野坂昭如が大島渚・小山明子の結婚三十周年記念パーティーで、大島渚を殴打した事件はもうシツコイくらいにネタとして使い回され(どちらも死去後にコレ関連の記事が出てきている)、未だに動画サイトでワイドショーか何かからぶった切ったものが再生を重ねている。
しかし、当事者である本人達が、この事件のことに書いた文章が公のものとして残されている、というのはのは知らない人が多いようだ。何故そのようなことに至ったかといった辺りと、事件前後の心情はどうだったのかといった部分は、当たり前だが本人達が一番良く分かっている。このまま一山幾らの古本群の中に埋もれて、顧みられないというのも勿体ないということで、ちょっくら内容を紹介していこうかと思う。
まず、殴ったほうの野坂昭如の方のテキストは、『俺はNOSAKAだ: ほか傑作撰』の「拝啓 大島渚殿 先日の非礼をお詫び申し上げます」。まぁこっちはイイんである。新潮社から出ている真っ当なブンガク本で、テキスト自体もまず週刊文春に掲載されたものなので、目にした人間も多いだろう。しかも、こっちはキンドルでも新刊でもまだ買える。
問題は、殴られた大島渚の方、『理屈はいい こういう人間が愚かなんだ』(副題:自分という素晴らしい財産へ)というタイトルからしてモロに自己啓発本、そして、実際に青春出版社というソッチ方面専門のトコロから出たこっちの本の方だ。
自分も本屋で自己啓発本が並んでいる辺りには先ず行かない人間なのだが、時間潰しに冷やかしにグルグルと廻っていて「あれっ大島渚だ。」と、値段もそんなでもないし(1100円)、他のと一緒に購入して置いて(こういうことがあるから本屋は本屋で残ってもらいたい)、そのまま積読。後で目を通して、殴打事件のことが書いてあるのを知ったという感じで、基本タレント・大島渚方面の本だし、恐らく大島映画が好きなんて人も、中々購入していないんじゃないかという本なのである。自分が手に入れたのはホントーに偶然だ。自己啓発本を買うような人たちは、本を読んだら捨てちゃうような人達(ヘンケンはイケマセン)だし、どうも古本としても余り出てこないようなのだ。この辺りが、どうも触れられることが少ない理由と思われる。
その本の「なぜ、野坂昭如さんに殴られたか」には、あの事件が起きたのは、明らかの自分の失敗だったとこう振り返っている(野坂のものは事件後すぐのものだが、大島のものが書かれたのは事件の2年後)。
これは明らかの私の失敗である。
私はパーティーでのスピーチをお願いするための手紙を、何人かの人たちに出した。その頃、テレビで私の担当するコーナーによく出てもらっていた野坂さんもその一人だった。にもかかわらず、挨拶していただかないまま、終わろうとしていたのだから、怒るのは無理はない。
悪いのは明らかに私である。野坂さんに対する理解不足によって、私は彼を傷つけたのである。
弁解に聞こえるかも知れないがと、その「理解不足」とは何かを大島は書く。
私は映画監督である。ひとつの作品をつくり上げるだめに集団を指揮し、スタッフや俳優の全能力を引き出さねばならない。最高の映画をつくるために彼らに無理な要求もする。そして時には彼らが苦労した部分をカットすることもある。
あのパーティーでは、私は野坂さんだけではなく何人かにスピーチを依頼しておきながら、会がはじまってまもなく、会場のわりに人が多すぎて、どんなスピーチでもよく聴いてもらうことは不可能と考え、大半のスピーチは割愛させていただこうと、決断していたのである。
この時点で、大島はこのことを依頼した人達に、このことを連絡しようと思ったが、映画人・芸能人は集団の仕事には慣れている人達だろうから、その場の処置として当然と思ってくれるだろうと、会の進行の方を優先した。しかし、芸能活動もするが本来は“作家”である野坂のことをスッカリ忘れていたというわけだ。
野坂さんは作家である。たったひとりで仕事をしている。さらに言うなら、つねに編集者がそばにいて、作家をもり立てる。もり立てられることによって作家は奮起して小説を書き上げる。そのようにまわりがもり立ててくれなければ、作家という孤独で辛い仕事はできない。
つまり作家の感覚と映画監督の感覚は、まったく違うのである。この理解不足が、壇上での殴り合いに発展したと私は考えている。
大島がこういうように、野坂の方はスピーチを“作家”として引き受けていたのだ。
痩せても枯れても還暦を過ぎても、ぼくは物書きである。頼まれた以上、きちんと用意しなければ、一分が断たない。どうせお前の生活費は、TVと講演だろうと、まことに正確に言い当てる、そして少々心ない台辞(セリフ)をする輩もいるが、ぼくは文筆の徒のつもりではいる。
こういった理由から野坂はメチャクチャ気合を入れてスピーチを考えていたのである。
何をしゃべればいいか。昭和三十四年二月、フジTVがまだ開局する前、試験放送の頃に「スター千一夜」なる番組の構成を担当して、小山さんに登場していただいた。さらに二年前、松竹京都、近衛十四郎氏主演の映画の脚本助手として、小山さんの台辞を考えたこともある。大島さんとのからみなら、そりゃもういくらだってしゃべることができる。
柄にもなく、「大島」「小山」を詠み込んだ、戯歌をつくろうと思いつき、ホテルの部屋で、ほぼ十二時間考えた。四方赤良とか宿屋飯盛の才があれば、お茶の子さいさいなのだろうが、「大島」「小山」は妙につき過ぎている感じで、非才にはうまくまとまらないのだ。
<中略>
でもまあ、腰折れともいえぬ六首をつくり、すべてを三分間におさめるべく、あれこれ空しい推敲をして、お祝いの席に臨んだ。大島さんの熱烈なファンである外国人三人にも声をかけ同行した。
“芸能人”野坂昭如ならば、仮面を被ってトリックスターな行動も恥ずかしくはないが、そこに居るのは自身~人前でしゃべるのは苦手、気取るのはみっともない、シラフでは女房ともしゃべれない~と語る“作家”野坂昭如なのである。
メインテーブルの脇で出番はまだかと緊張して誰ともしゃべらずに出番を待っていれば、当然酒に手が出る。結局、二時間以上忘れ去られている間にウイスキーのダブルを十杯以上飲んでしまい、足元もおぼつかない泥酔状態に。そして、そのまま会がお開きになり、酩酊したまま、俺の立場はどうなるんだと怒っているところを、関係者が気づいて壇上に上げられたものの、あーなってしまったと。
やらかしてしまった野坂は、“作家”らしくシャイに反省する。
言い訳になるが~と、もし、優れた進行役が別に居たら、ボケっとしていた自分の姿も眼に止められ、なんとかとりなしたはずだと、次の進行係に立候補する。
大島さんにお詫び申し上げると共に、このつぎ、四十年目のお祝いの会には、是非、ぼくを進行係に起用して下さい。歌を作るよりは、こっちの方が、どうも才能があるような気がする。
そしてまた、外国人の見方によれば、あのストレートは中途半端である、やるならぶっとばさないとカッコよくないそうだ。ぼくはわりに人の意見には素直に従う方なので、四日前から、日本古来より伝わる武道の一門に加えていただき、今は新潟の砂地を走りまわり、かつブンなぐられて、体中痛くてしょうがない。また、歌も、もう少し何とかしなけりゃはじまらないから、「国歌大観」をコピーで縮小し、持ち歩いている。
恥ずかしかったのだろう、後が剣呑な感じには書いているが、実際はこの公開された文章とは別に大島に手紙を送って謝罪しており、その手紙と一緒に小山の方にはブラウスを送ったという。これに対して大島も謝罪の手紙を送り、両者は“和解”した。
大島自身はあの流れで殴られたのはむしろ良かったんだと、こう書いている。
私はあの壇上で「何も殴ることはないじゃないか」と野坂さんに抗議したが、考えてみると、陰で悪く言われるよりはよかった。陰でささやかれていると聞いたら私は反省するどころか、逆に相手を嫌ってしまったかもしれない。それによってお互いの関係に溝ができたまま理解不能におちいるところだった。
しかし、殴られたことで、私は率直に反省することもできたし、野坂さんをより深く理解することができたのである。
この殴り殴られる“理解”。これには二人が若き頃、新宿で同じ空気を共有したという一種の同志的友情のようなものもあるようなのだ。野坂は三十年前だったら、あの場で石堂淑朗か佐藤慶に殴られていただろうと、その“空気”を振り返る。
「カヌー」の、バァマン「健ちゃん」が独立して、「ユニコーン」を開いた。この店の主役が、大島さんの主宰なさる「創造社」の面々。三十年近い前の新宿は、とにかく物騒だった、火事はともかく喧嘩は日常のこと、特に「創造社」の一派は怖ろしかった。
「ユニコーン」では、たとえば役者同志、お前はピンク映画に出た、てめぇはTVに出たと、お互いにののしり合って、なぐり合っている、トイレットに入れば、いつ後ろから襲われるか、常に気をくばっていたし、狭くて急な階段は、十分に確かめてからでなければ、降りられない。何人もが突き飛ばされ、救急車のご厄介になったのだ。
大島さんはいつも、入って右側、公衆電話の近くに、傲然といらした。嫌いな奴が店にいる限り、帰らないと人伝手にうかがった。
野坂が気合を入れてスピーチを書いたのは、単に“作家”だからではない、同じ空気を共有した大島へ、ある種のエールを送りたかったのだろうというのが両者の文章を読み進めていくと分かっていく。それには確かに“殴った”方が良かったんだろう。んなわけで、最後は妙なすがすがしさのある大島の文章でシメよう。
若い頃、私は新宿のあるバーを根城にして、毎夜のように酒を飲んでいた。
そこでは喧嘩は日常のことであった。明確な理由などない。気に食わなかったから殴る。それだけである。だから私は背後から襲われないために、いつも自分の背中を壁にくっつけるようにして、グラスを口に運んでいたものである。
そんなことをするくらいなら、そんな野蛮なところに出入りしなければいいじゃないか、とおもうだろうけれど、喧嘩は相手を理解するためのひとつの手段なのである。最善の手段ではないだろうけど、喧嘩を忘れて陰にまわって相手を攻撃するよりは、たがいに本気で殴り合うほうが理解は深まるのである。
野坂さんとの一件は、久しぶりに青春時代をおもいださせてくれた。