宮崎駿『風立ちぬ』 ソプラノで歌え「浪花恋しぐれ」を

ジブリ映画を劇場を見るのをお約束にしている人は多いようだが、自分は『魔女の宅急便』以降はふーんとハスナナメから眺めるといった感じで、TVで流れていたら何となく見たりするといった程度の距離感で接するようになってしまって今に至る。今回の『風立ちぬ』も好物の飛行機ものではあるんだけど、出てくる情報を見てもモチベーションはイマイチ上がらず、ガキが来ない9月になって空いていたら行ってみようか、なーんてお前絶対行かないだろフラグが立ちまくりの気分のまんまだったんだけど~

それが早めに行こうと変わったのは評価が真っ二つに、しかも極端に割れたからだ。困ったもんで、こうなるとへそ曲がりの血が騒ぐのである。

というわけで、錦糸町の何か客層の含めて地方のイオンモールみたいなトコロで見てきた。で、見終わって初めにアタマに浮かんだのは「なんだかヒロインがサントリー金麦のCMだったな。」みたいなもんでどうしたもんかと思っちゃったんだけど、とりあえず評価が真っ二つって辺りはよーく理解できました。そうそう、劇場行く予定がある未見の方はここまででそっとブラウザを閉じてね。
零戦
この映画、いきなりテーマを述べちゃうと「モノツクリな人の業の肯定」なるんだろうと思う。ただ、問題はその業の肯定が立川談志が落語を定義するところのすべからく(ことごとく)といったものでなく、あくまでモノツクリな人間限定なんじゃねといったような選民臭が強いこと。プラスだったらテーマ的に堀越二郎だけでいいのに何故か堀辰雄をくっつけてしまったことっつーのが評価が割れた原因になっとるんだね。

この混乱がパンフの立花隆の文章にモロに出ていて笑っちゃったんだけど、その辺を突っ込んでいく上で先ずは堀辰雄がどんな人なのかっていう説明が必要かな。堀越二郎の方はどっかのマニアな方がイジってるだろうし、そっちは便乗本がいっぱい出てるんでね。
堀辰雄
さて、堀辰雄は堀越二郎の一つ下の明治37年(1904年)生まれ。作家として活躍したのは戦争前の昭和初期。大正末に起きた大震災の復興事業の影響から、いわゆる昭和モダン(エログロ含む)と言われるような文化が花開いた時代なんだけど、世相的には五・一五事件・二・二六事件などが起こり、何やらきな臭いが濃く、というかそっち方面への流れが決定的になっていった頃でもある。
堀辰雄はそんな世相を無視するように軽井沢を舞台にした叙情的な作品を発表していったわけなんだけど、そういった作風は彼が結核患者だったという特殊性から来ている。当時の結核は死病であり、自己憐憫や逃避といった側面を含みつつも、それと向きあうため虚構の美的世界を己の中に構築する必要があったわけだね。軽井沢っつっても現実の軽井沢とは違う飾り立てた涅槃というかね。世間とズレがあるのは当たり前だわな。
戦前の軽井沢 その1
そういった世間と全く関係なく、自分本位に死に至る美というものを結晶化させたような堀辰雄作品の読者層ってのは少女趣味的な世界観とも近い関係で女性達が主だったようだけど、学徒出陣していった若者なんかにも大いに読まれたそうである。甘粕正彦が遺書を『濹東綺譚』に挟んでおいたってのは有名な話で、戦場で最も読まれた本とも言われたりするだが、オッサンは永井荷風、若者は堀辰雄だったと。何だか分からんでもない。
戦前の軽井沢 その2
そんなカタチで読まれていた堀辰雄作品には同時に強い批判もあった。実体験から人間の本質を描こうと苦労していた作家達からすると、フランス文学の上っ面を模倣したキレイゴトじゃねえかってわけだ。そういった作風から“貴族的”と言われたりもしたんだけど、向島の彫金職人(養父)の息子なんである。下町の人なのだ。だのに、舶来品で飾り立てた上にテメエの結核を売り物にして気取りやがって、という批判が出てくるのは当然と言えば当然だろう。
戦前の軽井沢 その3
で、映画の『風立ちぬ』戻るが、こっちの批判というのも堀辰雄を接ぎ木した以上、全く同じようなものとなるわけだ。ナンカ結局キレイゴトじゃね、と。しかも、映画の主人公である堀越二郎は、この堀辰雄的“美を求めるの至上”の接ぎ木によって、どちらの荷物も背負ってないように、と言うか、それ以外の全てが他人事のような妙なことになっちゃってるのだ。堀辰雄は自身は結核患者(本来これは戦前の貧しさとも繋がっている)だったという事情があったわけなんだけど、この物語の堀越二郎はそうじゃないしね。そういうことで、まぁなんというか玉虫色な感じに仕上がっているのである。なんで肯定も否定も、どっちも有効なわけだ。
軽井沢・万平ホテル
何でこうなっちゃったのかといった辺りで重要になってくるのはヒロインである「菜穂子」の存在。サントリー金麦のCMみたいと言ったけど、オッサンのファンタジーそのものというか、ハッキリと言ってしまうと愛人臭いんである。結核で死んでしまうというのも裏返してみると、子供が出来ない関係であるという胸糞が悪くなるくらいにオッサンに都合の良い設定だ。どう考えても「妻」じゃないわな。ただの擬似堀辰雄な虚構の“美”への跳躍台のようにしか見えないのだ。ヒロインの性格付けをイロイロいう人も居るが、基本は堀辰雄作品に登場する女性の“型“そのまんまである(堀辰雄はこういう意思がありげな女性を好んで描いた)。
カストルプのモデル、リヒャルト・ゾルゲ
でありながら、この擬似堀辰雄なヒロインが主人公の“業”を肯定する存在であるというのは、基本堀越二郎の物語なのに堀辰雄作品と同様に父親が出てこないことが関係あるんじゃね?というか、恐らく堀辰雄作品と同様に「菜穂子」は恋人(愛人)と母親が混合したキャラクターなんだろうと。宮崎駿氏の母親はカリエス(結核性脊椎炎)で、自分はマザコンだったという言もあるんだけど、それが混合した存在への関係性に継承の責任は無い。しかも、殺しちゃう(死んじゃう)わけだし。この物語で父親を肯定したかったという言う宮崎駿氏と息子の吾郎氏との関係は今更説明の必要もないが、作品の中の主人公の実際が、ドウしたもんかそういったモロモロからパージされているというのは興味深い辺りではある。『好色一代男』のラストかよ、という。
打ち捨てられた零戦
ちょっと前に読んだ山本嘉次郎のエッセイに黒澤明と玉ノ井に行った話があって、評論なんかじゃ空白地帯と言っていい黒澤明の性の問題(高峰秀子とか晩年の同性愛傾向とか)を知る上で面白いなぁと思ったんだけど、この映画は同じく巨匠となった宮崎駿氏が自らの股間問題をコソコソと明らかにしたということでは重要な作品と言えるかも。コソコソじゃだめだろ、という声も当然あるだろう。確かにこの作品「芸のためなら女房も泣かす」と歌っているのは良いんだけど、「それがどうした文句があるか」という開き直りの部分が何故かボーイソプラノになっている。しかし、そうやってキレイゴトで隠したい、フルチンにはなれないといった辺りが、日本人であることに忸怩たる思いを胸に、っていう1930年代~40年代生まれの文化的エリートの面倒臭さと弱さが非常に良く出ているっつーのが面白いんじゃないですか。庵野秀明が七十代でこんな映画を、なんてことを言っていたけど、確かに選民臭い潔癖主義も含め“青年的“主題な作品なんだろうと思う。
カプロニ Ca.60
黒澤明に冷淡な態度をとるハスミン(蓮實重彦)が東大総長時代に安田講堂の権威主義的なカタチを嫌って、それを台無しにするような建物を後ろに建てちゃったってのは、そのまんまな話なわけだけど、こういう権威となってしまったクリエイターを叩きつつ、その股間を探ろうとしないってのは、それを乗り越えんとする自分の股間も晒す必要があるって辺りが評論に乗っかってこない理由なんじゃないだろうか。その辺が空白地帯のまんまってのはどうかっつー話なんで映画評論家の皆様には頑張って己の股間含め探っていただきたいもんである。
ジャンニ・カプローニ
で、最後にお前は一人の客としてストレートに楽しめたのかってことなんだけど、やっぱり「神は細部に宿る」というか、戦前の町並みの描写や飛行機関係の描写のディティールは素晴らしくて、その辺りはしっかりと楽しめました。正直、個人的にはこれだけでお釣り来た。ストレートじゃねえな。ただ、一番楽しめたのは自分の裏に座ってた家族連れの子供が堀辰雄なシーンで飽きちゃって飽きちゃって「帰りたい」「お腹減った」とグズってたことかな。その正直さに乾杯ってトコロで以上。

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