上がらなきゃダメだな、といった辺りをしっかりと胸に刻ませてくれた「ぼたん」はやはり大した店だ。老舗というのはダテに続いていないのである。メッタ打ちにされるというのもたまには良いもんだ。ともかく、その「ぼたん」と共に場を用意してくれた主催のCUE氏に感謝を捧げて終わりにしようと思う(と、芥川隆行風にシメ)。
「ぼたん」入口付近
といったわけで今回の旧連雀町「ぼたん」。老舗ということで鯱張らずに気持ちをフリチンにして来たほうが楽しめると思います。店にはそれを受け止めるだけの歴史と度量がありますんで(というか、上で紹介した大正時代のそれと何も変わってないし)、普段面倒くさいもんを乗っけて飯を食っている方は「ぼたん」に来て開放さえるといいでしょう。

鳥すきやき 「ぼたん」
住所:東京都千代田区神田須田町1-15
電話:03-3251-0577
定休日:日・祝
営業時間:11:30~21:00(最終入店20:00)
最寄り駅:メトロ丸の内線・淡路町駅

東京都千代田区神田須田町1丁目15

この後に神田・大越に行くことになったんだけど、本格的におネム入ってイマイチ覚えていなかったりして。

追記(2013年6月24日)
昭和26年(1951年)発行の岩動景爾・著『東京風物名物誌』に以下のような紹介文があったので追記。

鳥料理もよきもの、金田等と並称されたぼたんがある。
鳥鍋料理のぼたん(須田町)は創業明治二十四年、今三代目、昔から独特の鳥鍋が評判で、味本位で一貫して来た。昔ながらのいい味醂をもって作るたれは、精選された鳥肉と相俟って味覚を楽しませる。構(かまえ)は大きいけれど、昔から大衆向に安価に提供する主義だから、映画帰りや家族連れで気軽に入れる店である。五六十人入れる室もあるから、宴会や会合、商談も安直に出来る。三代目当主は東大での鉱石学の権威であるが、先代亡き後はのれん第一主義で斯道に精進している。食通人にも又一般大衆にも長く愛されて来たのれんの店である。

創業年の食い違いがあるが、やはり大正時代の評価と余り変わりは無いね。
もう一つ、書き忘れていたこととして、この店は小津安二郎が贔屓にしていたってのがある。ちょうど『東京風物名物誌』が出た頃(要するに戦後)、年の瀬になると小津組のメンバーが集まって「ぼたん会」という誕生日会(小津の誕生日は12月)のような会合を毎年のようにしていようで(二階だろうね)、小津が亡くなってからの偲ぶ会もここで三十年近く行われていたそうだ。

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