「下谷(上野数寄屋町、湯島同朋町)」その一 ニッポン花街・遊廓跡めぐり

下谷花街 大西郷

さて、前回の予告通りに今回は下谷花街となるわけだが、ナカナカに厄介な場所である。

何か厄介なのか?

それは元々この地が江戸から続く“繁華街”であるということ。まぁ当然そういった歴史にもふれていかないとマズイってことになるよな。それと複合的に絡み合う形で花街が形成され、しかも結構な広範囲であること。元々、下谷花街は数寄屋町と同朋町っていう二つの花街が合わさった(昭和4年に合併)もんである上に、範囲は上野公園内から湯島天神周辺までと、結構広いんである。前回紹介のお隣である湯島天神も合わさったカタチでゆる~く大きな花街となっていたのだ(実際、花街関係本ではまとめられちゃう場合もある)。そして、最後は現在も繁華街(ピンク街)として現役であるということ。単なる歴史でもないっつーことになるわけだ。前回の湯島は完全に“歴史”だったわけなんだけど、今回は懐古的な方向で行っちゃマズイんだな。“今”もちゃんとチェックしないと~という。まぁ、てな感じにエラく守備範囲が広いっつーわけなんである。
上野名所仁王門の図
というわけなんだけど、規模の小さい湯島からして3回(プラス1)に無理矢理詰めた感じになっちゃったので、今回はこういったようなヤヤコシサも含め、どのくらいやったら終わるのか予測がつかない。何しろ飽きっぽい性格なんで、あんまり長くなると途中で飽きちゃう可能性も無きにしもあらずというか。
下谷切絵図
で、今回の下谷花街。前回のように一気にはやらずに(前回は引っ越しっていう事情もあったんだけど)、他のものの合間合間にゆるゆるとやっていこうと思うのである。コレなら飽きっぽい自分的にもなんとかなるだろう。てなもんで、話もアッチコッチに飛ぶかもしれんのだが、まぁよろしくお願い島忠家具センター。
東京花街分布図(下谷中心)
まず、最初は規模の話が出たんで、東京の花街のランキング(等級)的な辺りからドンと行ってみよう。今後ふれることも多いかと思うので、一気に出しちゃうのである。前回も登場した、というか毎回登場することになるかとおもう『全国花街めぐり』からの引用。昭和4年発行なんで、ちょうど下谷花街が合併した年に出来た本だ。

一等地:(甲)新橋、柳橋、赤坂、日本橋。(乙)芳町、烏森。
二等地:(甲)新富町、神楽坂、下谷、浅草。(乙)富士見町、霊岸島。
三等地:(甲)神田、四谷荒木町、白山、湯島天神、深川、芝浦。(乙)芝神明、麻布。
四等地:四谷大木戸、駒込神明、向島旧券。
五等地:向島新券、根岸、浅草西見、飯田河岸。

下谷は二等地の甲。上の方と言っていい。なお、これは課税率、玉祝儀等を元に出したものらしいが、あくまで「参考」のものであるという。高いから格(内容)が上ってわけじゃないってのは、今の飯屋でも同じだわな。紹介ついでに同書内にある下谷花街の部分もふれてしまおう。といっても冒頭の部分だけね。まだ取っ掛かりなんで、今はザクッと理解してくれれば良い。

別称「池之端(いけのはた)」 ― 蓋し(けだし)上野公園下不忍池畔にあるからの別称で、部分的には「数寄屋町」或いは「同朋町」とも呼ばれる。即ち下谷、本郷両区に跨がる一寸めずらしい花街で、藝妓組合は二つに分かれて、

下谷藝妓組合 藝妓屋:101件、藝妓:247名
同朋町組合 藝妓屋:83件、藝妓:179名
藝妓合計 425名(昭和3年7月現在)

となって居るが出先は共同で、玉祝儀も同一、料理屋が約20軒、待合が120軒。藝妓の数も出先のお茶屋の数も下谷で約三分の二を占めて居るとこから自然下谷の花街として取り扱われている。

単純に芸妓の人数だけでも、湯島の四倍近いってのが分かる。規模が全然違うんである。

さて、その面倒な下谷花街。どっから手を付けるべ?となるんだが、やはり常道というか、花街成立までの歴史からふれて行くのが分かりやすくて良いだろう。

“上野”の名は、江戸の始め~現在上野公園がある台地上に藤堂高虎の屋敷があり、その高虎が伊賀上野に似ているから名づけたという説が一般的になっているようだが、どうもそれ以前から上野と呼ばれていたらしく、要するに単に高台に野っ原があるということで上野ということになったという、面白くもなんともない由来であるらしい。
上野東叡山
その上野に大きな変化が訪れるのは寛永2年(1625年)。江戸に天台宗の拠点が欲しいと考えていた“黒衣の宰相”天海が、江戸城の鬼門であるこの地に将軍家の肝いりで寛永寺を開山するのである。
天海プラス将軍家のご威光は凄まじく、比叡山になぞられて東叡山と号し、不忍池を含む総坪数36万坪という広大な敷地に本坊、根本中堂を中心に三十六坊、数十棟の伽藍を持つ、アホ程デカイ寺が出来上がるのだが、こうして霊地としてそれ以上開発がストップしたことで、そのまんま“上野”として生き残り、都市部にポッカリと自然が残った行楽地としても発展していくことにもなるわけである。
上野清水之桜
上野の花見と言えば、今でも名所として名高い。しかし、江戸期の上野の山は、その京都から皇子を座主として迎えた東叡山があり、さらに徳川家の霊廟もあったため、どんちゃん騒ぎは禁止、暮六つには山門を閉ざすという、祭り好きの江戸っ子には中々キビシイ場所だったようだ。それでも江戸の中頃まで他に(近場の)名所が無かったということもあり、桜の季節には押すな押すなの大混雑だったとのこと。他の季節には同じく江戸っ子が好む草花を楽しむことも出来たりして、さらに元々不忍池等の景勝もあるってことで、江戸っ子の行楽地の定番となっていったのは当然といえば当然である。
広重 上野満花の詠
さらに、やって来た東叡山自体も信仰の都合上エライ人間だけを相手には出来ねえと、厄除けだっつー両大師堂(現存)ってのを造り、朝大師(朝詣り)に加えて、毎月3日と18日の縁日には植木市もやったりして、お参りに託けた物見遊山が大好きな江戸っ子はこれにも引っ掛かることになる。ちなみに、両大師ってのは比叡山中興の祖である良源(慈恵大師、元三大師)と、さっき出てきた天海(慈眼大師)のこと。
上野広小路
加えて、明暦の大火後には火除地として上野広小路(当時は下谷広小路と言った)が現在の不忍通りと中央通りの交差点から上野広小路交差点辺りに、山下という火除地も現在の上野駅不忍口から広小路口前辺りに出来て、その広場に幕府公認で床店(露天)が出来るわ、大道芸人は集まるわで、それらに群がる人達もワラワラと、そいつらのための食い物屋もボンボンと建ち、他の火除地である浅草奥山や両国広小路と並ぶ、江戸の中でも最も繁華な盛り場になっちゃうのである。下の図が江戸名所図会の「山下」なんだが、枡形の構造物が並んでいるのがわかると思う。これ、全部露店や見世物小屋なんである。広場にみっちりと詰まっていたのだ。
上野山下
こうして、人が集まる要素が段々になっているような場所なわけだから、当然のようにそれを相手に~商売を、という流れになる(例えば現在も広小路にある松坂屋とか)わけだが、これまた当然のように、というか人間のサガとして“色”で商売をしようっていう人間も出てくるわけである。ということで、後の下谷花街が諸々を引き継ぐことになる、江戸期に上野で産まれた二大風俗を紹介して行きたいんだが、深く理解していただくために、当時の“江戸”という都市の特殊事情に関して前置きをした方がいいんじゃね、と思うので、ちょいとお付き合い願いたい。
江戸城図
その特殊事情ってのは女性の少なさについてだ。江戸は新開地ってことで、最初期には建設・土木関係の武士と労働者ばっかりのムッサい街だったってことは散々言われたりする辺りなんでご存知かとは思う(で、治安上吉原みたいな場所が必要になったとか)。その後、男女差ってのは徐々にトントンになっていくんだけど、それは町人だけの話で、参勤交代っていう制度がある武士共はどきっ!男だらけの水泳大会のまんまであり、おりも政夫も裸足で逃げるような状況は変わらなかったのである。結局南極江戸期にそれは解消されないまま明治維新を迎えることにナルト。
実際問題として少ないとなれば、当時の制度的なものでの女性の扱いはどうであれ、世相的には女尊男卑といった方向に傾いていくことになるんだな。何と言っても希少価値があるのだ。しかも、そういった新開地的事情のもう一つの側面として、そこに住んでいる人間の全てが荻生徂徠曰くの“旅宿”といったような状態があった。武士は参勤交代、大店の商店は基本関西からの出向というカタチ、そして大体の町人は(新開地の)飯場での寝泊そのまんまっていう長屋でのその日暮らし(江戸の華である火事って事情もあるんだけど)。当然、“旅宿”暮らし男性諸君が結婚を望むのは難しい(というか相場が高くて手が出ない)。こうして「男やもめに蛆が湧く。女やもめに花が咲く。」なんてことも言われるような方向が決定的になっていくのである。
踊子おやま
そうやって、相場が高いとなれば、それを磨いてさらに価値を上げようってのが人間の何とやら。女の子が産まれれば、生活が苦しくても“芸”(歌舞、音曲中心)を習わせる(仕込む)っての通常となり、こういった女性達が武家へ奉公、あるいは(奉公の後に)裕福な商家へ嫁いだりして、さらにこの風潮はさらに一般化。階級に関係なく“芸”に親しむという江戸の風土の土台が仕上がって行くと。こういった流れで“芸”を見せる“踊子”というものが産まれ、それがやがて“芸”のプロフェッショナルである“芸者”になって行くんである。花街文化の成立にも大きく関わってんだな。
こうして女性達が上へ上へ、となれば宵越しの金は持たない江戸っ子男子は益々結婚の機会が遠のいて行くわけで、そこら辺に夢がモリモリ有り余った男共は“買う”しかなく~要するに、江戸期のソッチ方面の文化も女性の少なさが原因で磨かれて行く、と。
吉原呼出シ
幸運にも(贅沢にも、と言うべきか)結婚できたら、当然のように女房を大事にする。ベタベタなカカア天下である。それならまだ良し、当時の川柳には女房が浮気に行くけど、別れたくないんで黙って行かせるなんてのが腐るほどある。完全な女性上位社会なのだ。イロイロ仕込まれてるので、男共は世渡りでも適うわきゃーない。こういった風潮は諸々に影響を与え、遊女なんかも「諸訳(しょわけ)は嶋原(京都の嶋原遊廓のこと)、口舌は新町(大阪の新町遊廓)、張強きは吉原(これはご存知)」なんてように言われるようになる。江戸は張りが強い~プライドが高いんだぜ!っていう、男に媚びるのを恥じるってのが江戸の女性の基本線にだったんだね。
四谷怪談 伊右衛門
しかし、こういったものが極まってくると反動のようなものも出てきて、ベタベタと女を大事に扱うのは上方者みたいでみっともない、女の扱いがキツイ男の方がイイなんて、何だかオカシナ流れも出てきちゃうんだな。歌舞伎の“色悪”(女性を迷わせて弄ぶ男)ってのもこっから来ている。四谷怪談の伊右衛門は今からするとヒデえ男だなって見方しか無いように思うけど(特殊な趣味の方を除き)、当時はあのムゴさがイイって見方もあったんだね。あ、でも今も草食よりDQNみたいのがあるか。
男の方もソレを受けて、女房を大事にするのはどうなんだ?ってのが社会全体の風潮として固定していくわけだけど、こういった部分だけ、困ったことに明治維新後も引き継がれちゃうわけなのだ。しかし、この辺を考えると、男尊女卑的なものってのは、果たして上部構造のそれが社会にっていうよりも、むしろ下から何じゃね?っていうか、卵が先か鶏が先かドウにもよく分からなくなってくる。
辰巳芸者
ともかく、こうして女性の矜持も登り切ってしまうと、(余裕ってのもあるのか)逆に「情け」というものがじわりじわりと滲み出てくるようになってくる。典型的なのは辰巳芸者なんかがそうで、男には媚びない(いわゆる芸は売っても色は売らない)ってのは変わらないけど、情の厚さと侠気を売りにって辺りは、江戸っ子の強きをくじき、弱きを助けるってのからの影響もあるだろうけど(辰巳芸者の相手は主に職人だし)、根っこはそういった辺りから来てるんだね。辰巳芸者が象徴するような江戸庶民の美意識“粋(いき)”ってのも辿っていけば、女性が少ないっていう事情から(も)来ているっていうね。

てな感じで、ナンカ駆け足の上にとっちらかっているけど、江戸の女性の少なさってのが文化全体、特にソッチ方面にも大きく影響をってのをご理解いただけただろうか?

と、前置きが終わったところで、まず紹介する(江戸期の上野)風俗は「ケコロ」である。さて、このケコロ。サザエでございますよろしく、ケコロでございますという商売があったわけではない。ある商売を偽装した(あんまし隠してないんだけどね)売笑行為なのである。
てなわけで、前置きが終わったばっかで恐縮だが、そのある商売からどうやって「ケコロ」が産まれたのかっていう流れを、続けて説明する必要があるんだな。これが。ナンカ、疲れて来た。
歌麿 水茶屋の男女
その、偽装に使われちゃった商売っていうのは“水茶屋”だ。水茶屋ってのは、茶釜で湯を沸かし、程よい温度に冷まして飲ませるっていう、まぁ喫茶店ほど重くないチェーン系カフェ程度の軽さのもの。江戸は水が良くない(水道水で産湯をってやつね)上に、舗装されてないんで埃っぽい街である。といった事情から、マトモな水分補給を外でマメにしたいってことになる。といっても茶は贅沢品なんで、茶店の数は増えたり減ったり。が、基本ムサイ級男性が客なんで相手をするのは女性良いだろうってことで、水茶屋に“茶汲女”(あるいは茶釜女と呼ばれた)が置かれるようになると安定し(延享から寛延の頃)、どしどし水茶屋が増えていくことになるのである。
こうして江戸の街に現れた茶汲女達だが、初めの頃は売笑行為がもれなくセットになっていたわけじゃない。もちろん、お大尽の囲われものになったり、隠れて売笑行為をするという個人、それを黙認する店っていうのはソコらにあったんだけど、江戸じゃそういうもんは別に水茶屋じゃなくても普通あることなんで、カルチャーとして認知されるほどに~ってわけではなかったんだな。基本の接客は仕込まれた江戸っ子女性の特性を活かして、あくまで商売上のサービスを競うというフツーのもんだったのだ。始めの頃はヨシズがけの店も多かったようだし、そういう店でチト売笑は無理だしな。
浅草 水茶屋の女
やがて、その競い合いからカリスマ店員が現れることとなる。宝暦の頃(1751年~1763年)っつーから、大して経ってないね。浅草寺寺内で営業していた湊屋のおろくって茶汲女の結び髪がすばらしいってことで、一種のファッションリーダー的な存在(他にも何人か居たようだ)となり、他の茶汲女達がそれを真似るっていう現象が起きるのだ。この頃になると、こういったおろくのようなキャラが立った女性を看板にして客を呼びこもう、といった流れが激しくなって来るのだ。なお、カリスマは基本居るだけで、茶は汲まなかったようである。
笠森おせん
その流れの中、宝暦の後の明和(1764年~1771年)に現れたのが“笠森おせん”だ。谷中の笠森稲荷前にある水茶屋・鍵屋のオヤジの娘であるおせんは、(13歳から)親の手伝いってことで何となしに店に出ていたのだが、その凄まじい美形っぷりが注目されて、店はあっという間に押し合いへし合いといったような状態となる。当時は場末である谷中の店の看板娘が何で評判になったかというと、どうも近くにあった岡場所「いろは長屋」に来ていた連中が話を広めたらしい。やーね、男って。
このおせん、美形であることは別にして、これまでの茶汲女とは違う特徴があった。いや、正確に言うと無かったと言うべきか、実は江戸仕込みの娘では無かったのである。何の備えもない“素人”娘だったのだ。
江戸っ子の女性は仕込まれて、世渡り上手で生き馬の目を抜くって辺りではブイブイ言わせていたものの、一つ欠点があった。そういった部分が強いが故の“玄人臭”である。江戸の女性はマセるのが早い上に、全員クラブ・スナックのママ状態なのだ。初々しさなど微塵も無いのである。いい加減、江戸男共も飽きて、その反動が来たっつーわけだ。なんだか、今のアイドル事情みたいな話である。
こうして、おせんを皮切りに江戸に水茶屋を中心とした素人看板娘ブームといったようなものが盛り上がるのだ。
熟れた接客、サービスなんて必要はない。客が素人っぽさを求めるわけだから、むしろ基のままであるほうが良い。とりあえず美形であれば良いのだ(結構ハードル高いけど)。と、こういう看板娘を置いた店が、江戸市内に山盛りになるんだけど、これまたありがちな流れとして、下半身方面の方々が便乗しようってことになるのである。メイド喫茶も盛り上がると、風俗系の方々が参入してきてキャバ化していったよね。

ここらでようやく「ケコロ」に入る。

おせんが二十歳になって武家へ嫁へ行き(容姿で階級を超えたわけである)、突如として店から居なくなった(客が来なくなるのを恐れた家族が嫁いだことを隠した)のと同じ頃、江戸市内に広がっていた素人看板娘ブームを受けるカタチで上野山下の辺りにも看板娘を置いた新規の水茶屋(場所が場所なので元々それなりに水茶屋はあった)がビシビシ開店することになる。せっかく人が集まってくる土地なんで、このビックウェーブに乗るしかないってわけだ。
けころばし
その上野山下で、売笑行為を行う、別名「山下の前だれ」と呼ばれるケコロが産まれることになるのである。
まずは、その“ケコロ”って言葉が何を意味するのかよ~分からんと思うので説明すると、山東京伝の『蜘蛛の糸巻』(風俗やらの講釈本)には「ころび芸名と唱へ、百疋(今の金額で2~3万円ってところか)づつにて転寝の枕席したる者ありし故、此の名あり。けころの名は、蹴転(けころばし)の義なり。」とあり、簡単に寝るという意味もあるが、客をケコロばしても取ろうとする、ちょいとシツコイ(「面の皮、千枚張りは蹴転なり」とか)という辺りも含めて付いた名前らしい。なお、京伝が上げた金額はケコロが出始めた頃のものだと思うが、それなりの値段だったのが分かる。
このケコロ、素人看板娘ブームでイキナリ登場ってわけではなく、どうも浅草奥山の田楽茶屋で売笑を行っていた給仕人(飯盛女っつっていいのかな)のことをケコロと呼んだのから来ているようだ。その後、それほど遠くない下谷(上野)でも同様の行為を行う人間が出てきたところに、近所の水茶屋がそういう状況だったことから、真似る人間が出始めて~こっちがケコロと呼ばれるようになっちゃったんだね。
こうして、山下辺りにドドっとケコロが増えることになる。なんでドカンと来たのか?これは、水茶屋の売るため接客もある種の“芸”、そして売笑行為も吉原を見れば分かるように“芸”そのものなわけだけど、素人娘看板娘ブームに乗っかれば、ただそれなりに美形であれば、それ以上はなんもいらずに参入ができたからだ。要するに“売る”ハードルが低くなっていたんである。客も“芸”ナンかを求めちゃ居ないので、仕込まれている必要は全く無いのである。上でもふれたけど、ケコロって言葉には“芸”が無いんで、ただ寝る連中っていう揶揄風味も含まれているって辺りね。“素人”ブームがトンだものを産みだしちゃったんだな。なんだか90年代の女子高生ブームから援助交際って流れに似てなくもない。実際、ケコロのほとんどには眉があったそうだ(江戸期の成人女性は眉を抜くか剃った)。“娘”を売りにっつーことですな。
茶屋娘見立雁金五人男(前垂姿)
他、彼女たちは一応水茶屋に勤めるって建前があるため(「山下はけころばさるる茶屋のてい」)、そういう格好をしている。前垂姿だ。別名「山下の前だれ」ってのはここから来ている。
前垂ってのは服を汚さないためのエプロン同じもんだが、水茶屋の場合は上等な(高級な)茶を扱ってますよと、逆に(服よりも高価で)新しく綺麗な生地のものを使用していたそうで、山下では情の深さを表すという紺色のものを着けた茶汲女が多かったんだそうだ。これが、ケコロを示す符牒にもなっていたんだな。で、客をキャッチしようと店前を意味なくウロウロ。通りに向けて化粧をしたり、着替えをしてみたりと。「蹴転ばしごみもないのに掃いている」という風景がそこらに、と。
山下の茶汲女
しかし、前垂の色が“情が深い”っつっても、まぁ要するにちょんの間だ(店の奥、あるいは二階がそういう場所になっている)。対応は事務的、というかヤ○ザキパン工場並の流れ作業なんである。値段も初期はそれなりだったが、山下のそこかしこにケコロが居るなんてことになれば(「山下のどちら見てもよりなんし」)、相場は当然安くなるわけで、大体の通常のちょんの間が200文(4000円くらいか)、飯なしの泊まり(夜10時より)が400文~500文辺りに落ち着いていったようだ。ただ、ちょんの間にはお銚子が一本サービスで付いたようで、ケコロのことを風雅に“一銚子”と呼んだりもしたようだ。

ケコロの最盛期は安永(1772年~1780年)頃から天明7年(1787年)まで(ケツが決まっている理由は後述)。どのくらいあったかは江戸末期の雑学者(モノズキ)・石塚豊芥子著「岡場所遊郭考」によれば~

一、広小路より左側に入る所、本阿弥横丁 十二軒
一、本阿弥より西に入る所、御数寄屋町 八軒
一、大門町広小路南、向折廻し有車坂代地 十一軒
一、井上横丁
御成小路東之方片側町
材木屋之並角に辻番所
六軒
一、広小路大門町東側、松坂屋の並 十九軒
一、御徒町入り口、取つて返しとも云、北側 十五軒
一、肴店 五條天神裏通り東側 六軒
一、仏店
下谷啓運寺之側也、浜田屋と云
料理茶屋の側細き小路折廻し
十五軒
一、山下原出口
角蔦屋と云水茶屋有り
肴屋の通り共に四方折廻し
十五軒

と、全部で煩悩の数108つに一つ足りない107軒っていうから大したもんである。これにそれぞれ数人のケコロが居ると。下のがその図だ。
山下総絵図
せっかくなんで(何が?)地図にマーカーを打ってみたが、結構な広範囲だっつーのが分かると思う。後の花街である数寄屋町にもあるね。地図上から「行き先に指定」とかあるけど、今は無いからな!

 

 

 

 

 

この頃の縁日なんかには朝っぱらから(朝詣りもあるため)開く両大師に合わせて、ケコロも早朝から営業。流れてきた客を一日中取り続け、25人ほどを相手にするなんて猛者も居たようである。「朝詣り、二百の護摩を焚いて来る」。
広重 上野山した
この中で最も名が通っていたのが“仏店(ほとけだな)。今ヨドバシカメラとヤマシロヤの間の高架の辺りだな。ここらは近くにあった啓運寺(現在谷中に移転して現存)の墓場を潰して町家にしたため、この名が付いたらしい。当時は墓場は移転させずに、そのまま均しちゃうから(しかも、当時は土葬)、まさしく“仏店”なわけである。死と性って村上春樹か。向かいには山下の広小路があり、人が集まるってことで、場所の良さで一番有名だったんだろうと思う。
水茶屋が集まっていた辺りの東側(つまりヤマシロヤ、マルイの辺り)には鰻の蒲焼き発祥店である大和屋、おなじく蒲焼き有名な浜田屋(茶漬けも出した)なんかがあり、「蒲焼きを食ってとなりにむぐり込み」なんて川柳がのこっている。上野は人が多い関係で元々飯屋が多く(有名店も多かった)、仏店だけじゃなく、トナリに飯屋なんて場所が多かったようだ。この辺、後の花街的には重要。上の浮世絵は同じ山下でも五條天神があった辺り(奥に見える)。今の京成線上野駅正面口の前だな。手前の店は伊勢屋という漬物の茶漬けで有名だった店である。基本食い物屋とセットになってんだね。
ここらに加えて、発祥の地である浅草(蔵前寄りの堀田原の辺りにあったとか)にも逆輸入されたっつーから、その拡散っぷりが分かろうってもんである。
けころばし
ここまでケコロが大江戸ムサイ級に受け入れられたってのは、なんといってもお手軽だったからだろう。値段も含めてね。吉原なんかはキチンと遊びに行く格好をして、ゴールへ行くまでに面倒な手続きがあって、なんだけど~ケコロだったら、普段着のまま、それこそ茶を飲むのような気分で行くことができる。“玄人”的なものへの反動って部分ね。
そして、これは山下ならではだが、「どこいくんだ?」と問われても上野の山にお参りか行楽にって言えば誤魔化せる。あるいは蒲焼き食いに来たとかね。恐妻家(上記)、商家の小僧(大概雇い主がうるさい)、武家の奉公人(いわずもがな)なんかには大変ありがたい。上の絵も頬かむりしてるわけだが。一応表っ面はそういう店だとは名乗ってないわけだから入りやすいしね。イカにもな岡場所臭は少ない。絶対バレるのヤダみたいな奴のために、裏口や隣の食い物屋との間とかから入れるような店もあったようだ。んなわけで「けころ買うことは女房もしらぬなり」と。
上野広小路
しかし、こうして盛り上がって目立つようになると、当然のように幕府の取り締まり方面にも見つかるハズなんだが~基本ケコロは放って置かれた。ケコロが盛んになる前の宝暦の頃に、将軍の東叡山御成日だっつーのに店前をウロウロして商売を止めようとしないので、担当奉行がなめてんのかとガツンと検挙みたいな騒動もあったようだけど、以後は放置。というのも、ケコロの最盛期というのは田沼意次が老中だった時代。田沼時代とかぶっており、そういうものに対する扱いがかなりユルかったからである。ケコロの興隆ってのはこの辺とも関係有るわけだ。消費優先というかね。そういった彼の政策上なのか、ある種の必要悪として、お目こぼしされていたんだな。
上野晩鐘
失脚した田沼の次に誰が来たかは説明の必要もないだろう。頭ガチガチ野郎・松平定信である(最近、見直しもあるようだけど)。彼の「清き流れに魚住まず」的な改革(寛政の改革)、というか田沼時代の完全な否定によって、ケコロはトドメを刺されることになるのである。ケツが決まっていたのはそういうわけ。
こうして山下の水茶屋は取払いとなるわけだが、その後しばらくは両大師に来る参拝客がほとんど居なくなってしまい、ガランガランなってしまったそうである。まぁ、そういうもんだ。
その後、定信がコケた後に細々と復活したようで、天保の改革でまたぞろ取払い、みたいな記録が残っている。でも、ホントーに細々と残り香がみたいなもんだったらしく、寛政の改革によってカルチャーとしてのケコロは滅んじゃったとみて良いだろうね。
江戸 町芸者
以上が江戸期の上野に産まれた風俗“ケコロ”のあらましである。でも、寛政の改革で滅んだってことは明治以後の花街文化とはあんまし関係無いんじゃね?っていう疑問は当然出てくるかと思う。
しかし、そうでは無いんだな。実は、このケコロが産まれて消えていった時期というのは習い事の延長のような“踊子”という中途半端な職業が、プロフェッショナルの“芸者”という職業に変化していった時期でもあるのである。さっき、素人看板娘ブームが江戸女の“玄人臭”への反動だったという話をしたが、今度は逆に“素人臭”への反動もあって、この変化を促進させたっつーことなのだ。振り子が行って、帰って来たと。ケコロが代表するような素人売笑の野放図な盛り上がりが芸者文化を用意したと言ってもイイのだ。
そして、上野じゃケコロが去って抜けた穴にスッポリとその芸者たちが入り込み(どうもケコロだったのが芸を磨いて~みたいのも居たようだ)、下谷花街の原型を形成していくのである。どうよ?キチンと花街まで持っていけたでしょ。ちゃんと理由があって、こうなった~みたいのがちゃんと落とせただろうか。

しかし、疲れた。妙に長くなっちゃったんで、もう一つは次にしますわ。

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