いきなりだが文士ものを書いてみようかと思うのである。
私事多忙のため、どこぞを見て廻ったりする時間が無いというのが大きな理由で、文士ものだったら、ちょっとした資料と脳内でなんとかなるという、まぁ安楽椅子探偵でよろしいということなのだが、単に好奇心の向かい先が全く安定しないという節操の無さを披露するようで、ある種の気恥ずかしさも無きにしもあらずだったりするのですが、それほど繊細な人間でもなかったりするので、まぁ気にせずにドンドンと参りましょう。というわけで“文士家庭内DV野郎列伝”披露!
夏目漱石
夏目漱石といえば“神経衰弱”ということで、元々の癇癪持ちを加えての事情から、どうも家族に手を上げていたらしいというのは弟子を含む周辺が書き残したものを読んで知っていたのだが、でも“病気”だからね~と軽く見ていた自分をぶっ飛ばしたのは漱石の二男である夏目伸六が回想した以下の文章であった。
まだ小学校に上る前、父(漱石)と兄(長男・純一)と共に神社の射的場へ行ったときの出来事。
「おい!」突然父の鋭い声が頭の上に響いた。
「純一、撃つなら早く撃たないか」
私は思わず兄の顔へ眼を移した。兄はその声に怖気づいたのか急に尻込みしながら、
「はずかしいからいやだあ」
と父の背後にへばりつくようにして隠れてしまった。私は兄から父の顔へ眼を転じた。父の顔は上記をおびて、妙にてらてらと赤かった。
「それじゃ伸六お前うて」
そういわれた時、私も咄嗟に気おくれがして、
「はずかしい…僕も…」
私は思わず兄と同様、父の二重外套の袖の下に隠れようとした。
「馬鹿っ」
その瞬間、私は突然恐ろしい父の怒号を耳にした。はっとした時には、私は父の一撃を割れるように頭にくらって、湿った地面の上にぶっ倒れていた。その私を、父は下駄ばきのままで踏む、蹴る、頭といわず足といわず、手に持ったステッキを無茶苦茶に振り回して、私の全身へ打ちおろす。
ただのキ○ガイじゃねーか!
今こんなことを衆人環視の中やらかしたら、取り押さえられて間違いなくタイホだろう。そして“病気”ということを考慮しても子どもは保護と。これで許されるのだから、当時の家長絶対は恐ろしい。
当然、この暴力は家族全体を巻き込んだものであったようだ。
ここで思い起こさせるのは漱石の妻・鏡子悪妻論である。今ではこれは漱石邸で好き勝手なことをやって、鏡子にうるさく言われた弟子たちが逆恨みで吹聴したものということが分かっているが、こういった漱石を「ロンドン留学で神経衰弱になっているだけ」と別れずに支え続けた鏡子を、よくまぁ悪妻論で叩こうという気になったというのは今から見てということなんでしょうな。実際、悪妻論は最近まで親炙していたわけで、まぁ当時個性的な女性はもれなくそういった立場に立たされる部分があったと。それはともかく、付き合わされる子供達はたまったもんじゃなかったろうがね。
森鴎外
森鴎外という人はある時期まで家庭生活というものを殆ど母・峰子に支配された人であった。
鴎外は明治22年(1889年)に恩人・西周の斡旋で、日本造船の父とも言われる海軍中将・赤松則良の長女・登志子と結婚。峰子も当初は華族から嫁が来たことを喜んだものの、その華族的生活からくる経済的負担、というのは表の事情で~実際は家格の大きさから何から何まで嫁主導となってしまったため、息子が婿に取られたような気分となり、主導権を取り戻そうと、イビリ倒して追い出そうと画策し、実行する。そして、息子・鴎外は登志子が“不美人”で愛情を持てなかったことから、それを放置し、加担したのである。
この“イビリ出し”の目撃者に作家の幸田露伴がいる。
最初の細君は、森が外国で作った女が追いかけて来たりしたので、ヒステリーになってしまい、それを森のおっかさんだか、森だかが嫌って追い出してしまったんだが、それにもわたしなどを道具につかったような気がする。なにしろ森の家に行くと、夜十二時になっても、一時になっても、お母さんと一緒に引き止めてはなさない。それで自然と細君と親しめないようになるからね。その細君は赤松という浦賀のドックの何かをしていた人の娘だ。この赤松と後年知り合いになってこんなことも知ったわけだ。
露伴が「外国で作った女」というのは『舞姫』エリスのモデルとなったドイツ人女性。世間的にはそのように思われていたというのが分かる。露伴はそれ以外にも「森家は変な人が揃っていた」「恐ろしく出世したい根性の人だった」「蓄財が好きなやつさ。心は冷たい男だ。何もかも承知していて表に出さぬ」等の証言も残し、森家が異様なくらい(下への)金銭を締める家だったこと等~イロイロと目撃していたようだ。明治的立身出世の権化である鴎外と、そういったものから身を避けてきた露伴が合うはずもなく、紐帯となっていた斎藤緑雨が死ぬと、あっという間に疎遠となっている。
ともかく、当然の流れとして離婚となるわけだが、赤松家は激怒(あたりまえだ)、恩人・西周は鴎外を破門した。これで鴎外も懲りたと思いきや、登志子が再婚先で亡くなったという報のすぐ後に、母・峰子が探し出してきた離婚歴あり・美形で二十二歳(鴎外は四十歳)の荒木志げと結婚(離婚から再婚まで峰子は妾の世話までしている)。親友・賀古鶴所に「美術品ラシキ妻ヲ迎ヘ」と手紙を送るくらい有頂天となるが、またぞろ峰子がイビリ始め、大変苦労することになるが自業自得である。
鴎外がこれだけ変な人格でありながら、あまりその辺で突っ込まれることが少ないように思えるのは(“専門家”の間ではあるんだけど)、特に娘(茉莉・杏奴)という信奉者が理想の父親像としての鴎外といった文章をタップリと書いたからだろう。この点、作家は息子よりも娘が居たほうがトクをするようである~というようなことを山田風太郎が書いていたな。
なお、後添えとなった志げは死ぬまで森家のシワさに苦しめられることになる。
三好達治
三好は陸軍士官学校を脱走し退学になった後、詩作に目覚めて東京帝大仏文科に入学すると、各種の文芸活動によって梶井基次郎と知り合う。そして、梶井の持病(結核)の転地療養に付き合って伊豆湯ケ島で逗留中に萩原朔太郎と知り合い弟子のような関係となり、萩原家に頻繁に出入りするようになる。そこで三好は朔太郎の妹・アイに一目惚れするのである。アイは基本目鼻立ちがハッキリとした顔の萩原家の中でも、最も美形であると噂される人だった。
アイは当時二十三歳で二度の離婚歴があった。資産家(開業医)末っ子として甘やかされて育ったため、ワガママ放題で結婚しても長く続かないような人だったのだが、三好は気にせず求婚。しかし、三好の才能を知る朔太郎は賛成したものの、求婚当時はまだ大学を出たばかりで何者でもない若造には〜と、他萩原家一同から反対され、アイもいまいちその気がなく断念~と思いきや、不屈の意志と朔太郎のコネで出版社に就職した三好は粘ってなんとか婚約までこぎつける。が、こんな時に出版社は倒産し、婚約もご破産となってしまう。
ここで漸く三好も諦め、詩作に専念。アイも妻と死別した作詞家の佐藤惣之助へと嫁ぐこととなる(佐藤も以前から美形のアイに目をつけていた)。佐藤は結婚後に作詞家として成功し、萩原家は三好との結婚を断ったことを懸命だったと話合ったという。
こうして、三好も佐藤春夫の姪・智恵子を結婚し、それぞれ落ち着いたかと思われたものの、十六年以上の時が過ぎた後に朔太郎が死去し、その葬儀等の世話が心労だったのか佐藤惣之助も急死すると、またぞろアイに接近し始めるのである。
妻と別居を決心しましたと、福井県三国町に疎開(当時は戦争中の昭和十九年)して食料も多い場所で安全に二人で暮らしましょうと別荘まで用意して、萩原家に談判をしに来る始末。この時点でイロイロとヤバいのだが、この顛末を見聞きしていた萩原朔太郎の娘(アイは叔母ということになる)で、後に作家となる萩原葉子はこの時の三好の様子をこう記している。
「…なにしろひどく興奮していて手がつけられないのよ」
「顔でも切られないように気をつけた方が良いよ」
叔母はまた二階に上がって行った。前よりも一層声高の三好さんの声がした。階下にいる私の部屋まで聞える声だった。
「惣之助が死んだその日からぼくはあなたを掠奪しようと考えていた…」
激しい調子の声は、息切れしながら続き、心のありたけを吐露しているのが分かった。
こんな話受けるわけないだろ!と今までの流れを見てみると当然思ってしまうが、実はアイは惣之助の死後に出てきた遺言状で何故か財産を相続する権利をほぼ剥奪されており、その失望から三好の熱情にほだされてしまう部分もあったようなんである。この失望は萩原家の総意といった感じもあった。
こうして、萩原家で常に三好との交際に反対してきたアイの母(朔太郎の母)が籍がキレイになってからならと折れると、本当に妻と籍を抜いて(あたりまえだが佐藤春夫激怒、谷崎潤一郎含む関係者が三好に慰謝料やらの念書を書かせている)アイを迎えに来たため、アイ本人と萩原家の人間も三国に行くことを承知することとなるのである。もうなんとなくどうなるかは分かりそうな~というか予想道理の展開となる。
三国に行ってみると“別荘”は名ばかりで、ほとんど廃屋のような家が雪に埋もれていた。そして、日本海特有の季節風が吹き荒れ(季節は冬)ミシミシと音を立てている。三好の詩人としての収入は少なく、生活がギリギリの状態(上記の慰謝料の問題もあった)。にも関わらず、行動を監視され、生活の細々としてことに口を出してくる。アイも黙ってはいない性格である。激しい言い合いが始まることとなり、三好が手を上げるようになる。当然、アイは騙されたと“逃亡”を図ろうとする。が、見つかって激しい暴行を受けることになるのである。
―こんな監禁された生活では、生ける屍ではありませんか。あなたと別れたいのです!こんな生活はもう一日も続けているのが厭です!
言い終わらないうちに、私は三好に髪を引っぱられて、二階から引きずり下ろされていた。そして荷物のように足蹴にされたり、踏まれたりした。後頭部の疵口と目から血が噴き出ても、まだ打ち続けられた。気違いになったのだろうか。私はこれで殺されると、半ば意識を失いかけながら思った。そして血まみれになって夜の夜道を、警察まで夢中で逃げ込んだ。
こうして“お岩さん”のようになったアイは旅館に運び込まれ、三日間寝込むことになる。しかし、三好は外面は非常に良いため、こんな状態になっても周囲(三好を中心とした文芸的な集まり)は深刻さを理解せず、結局“別荘”に戻って療養する羽目になってしまう。そして、身体が動くようになればもう一度逃げようというのは当たり前だ。それに三好はまたも暴行することで答える。
―あなたというひとは!なんというひとか!!
その瞬間、私は雪の中に放り出されていた。モンペや脇や袖口から雪が飛び込んできた、冷たい!!と感じた時、二度目のひどいビンタが私の目に当たった。思わず両手で目を覆い、雪に顔を伏せたが、続けて狂気のような早さと力で下駄で顔を打撲されたのだ。
気絶して、十日間寝込むことになったアイを見て、流石に周囲も深刻さを理解し、治療に当たった医師を中心に、三好から引き離すべく話を進め、一旦安全なところで別居させ、春になって電車が運行する時期になったら(戦争中なのでそういった運行状況だったよう)東京に帰すということになる。結局、二人の生活は十ヶ月ほどで破綻したこととなる。三好はアイが帰ることは渋々認めたものの、アイが持ち込んだ着物を持ち帰るのは許さなかった。
後に、その着物は三好の遺品整理で、タンスの中に大事に保管されていたのが発見されたという。
ちょっと一項目としては長く三好達治をこのように紹介することになったのだが、実は、このDVを三好側関係者が完全否定している、といった事情から端折ることが出来なかったのである。
この“事件”を作品という形として残した朔太郎(にそっくり)の娘である葉子は叔母との“事件”とは離れて、子供の頃から三好との関係は良好であり、ほとんど文学上の師弟といっても良い関係。朔太郎亡き後の父的な~といってもよいのだ。しかも、“事件”後に朔太郎の作品の著作権を管理して、娘である葉子に渡そうとしない祖母(上記のアイとの結婚の最大の反対者)と対決し、その半分が葉子に来るよう骨を折りまくったりもしている。この著作権の問題から、萩原家とその中で甘やかされていた叔母に対しては距離のようなものがあったのだ。
つまり葉子は三好と叔母(その背後の萩原家)に対して大変複雑な感情があり(純粋な三好先生と俗な叔母のような表現もある)、この話をでっち上げたという可能性もあるということで、ひっくるめての気味悪さはピカイチというのもあり、バランスを失しても取り上げたものである。
澁澤龍彦
現在では「不滅の少女」と呼ばれる翻訳家で作家の矢川澄子は、澁澤龍彦との結婚生活を『兎とよばれた女』の中でこう振り返っている。
兎は人妻として夫とともにあり、こよなく倖せなおうちごっこに明け暮れていました。
おうちごっこ?
そうです、ごっこです。なぜってここに住む一組の男女は、もともと世間並みの家庭を築くつもりは毫もなかったのですから。すべては遊びでした。遊びでなくてはなりませんでした。世間の目をくらますためには、二人して、あるときは夫と妻を演じ、あるときは子と母を、あるときは兄と妹を演じていさえすればそれですみました。
それはまことに甘美な一場の夢でした。
しかし、この“美的生活”は矢川の方に一方的な奉仕を迫るものだった。その結末として堕胎を繰り返した矢川は子供が産めない身体となる。
このような“美的生活”を守るためにパートナーに堕胎を迫るというのは、自分も含めて“世代的に”みなどうしようもなかったと、埴谷雄高は晩年の対談(相手は五木寛之)でこう告白している。
武田泰淳もけしからんのですよ。百合子さんも四回なんです。本人は四回やって最後は失神しちゃったんです。失神したら、さすがに武田もしようがなしになって花ちゃんを産んだんです。武田も澁澤も、本当に女房に対してはだめな男。僕の世代は本当に駄目ですよ、男性横暴で威張っている。その上に、澁澤は矢川さんに清書させた。初期のある時期、矢川君は清書しながら自分の考えも入れて、澁澤をかなり助けている。澁澤はフランス語だけど矢川さんはドイツ語なんです。ドイツ語的知識は矢川さんでないとできないんです。
しかし、ここまでの奉仕をしても澁澤は外に女性を作り、矢川も疲れ果てた末に澁澤の盟友である加藤郁乎との不倫事件が持ち上がり、離婚することとなる。
矢川が財産分与等を一切求めなかったにもかかわらず、澁澤は矢川の“裏切り”を許さず、二人が並んで写った写真を全て真っ二つにして送りつけ、自分の経歴全てから矢川の存在を消し去ろうとした。矢川はそのことも『兎とよばれた女』に書いている。
揺らぐ階段をひとたびおりれば、その下には
昔ながらの家父長制が胡座をかいていたことも、
にも拘らず階上での理想を全うするために
あの子が通わなければならかなった手術台の数も、
それら一切を胸中に畳みこんで
晴れやかにふるまいつづけた日々の恍惚と不安も、
それがまた、いつ、どうして破綻へと導かれたかということも、
ここには何ひとつ、具体的には語られませんでした。
ほかでもない、作者自身がそれをのぞまなかったからです。
矢川は七十一歳の時に、自宅で首を吊り亡くなった。同年に発売された澁澤のムック本に澁澤家への配慮(あるいは希望)から矢川のことが一切書かれていなかったのが原因でないか言われるが、残された遺書は公開されていないので実際のところは不明である。
兎とよばれた女(ちくま文庫)
おにいちゃん ― 回想の澁澤龍彦
ユリイカ2002年10月臨時増刊号 総特集=矢川澄子 不滅の少女
司馬遼太郎
司馬が亡くなり一年ちょっと過ぎた後、かつてあった『噂の真相』という雑誌が(まぁ跡形もないのでこういう書き方になってしまう)、司馬は司馬遼太郎記念財団理事長で、司馬遼太郎夫人としてのファンの間ではよく知られる福田みどり氏との前に結婚歴があり、そのこととその時に出来た息子を世間から隠し続けてきたというのを暴露した。
前夫人と離婚する原因となったのは舅である司馬の父のパワハラ・セクハラ混合のイビリ。司馬はほぼこの父親の支配下にあり、事態をそのまま放置。仕事だ、と逃げ家にも帰らなくなる。で、結局前夫人は追い込まれて離婚となるのだが、司馬の父が“跡取り”だ!と強引に親権を取り、息子も奪ってしまう。しかし、このような形で親権を取ったにもかかわらず、司馬自身は息子の養育を放棄。父母に預けっぱなしにしてしまう。そして、別れてからも、この一連の流れを無視するように、媚態をしめしてやたらと会いたがり、福田みどり氏との結婚までも相談してきたりしたという。
『噂の真相』に「司馬遼太郎という男には、ある種の人間的な情感というものが決定的に欠落している気がしてならない。」と書かれても仕方がないような所業だが、息子はその後~祖父に言われて司馬の家へ行き、玄関でみどり夫人に養育費をもらうというのだけが親子の関係という生活を送って育ち、当然というか息子側も“司馬遼太郎の息子”と言われるのを嫌い、そのことを隠し続けたという。
“国民作家”司馬のスキャンダルは一部で大変注目されたものの、司馬作品の恩恵をタップリと被っている一般メディアはほぼ黙殺した。
因みに、この父親のパワハラ・セクハラを放置して、妻を自殺まで追い込んでしまった著名人として元首相の故・竹下登がいる。孫のDAIGOはこの初婚の悲劇を回避出来ていたら産まれてこなかったのである。今の政治状況の源流にこのような人が居たというのは忘れるべきではないだろう。
牧羊子
“野郎”と銘打ってしまったものの、除外するわけにはいかない紅一点として、開高健夫人としても知られる作家の牧羊子を取り上げたい。
開高健が亡くなって三年後、開高ファン、そして関係者の間でも自他共に開口の親友として認知されている作家の谷沢永一によって、ある内容の書籍(『回想 開高健』)が世に出ることとなった。開高は結婚の経緯も含めて牧羊子に拘束同然の生活を強いられており、そのためにそこから逃げようとする“紀行”もののようなものを多く書くようになったこと、そして最後の入院でも友人・知人を牧羊子よって面会謝絶にされるという完全な支配の中で闘病する意志を失い亡くなっていったこと等、開高ファンの間で“恐妻家”としては行き過ぎじゃないのと、モヤッと語られていた部分の答え合わせとも言えるような内容だったのである。
牧は、このところ、連日、茅ヶ崎の自宅で、特製のスープをつくり、夕方、病院へ、はこびこみむ。それさえ飲めば、完治(なお)る、のである。確実、なのである。病院も、ゆるしているのである。しかし、開高は、我慢である。えたいが知れない、と、こばむ。ますます、つよく、いやがりはじめた。そこで、牧が、一喝した。これ、飲まんと、癌、なおれへんやないか。
私の知っている開高は、告知にふさわしい性格ではない。誰にむかってでも、私は、告知に、反対である。ましてや、開高は、その気質は、じつのところ、繊脆(せんぜい)、である。かぼそく、もろく、よわい、のだ。彼は、豪傑、なんかではない。見せかけ、山っけ、には無縁である。生地を、さらして、きたのである。その、いたわってやるべき男に、なんたることを。
谷沢永一の文章は元々句読点が多いのだが、この部分はイロイロと気持ちが入ってしまったのか、更に多くなってしまっている。この後、葬儀の様子も書いているのだが、谷沢が描写する喪主・牧羊子は、まるで『サンセット大通り』のノーマ・デズモンドのようで、ほとんどホラーである。
本の内容に関して、“親友“による“妻”への嫉妬ではないかという声も無いわけではなかったが、開高担当編集者達からチラリチラリと谷沢の正しさを証明するような情報が出てきて、現在では書き方は偏ってはいるが内容はほぼ事実といった辺りに落ち着いている。牧は大概一方的なものとなる夫婦喧嘩でも普通に手の出る人であったようだ。
さらに谷沢の書いた内容を補強することとなったのは、娘・道子の自殺である。容貌が開高にそっくりのこの作家志望の娘は、父のことを書いた『父開高健から学んだこと』を読むと、阿川佐和子のような生き方をしたかったのでは、と、思わせるものがあるのだが、それは母によって父虐待の共犯者にさせられたことで、その道は予め断たれていたのだ。なお、この娘の自殺を牧はあくまで事故であると主張していた。
恐らく、牧は望み通り“開高健”を自分のものとすることに成功したのだろう。しかし、それは“夫”と“娘”を引き換えにしたものであった。二人が逝った後、牧が最後の時間をどのような心境で過ごしていたか。それ自体が“文学的”ではある。
井上ひさし
内容的にも真打ちといった感じなのだが、井上ひさしのDVに関しては、それが公になったのが井上の作家としての知名度がピークの時期だったというのもあり、やや語られ過ぎている感がないでもない。
主にその語られ方の一つに平和運動等に熱心だったことから、その凄惨な内容のDVとの矛盾を突くというものが多いようだ。これは矛盾でもなんでもなく、DVを起こすのはテキトーな人間よりも、理想主義的な人間の方が深刻な事態に陥ることが多く、その“理想”を“布教”することに熱心な余り、“強要”という手段まで安易に進んでしまいがちなのだ。人間、正しいことをしていると確信してしまうと、他のハードルが下がってしまうのである。当然、その被害はまず身内ということになる。平和運動を行った文化人の鼻祖的存在のトルストイもDV野郎で、嫁の方がガタイが良かったため“家出”して死ぬこととなったとか、なんとか(このガタイの問題は笑い話でもなく、アメリカの黒人女性は伴侶となる黒人男性のDV率が高いため、ガタイが良くなる傾向があるという)。
しかし、井上ひさしのDVの問題で、もっとも醜悪だったのは、井上の周辺~マスコミ・出版・演劇の関係者がほぼ共犯者といった関係であったことだろう。
ひさしの好子への暴力はエスカレートするばかり。しばしば好子を死ぬほど打ちのめした。大抵は仕事に入る前の「行事」となった。いや、「儀式」となった。それをしないと一人になれなかったのだ。
この「儀式」はひさし番編集者なら誰でも知っていた。原稿がもらえず長いこと待たされている編集者は、すまなそうに好子に手を合わせて拝みこむ。
「奥さん、申し訳ありません。もうリミットぎりぎり、今夜までにいただかないとアウトなんですよ。お願いですからニ、三発殴られてもらえませんか。」
そして、問題が明らかになってからも、その協力体制は続く。
離婚会見は午後三時から行われた。稽古場にしつらえた即席の会見場には、長テーブル一台にいくつものマイクが置かれ、ひさしをはじめ事務局長の渡辺ら劇団関係者が並んだ。
<中略>
「勘弁してください。武士の情けだと思って…」
眼鏡の奥のひさしの目は移ろい気味に空を泳いだ。いかにも心苦しいと言わんばかりのもの言い、分かって欲しいという言葉の裏に、妻に愛人ができたことを案に示唆し、記者たちの同情を誘う雰囲気となった。
「今のことは一部始終を話す気にはなれません。わたしも作家ですから、いずれ自分の昨日の中で描くことがあるかもしれません。それまで、どうかそっとしておいてくれませんか」
そして、記者たちとの簡単な質疑があり、劇団は自分の手でこれまで通り続行していきたい旨(注・好子は劇団の座長だったが、この会見前に一方的にパージされている)の説明がおこなわれ、会見はあっけないほど短い時間で打ち切られた。
といった出来レースような会見から、好子はマスコミにコテンパンに叩かれることになるだが、要するに井上が生み出す利益の前に総出で守りきり、DVに関しては口を噤んだのである。
さらにこの問題で面倒くさいのは、娘も両サイドに分かれて、本を出版したりしていて、マスコミの恣意性、出版社の利益至上、演劇界の前近代性といった問題に加えての、さらに井上の動物虐待の話もあったりして、盛りだくさん過ぎるというか、親戚にもらったので捨てられない・食いきれないクソ不味いクッキー詰め合わせ(大)のような遣り場の無さがある。流石に自分も思いっきりモタれてしまったので、全部読み込むのは勘弁させてもらった。ただ、『修羅の棲む家』は井上のDVの記録だけではなく、大江健三郎が重度のアル中であることを結構早い段階で暴露した本であるってのはモノズキ的に押さえて置きたい所である。
なお、司馬遼太郎と井上やすしはお互いの人格を過剰なまでに褒め称える関係だった。お互い何か才能以上に惹かれるものがあったのだろうか。
さて、どんなもんだろうか。というか、こんなもんまとめて読み返すオレが病むわ!
というわけで、次回はもっと明るいものを扱いたいですね。
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