一時期のかたせ梨乃の“肉体の説得力”は凄まじいものがあった。
しかし、この“肉体の説得力”というものは賞味期間が非常に短いもので、それは武田鉄矢がカンフー役者として活動した期間が、まるで成虫になってからのセミ程度しかなかったことからも明らかなように、この“説得力”の根源たるフィクションをねじ伏せる“肉体”はトップアスリートが輝ける期間並に維持が難しいものなのだ。シュワルツェネッガーがその為にお薬方面を使用していたことは、周知の~なのでご存知だろう。
もちろん、これに男女差はある。三島由紀夫がボディビルで鍛え上げた肉体を「私のマイカー」と呼んでいたことから分かるように、男はそのままの肉体では“どこかへ行けない”。それに対して女は生まれ持ったものを何も変化させること無く“どこかへ行く”ことが出来るのだ。今回の『肉体の門』は、この事を扱っている映画であると、まずは極言しておきたい。かたせ梨乃が主役になるのは当然と言えば、当然なのだ。
原作である『肉体の門』が発表されたのは昭和22年(1947年)。著者である田村泰次郎は将来を嘱望されていた時期を丸々(5年3ヶ月)中国戦線で送られたまんま終戦を迎えた従軍作家である。34歳になっていた田村が日本に復員して来て見たものは、かつては敵であった人間達に媚と身体を売る女性達だった。
敗戦ショックの一つ、いや最も衝撃を受けたものとして、このことを書き残している男性作家は多い。作家だけではなく復員兵が“敗戦”を語るときに、ほとんどセットとなってしまっている。男達はそれを目の前に突きつけられ、新しい時代をその肉体で生きていくことができる女性達に比して、自分達の肉体は使い捨てられ、役立たずなものに成り果てていることを思い知らされたのである。
『肉体の門』の前年に発表された坂口安吾『堕落論』のテーゼよろしく、こういった状況を“開放”と見る人々も居た。人間、いや日本人はこうやって生きてきたし、これからもそうやって生きていくのだという本質論からの肯定である。
しかし、当時の男達のほとんどは打ちのめされ過ぎていて、それを受け入れることが出来なかった。“文学の神様”である志賀直哉がフランス語公用語論を語って「否定」(晩年に後悔している)をし、以前から“肉体”を重視していた無頼派の安吾が「肯定」する~といったところからも分かるように、このコンプレックスそのものと呼んでもいいものは、特にインテリ層を中心として、深い傷のように残り、今に至るも完全に癒やされてはいない。
開放された女達の肉体を羨望の眼差しで見た敗戦後の男達は、その自分達の“どこかへ行けない”肉体へのコンプレックスをどう解決しようとして来たのか。一つの答えは先に登場した三島由紀夫的な方向である。しかし、これは結末が極端過ぎる。
単純な話で戦後の日本男性は“どこかへ行く”肉体に、つまり女性になりたいという願望を持つことで、解決しないまでも、転換して来たのではないかと思うのだ。三次元アイドルに熱狂する男子は、彼女達のようにカワイイ服を着てキラキラと輝きながら歌いたいのだ。そして、二次元の戦闘美少女アニメに狂奔する男子は、彼女達のように可憐なまま傷つかずに戦いたいのだ。
ここで、かたせ梨乃に戻ろう。この映画での彼女は、そのテフロン加工された肉体で男女差を関係なく、一時期の朝青竜のような(これも“肉体の説得力”の一つの例だろう)怒涛の攻めで他の役者達を圧倒する。対抗できるのは狡い業師ような風格も漂う西川峰子くらいだ(だというのに、始め“節操な未亡人”として出てくるので笑ってしまう)。みうらじゅん的な意味での“菩薩顔”であることも合わさり、男達が仰ぎ見るにふさわしいと言うしかない。彼女はスクリーンの中でそれこそ、菩薩行のように惜しみなくその肉体を晒す。
そう、五社英雄監督作品と言えばオッパイなのだ。この辺はもうネタにもなっているくらいなわけだが、如何に五社英雄がそれにこだわったかという証言として以下のようなものがある。
テレビ出身でスキャンダルが無闇に豊富な監督を、撮影現場で痛烈にやりこめたのだと岸は笑った。
「台本も無いのに、突然脱いでくれないかというのよ。何故と聞いたわ。そしたら美しい体をお客さんに見せないのは勿体ないって言うじゃない。頭に来たわ。で、いってやったの。ええ美しいわよ。私の体は確かに綺麗だわ。でも、あなたのお望みで脱ぐわけには参りません。幸い私には顔がついているんですから顔を撮ってください。あなたが画面に出した欲しいものは顔で表現して見せますって」
高橋治『絢爛たる影絵 小津安二郎』
テレビ出身の五社英雄に対して、撮影所育ちの映画人達からの蔑視があったこともアカラサマな文章なわけなんだが、それはともかく、この岸恵子が出演していた『闇の狩人』が上映されたのは昭和54年(1979年)。岸恵子、47歳なんである。そこまでこだわらんでもエエんじゃないと思ってしまう(五社の映画に出ると脱がされるという悪評もあった)。恐らくこれには客へのサービス以上の、湧き上がる何かがあったのは間違いないのだが、果たしてそれは何なのだろうか?
と、ズンズンと結論に入る前にこの映画の他の見どころもチョット紹介しておきたい。まず、芦田伸介や汐路章などのジジイがナカナカ良いのだ。これはジジイはかたせ梨乃を筆頭とする娼婦群と肉体で張り合う必要が無いからである。特に芦田伸介の彼女達に対する慈愛っぷりは、前年の『マルサの女』でややマヌケなヤクザの親分・蜷川喜八郎役をやっていたとは思えないくらい深くシブい演技である。汐路章は相変わらずで。
そして、個人的に押したいのは朝鮮人なんだか中国人なんだかよく分からん(根津甚八役の)ボディーガードを演ずる志賀勝の弾けっぷりである。和食のコース料理に流れを無視して餃子が出てきたような異物感があるのに、でも美味しいからいいじゃんと思わせてしまう納得力。これだったら五月蝿い団体も抗議するスキが無いだろう。この役も肉体に対抗せずに、アサっての方に行ってしまっているから妙に印象に残るんだろうけど。
これは女優陣も同じで、前回紹介した『吉原炎上』で主人公にしては線が細いと指摘した名取裕子が、この映画ではライバル的存在でありながら、肉体での対抗軸には居ないため、妙にいイイ感じに仕上がっているのである。その後のテレビサスペンスものでお馴染みになる大仰な演技も、大衆演劇的世界観に非常に合っている。
ということで、細部も含めて、結局のところ肉体を軸に構築されているこの『肉体の門』。五社英雄はパンフの「演出ノート」でこう語っている。
国破れ、不毛の焼土の中で、酸素を一パイすいこみ、咲き誇った彼女らの一瞬の光芒こそ、かわいた現在につきつける、華麗なる謝肉祭の狂気に満ちた一場の余興になることはマチガイないであろう。
と、やはり国敗れて山河在り、ならぬ国敗れて(女の)肉体あり、といった認識でそれを賛美している。しかも、映画が制作された当時(上映は1988年)のバブル的風潮を狙い撃つカタチでだ。この信頼以上の信仰ともいえる女体賛美の源泉、それは五社も“どこかへ行きたかった”男であったからだと思う。
『鬼龍院花子の生涯』の時にふれたが、その撮影前に五社は妻からのある種の復讐(と、その後のゴタゴタ)で死を考える程の痛手を受けている。それのみでは原因ではないだろうが身体に墨を入れ始めているのだ。刺青だ。元々内在していたものであったのが、抑圧によって大きく肥大し、三島由紀夫とは違ったカタチであるが、“どこかへ行く”ための肉体改造をしていたのである。晩年、その背中に入れた刺青が手術で傷つくことを恐れ、さらにそれが死によっと消滅することも恐れ、その前にと篠山紀信(一流の~ということでこの名前にこだわったそう)に写真を撮ってもらいたいと娘に懇願したんだそうである。一応説明しておくと、三島由紀夫は五社英雄監督作品である『人斬り』に出演している。
女体賛美、それは恐らく彼が女性なりたいという願望であり、五社はそれを映画にガッツリとぶつけていたのだ。五社はかたせ梨乃に、西川峰子になりたかったのである。“開放”されたかったのである。かたせ梨乃が“肉体の説得力”が絶頂な時期に五社にであったのは幸運であった。それはもちろん五社にとっても。
それは奇形の性転換願望といってもいいようなバブル期を知っている我々日本人の胸を打つ。そういう意味では、五社はアキバ系の源流に居る人物だったとも言えるだろう。何れ我々は釈迦の掌の上の孫悟空のように、ヴァーチャルの果てで爆風に顔を震わせながら、かたせ梨乃の肉体を仰ぎ見ることになるのだ。
ホントかよ。
・いまさら五社英雄シリーズ
『鬼龍院花子の生涯』
『吉原炎上』
『陽暉楼』
『人斬り』
『極道の妻たち』