江戸の頃には春は亀戸から始まる、なんてことも言われたりもしたようなんですが、それは亀戸天神、そして梅屋敷という梅の名所が二カ所もあったことから来ているようです。梅は春告草(はるつげぐさ)ってやつですね。
菅原道真が太宰府に左遷されていくときに「東風吹かば 匂いおこせよ 梅の花 主なしとて 春をわするな」と詠んだことから、梅を境内に~ってのは知らない人は居ないでしょうし、亀戸天神は現存して参拝客は引きも切らずといった状態です。まぁ、ご存知の~が多くて、今更突っ込むようなトコロも無し、と言いますか。
ということで、今回は現存していない方の梅屋敷の方を話のマクラとしてふれていこうかと思います。こちらはご存知の~じゃありませんからね。
以前、江戸っ子の行楽地としての向島って辺りにはふれたことがあるんですが、亀戸もやはり同じように江戸っ子の行楽地でした。向島はどちらかといえば文人墨客が~といった感じだったんですが、亀戸天神があったこともあり、参拝込みで行楽に来るといった感じで、どちらかと言えば庶民寄りの場所として賑わっていました。
当時の亀戸天神は、もちろん天神様も縁起の神として人気があったんですが、どちらかと言えば、境内社の御嶽神社(妙義社)の「卯の日」の縁日の方が賑わっていました。災害除け、悪病退散というご利益があるとされていたので、商人や粋筋からの信仰が篤かったんです。即物的ですが、そういったご利益込みの行楽に、と。
その行楽客が亀戸天神と共に必ず立ち寄ったのが梅屋敷でした。一つ上の画像からの流れで、子供の持っているものが同じ、つまり亀戸天神の「卯の日」の後に来ているってのが分かるかと思います。
この梅屋敷、寛永の頃に呉服商の伊勢屋彦右衛門が農家の土地を買い取って別荘として改築し、「清香庵(せいきょうあん)」を名づけたのが、その始まりなんだそうです(彦右衛門が農家だったという説もあり)。
その土地には買い取る前から枝が地を這うように伸びて、重弁で真っ白な花を咲かせる大きな梅の木がありました。評判を聞きつけた水戸光圀が庵を訪問。感嘆した光圀はその梅に「臥龍梅」の名を与えます。
それに喜んだ彦右衛門は庵に数万本の梅の木を植え、その樹下に床几を並べて、一般にも開放。ちゃっかりと土産に梅干しを売ったりして、行楽観光地としての梅屋敷が完成するわけです。
その梅屋敷の景色どんなものであったかは、様々な浮世絵、特に歌川広重の『名所江戸百景』のものが有名ですね。ゴッホが模写した絵なので見たことがあるって人は多いんじゃないでしょうか。この景色の頃に小林一茶もここを訪れ、「只の木はのり出で立てり梅[の]花」という句を詠んでいます。
なお、当時の江戸っ子行楽客は隅田川の向こう岸(西側)で屋形船(屋根船)に乗り、ゆるゆると横十間川、もしくは北十間川の河岸まで。そこで下船して、目と鼻の先の亀戸天神や梅屋敷へ、というのが一般的なルートでした。江戸の頃は水運が中心。日暮里や飛鳥山なんかに比べても、船の上から景色を眺めている内に着いちゃうわけですから、来やすかったんですね。
その梅屋敷がどこにあったかってのが上の絵図。現存する普門院、光明寺の北東にあったのが分かります。結構広い土地です。
この梅屋敷は明治になっても梅の名所として、明治天皇の行幸があったり、正岡子規が臥龍梅の句を読んだりと、東京市民になった江戸っ子達含め、行楽地として変わらずに親しまれ続けました。
しかし、明治43年(1910年)の関東大水害で、梅のほとんどが水に浸かってしまったため、多くが徐々に弱って枯れてしまいます。その後の残った梅で営業は続けられたものの、周辺が工場地帯へと変化していったことから(東京の中心に近く、低地のため水の確保が容易だったため)、煙害等で行楽するような場所では無くなってしまったところに、関東大震災がやってきて、東京市内で焼け出された貧民の受け入れ先として丁度よろしいということで、廃園となってしまうのです。
その後、この辺りは戦争で絨毯爆撃を喰らって焼け野原となり、現在梅屋敷を忍ばせるものは、園内にあったと思われる伏見稲荷が住宅地の中にポツンと。
そして、臥龍梅の石碑が浅草通りに何故か車道に向かうカタチであるだけです。個人的には逆にこれしかないってのが想像の羽を広げることが出来て、面白かったりもするんですがね。夢の跡といった感じで。
亀戸天神に行って、お時間に余裕のある方は、ちょっとそこまで散歩してみるのも良いかと思います。
マクラはこんなところにして、今回紹介するお店の方の話に移りましょう。
そのお店、元祖くず餅の船橋屋は梅屋敷と行楽客を分けあっていた亀戸天神内で、文化二年(1805年)に創業した老舗です。創業して、200年を越えているんです。
くず餅(正式には久寿餅書きます)は元々、小麦澱粉を使用する(関西の本葛の澱粉で作るくず餅とは別系統の)関東特産として、現在の千葉県、神奈川県辺りの小麦を作る農家で食されていたものでした。ただ、どうもやわらかいことから子供や老人がおやつとして食べるようなもので、必ずしも甘くして~というものでも無かったようです。ほんとうの意味での“駄菓子”だったんですね。
さて、船橋屋の初代・勘助はそのくず餅を多いに食べる下総の船橋出身。豆腐屋だった彼は、江戸に出てきたものの、商売に身が入らなかったのか事情は分かりませんが、亀戸村の植木屋・植金にやっかいになっていました。
亀戸は江戸の“郊外”だった関係から、市中の大名屋敷の庭を手入れするような植木職が多い場所でした。日暮里や向島と同じですね。植金は幕府御用を勤める格式の高い植木屋で、店先には葵の御紋の入った提灯がぶら下げてあり、実入りも良かったのか、勘助のような食客が幾人か居候していたようです。
その居候の勘助。亀戸に押すな押すなとやってくる行楽客達を見て、これを相手に何か商売が出来ないものかと考えます。しかし、彼らに豆腐が売れるかと言ったらムリだろうと、色々と考えた末に、子供の頃に食べたくず餅のことを思い出したのです。甘く味付けすれば、行楽地に付き物の団子や餅のように売れるんじゃないかと。それに、亀戸は(当時)原料の小麦の産地でもあったので、そういった面でも都合がよろしい。
思い立ったが~ってことで勘助は早速試作してみることにします。まず、くず餅のモチモチ度を強めるために、小麦澱粉を水に漬けて一年以上発酵させる(小麦粉の入った樽を外に出したまま放っておいた人間が居て、そこから生まれた製造法だとか)。それを、よく水にさらして臭みを取ってから熱湯を混ぜ、ドロリとなったところを船(型枠)に入れる。最後に、蒸してから冷やしたそれに糖蜜(黒蜜)をかけるのですが、それだけじゃ黒っぽくて見た目が悪いってことで、勘助はさらに黄粉をまぶしてみます。
こうして出来たくず餅を植金の主人に試食してもらったのですが、口に入れた主人は顔をしかめました。当時の糖蜜(黒蜜)は廃糖そのまんまなんで、アクのエグさが抜けていない上に、甘さが濃過ぎて、とても美味しくいただけるようなものにはならなかったんですね。このアクってのは和菓子系で必ずクリアしなきゃいけない課題なんですが。
そこで勘助はアクを抜く研究を重ねて、そこをなんとかクリアし、さらに糖蜜以外の甘さをブレンドして上手に薄めることで、くず餅に合った蜜を作ることに成功します。そして、その蜜に合わせて、くず餅をモチモチとしながらも、歯切れがよい食感に改良し、出来上がったものを、また植金の主人のところへ持って行きました。
今度は主人もその仕上がりっぷりに太鼓判を付けてくれたので、その場で「天神様の境内に店を出したい」と言うと、主人はすぐに境内の茶店の権利を買ってくれました。屋号は勘助が船橋出身なので「船橋屋」。葭簀張りの小さな茶店でしたが、行楽客の間で珍しさと美味しさが、すぐに評判となり、客が床几に座れないほどの繁盛で、製造が追いつかない位の繁盛店なっていくのです。
流れを見れば分かるように、現在のくず餅のカタチを作ったのが初代・勘助なわけで、伊達に「元祖」を名乗っていないってのが分かります。
その後、近くに家を借りて、そこで製造したものを、どんどんと天神内の店に運び込むという形式でやっていたようですが、明治初年に3代目勘助が天神橋近くの土地を購入。これで、キチンとした店舗形式での営業となるわけです。この頃は動乱で江戸(東京)の人口がほぼ半減してしまったような時期なので、恐らく安く購入できたんでしょう。この3代目の頃にはすっかり繁盛店として定着していたようで、当時の「大江戸趣味風流名物くらべ」というかわら版には根岸の羽二重団子と並んで登場しています。この頃には江戸を代表するような“名物”になっていたわけですね。なお、この名物くらべには梅屋敷の梅干しもちゃっかりと載っていたりして。
そして、上の画像は大正の終わり頃に発行された、世間の様々なものを番付表にした本に掲載されている東京の食べ物屋を全て引っ括めて番付にしたものなのですが、これにも前頭ではありますが、船橋屋がしっかりと載っています。主食的なものに比して、なんですから大したもんです。
ちなみに横綱は東が鰻の神田川(神田)、西が同じく鰻を扱う竹葉亭(銀座)。張り出し横綱は天ぷらの中清(浅草)になっています。どれも今も老舗として続いている店舗ですね。
こうして、押しも押されぬ東京(江戸)名物となった船橋屋のくず餅ですが、現在も同じ場所で、その頃と同じような繁盛店として営業中ってのはご存知かと。てなところで、ザッとその歴史にもふれましたので、店に向かいましょう。
今は亀戸駅からの方から来る人が多いのですが、船橋屋に行くには天神橋の方から向かってもらいたい。
実は、この天神橋には行楽客が移動に利用する屋形船の船着場があったのです。往時には艀船が沈みそうになるくらいに賑わったそうで、その天神への向かうの客、あるいは帰る客のどちらかが必ず船橋屋の前を通る、と。そりゃ天神内から移転してからも繁盛しますよね。
現在の店舗は戦後(昭和28年)に建てられたもののようですが、極力戦前の店舗の風情を引き継げるように(この周辺一帯は爆撃によって焼け野原になり、船橋屋もしばらくは仮店舗での営業だったよう)気を使ったようで、檜造りの重厚感がある建物は老舗の風格を感じさせます。それでいて、建物前には藤棚もあったりするので、人を寄せ付け難いような雰囲気はありません。奥、そして右手が事務所ビルになっています(工場はまた別の場所にビルがある)。
訪れた当日は、丁度藤の花の季節で、満開といった感じでした。
その下には古井戸から水が湧きだしていて、元は亀戸(古くは亀井戸といった)天神から出た店舗らしい風情が演出されています。
余り混んでない時間で~と思ったので、9時の開店前(20分ほど前)に来たのですが、写真を見れば分かるように、すでに並んでいる人が結構居ました。今も亀戸天神は休みともなれば人でいっぱいになるのですが、その参拝客が流れてくる船橋屋も、江戸の頃と変わらずに大繁盛となるわけで、休日に船橋屋でくず餅を~という方は、その辺に気を付けましょう。年配者も多いので回転も早くはないですから。
始めの客入れで席につくことができました。店舗内は販売所と甘味処に分かれており、それほど広くはないのですが、この手の古い木造店舗にしては天井が高いので妙な開放感があります。甘味処は前払いで、販売所の方のレジで注文の品のお金を払ってからの着席となります(レシートを卓上に置いておく)。
甘味処の方も明る過ぎず、妙な安っぽさが微塵もありません。
その落ち着いた照明は大変モダンなランプ風のもの。昭和28年によくこういった店を作れたなと関心します。
奥には中庭もあります。
お茶を飲みながら、そうして店内を眺めているうちに、くず餅がやってきました。蜜もそうですが、黄粉がこれでもかとかかっているのが非常に結構。切り方は大ぶりなのですが、歯ごたえがよく、蜜も秘伝よろしくで全くしつこくないのでスルスルと喉の奥へ入っていってしまいます。黄粉が多いので、ピッチを上げすぎて咽ないように気を付けましょう。
この船橋屋のくず餅の原料となる発酵させた小麦澱粉は自家製。天然木を使用した樽で15ヶ月間も発酵させるとのこと。なんでも、昔はこの小麦澱粉の入手には麸の業者と手を組んで~ってのが多かったんだそうです。小麦粉を分離させて、グルテンは麸に、澱粉をくず餅にってわけですね。船橋屋は使用する地下水を含めて、すべて自家製でやっているようです(岐阜に澱粉発酵工場がある)。
この小麦澱粉を筆頭に、船橋屋では蜜、そして黄粉まで、全てこだわりまくって作っているのですが、材料費をケチってはいけないみたいな家訓があるからなんだそうです。ただ、こだわりまくりで、無添加であるため、賞味期限は2日だったりします。ということで、店で食べるのがベストなわけです。
甘味処の中庭の壁の方に扁額が掲げられているのですが、これとのれんの揮毫は何と吉川英治。なんでも六代目(現在は八代目)が私淑し、昵懇にしていたとのことで、めったに大書はしない吉川が快く応じて書いたものなんだそうです。
吉川はパンにジャムなどの甘いものを塗って食べるのが好きだったそうで、「蜜は船橋屋のに限る」とよくパンにここの黒蜜を塗って食べていたとのこと。奥さんが和菓子屋を始めたのも、この関係なんでしょうか。
他有名人では、肥満解消に盛んに狩りをしていた頃(当時、亀戸より西は田園地帯)の西郷隆盛が休憩にこの店をよく訪れていたんだそうです(甘いもの食べたら痩せないような)。そして、同じくこの墨東の地をよく散策し、しばしば休憩に訪れていた永井荷風は、小説『冷笑』の中で、船橋屋のくず餅を食べるシーンを入れています。
池の鯉に麩をやりながら名物の葛餅を食べた。
葛餅は敢えて蝶ちゃんばかりが好んで食べたのではない。
母ちゃんのおきみさんも三角形に切った大きな片の二ツ三ツは成るたけ
沢山黄粉と砂糖のついて居る処を選んで続けて口の中に入れたのである。
また、芥川龍之介は晩年「僕は生まれてから20歳頃までずつと本所に住んでいた者である。」書くほど、この地に思い入れがあった人ですが、そう書いた『本所両国』の中に、友人と共に船橋屋を訪れ、くず餅を食べる下りがあります。
僕等は、「天神様」の外へ出た後、「船橋屋」の葛餅を食ふ相談をした。が、本所に疎遠になつた僕には「船橋屋」も容易に見つからなかつた。僕はやむを得ず荒物屋の前に水を撒いていたお上さんに田舎者らしい質問をした。それから花柳病の医院の前をやつと又船橋屋へ辿り着いた。船橋屋も家は新たになつたものの、大体は昔に変つていない。僕等は縁台に腰をおろし、鴨居の上にかけ並べた日本アルプスの写真を見ながら、葛餅を一盆づつ食ふことにした。
「安いものですね、十銭とは。」
O君は大いに感心していた。しかし僕の中学時代には葛餅も一盆三銭だつた。
この後、「江東梅園は臥龍梅と共にと一緒に滅びてしまつているであらう」みたいな文章もあるのですが、この友人として出てくる「O君」というのは芥川作品の装画を担当した洋画家・小穴隆一で、芥川が遺書で子供たちに「小穴隆一を父と思へ。」書くほど、親しくしていた人物です。荷風と合わせて、亀戸神社と言えばくず餅ってのが定番だったというのがよく分かる文章ですが、値段から当時のインフレっぷりもよく分かりますね。そういうも芥川は“不安”だったのかっていう。
食べ終わっての帰りしな、横の壁を見ると、昔の店舗の写真が掲げられていました。戦争で焼ける前の店舗ですね(明治中期に建てられたものらしい)。これは重々しい。
さらに東都のれん会の古い集印もあったりして。「東都のれん会」は昭和26年(1951年)に出来たものですから、建物の建替え時にもらったものですかね。
外にでるとさらに列が長くなっていました。
何しろ混む店なので、並ぶのが嫌な人は土産でくず餅を買って帰りましょう。亀戸天神参道や亀戸駅でも売っていますので、帰りに買うのもいいでしょう。
また、都内であれば店舗は結構あります。地方で買えない!って人にはオンラインショップも。ただ、なにしろ賞味期限が2日なので、気を付けましょう。
帰りに亀戸天神に寄ると、藤が満開ってことで、バズーカ砲のようなレンズを持った年配者が並んで写真を撮っていました。それに混じって写真を撮ってみる。確かに浮世絵と同じようなアングルだけど、こういうのも風情っていうんですかねえ。まぁ、やっぱり花より団子ってことで、今回は以上になります。
元祖くず餅「船橋屋」
住所:東京都江東区亀戸3-2-14
電話:03-3681-2784
営業時間:販売は9:00~18:00、甘味処は9:00~17:00
定休日:基本無休
東京都江東区亀戸3丁目2−14