この『人斬り』はどうも三島由紀夫という人間を前に置いて語られることが多い映画になってしまっている。
「楯の会事件」という世間を揺るがした事件を起こし、切腹という形で自決することになった一年前に、田中新兵衛という実在した暗殺者の役で切腹シーンを演じていることを考えると致し方ない部分はあるのだが、さらに八十年代に入って行われた三島を回顧する勝・五社の対談での五社英雄の発言(ロス疑惑の三浦和義のような劇場人間)に対して激怒した右翼が五社の顔を斬りつける事件の影響もあり、国内ではVHS以後ほぼソフト化はされない(時代劇チャンネル等でまれに放映される)という状態~ある意味“三島由紀夫”に拘束され続けるという、おそらくこの映画に嬉々として出演した三島の意に反する形で、作品としては大変不遇なまま、ほとんど捨て置かれていると言っていい。
しかし、この映画の主要キャストの中で後にセンセーショナルに“破綻”を迎えることになったのは果たして三島だけなのだろうか。
すでに五社英雄の“破綻”に関しては『鬼龍院花子の生涯』の時に取り上げているが、石原裕次郎、そして勝新太郎も全く別の形であるが“破綻”していったではないか。幕末という時代に飲み込まれて破綻していった男たちを、昭和という時代を背負おうとして破綻していった男たちが演じ、演出するという破綻の曼荼羅が開帳されるのがこの映画なのだ。三島アングル、あるいはサブカルカルト的な見方のみというのは勿体なさ過ぎる。
とうわけで、主要キャストを順々に眺めていくことで、この映画の魅力に触れて行こう。
さて、先ずはその曼荼羅の中心に鎮座する仲代達矢からだ。
実際の武市半平太はその人格も行動も多面体と言っても良いような部分がある人物だったようだ。しかし、この映画の仲代“武市”は冷徹な政治機械かつエゴに塗れたテロの首謀者といった殆どカリカチュアレベルの分かりやすい方向に全振りとなっている。
二時間という映画の制限を考えると作劇上こうなるかというのも無きにしもあらずなのだが、仲代は流石の豪腕で“カリカチュア”をねじ伏せ、説得力のある人物造形に見事成功している。
この“カリカチュア”で表現される武市の持つ権勢は、ロラン・バルトが指摘するところの日本の政治・権力構造の「空虚な中心」論と見事にリンクしており、それに駒として使われる勝“以蔵”の悲劇性を高めることになっているのである。恐らく、この効果を生み出すための配役は仲代でなければ無理だっただろう。
次は坂本龍馬を演じる石原裕次郎。
この配役は単に興行上の売上を考えてのことだけでなく、私生活上で勝と親友だったことも大きかったようで、当然のように劇中の二人の厚情にそれこそ厚みを与える効果を生んでいる。この裕次郎“龍馬”側からの勝“以蔵”への慈愛に近いような眼差しは、石原裕次郎がこの時期に役者としては転換期にあったことが大きく関わっている。
日活の大スターとして“若き衝動”を象徴していた裕次郎も中年となると、よく下膨れと揶揄される特徴が激しくなり、当然のようにそれ一本槍で仕事を支えるのは難しくなる。そこで注目されるようになったのは元々裕次郎が個人的な資質として持っていた“包容力”である。石原プロのことはいまさら説明することもないと思うが、後に『太陽にほえろ!』のボスとしてブラインドを指で下げつつ部下を優しく見守るという形で様式化される例のアレなのだが、この映画撮影時の頃はまだそこに完全に移行するわけでもなく、いわば中間地点に居たのである。
しかし、これが勝“以蔵”に対して、単なる同輩としての友愛だけではない、見守る保護者のような視線を、この二人のすれ違いを見ているものに意識させることとなり、こういった人物が近くに居たのに何故~という悲劇性を更に高める役割を果しているのだ。
三島“新兵衛”も取り上げないわけにはいかない。
この映画を初めて見た時に(大根と酷評された)主演の『からっ風野郎』を見ていたため、正直な所全く期待せず、まぁ身構えて劇中へと入っていったのだが、諸々の批評にあるように大変な適役なので妙に安心してしまった。三島自身が「ただやたらに人を斬つた末、エヽ面倒くさいとばかりに突然の謎の自決を遂げる、この船頭上りの単細胞のテロリスト」と書いた田中新兵衛そのものになっているのである。大根と裏返しの朴訥な喋りもむしろ効果的で、何か『コミック雑誌なんかいらない!』で内田裕也が演じたキナメリを思い起こさせる(こっちが後なのだが)ものがある。本質的に似たようたところがあるのだろう。
この三島の好演に対しては、様々な批評家が嫌というほど色々と書いているので、これ以上触れないが、この単細胞故に太太と一本で書かれた線の如くに脇道に逸れない三島“新兵衛”が、モノガタリに散々に揺さぶられる勝“以蔵”の心情と対比する存在として屹立している、というのは押さえて置くべきトコロだろう。
そして、最後は勝新太郎ということになる。
今まで上げた出演者達を受け止めるのが並の役者ではペチャンコになってしまうだろうが、そこは何しろ勝新太郎なのである。
仲代“武市”同様というか、ベクトルは全く違うのだが、タイトル同様本来は陰湿な「人斬り」であるはずの岡田以蔵が、たっぷりと人懐っこさを抱えた柴犬(劇中では武市に使われる以蔵を、龍馬が狩猟犬に例える)が感情を尻尾で表現するように、上下左右の人間達に感情をもろ出しにしていくのである。“犬”であることが変わりないのだが、そこは勝の役者としての力量というよりも、自身が持つ人間的魅力の影響だろう、非道の道を進み思い悩みながらも、どこかクヨクヨした湿っぽさはなく、日向の匂いがする人間に仕上がっているのだ。当然、見ているものはシッカリと感情移入が出来る。
こうなったのは勝の手柄だけではない、脚本を書いた橋本忍の資質にプラスして、監督の五社英雄が、組織(フジテレビ)に属しながら、自分の色が出た映画を作ろうともがく自らの苦悩を勝“以蔵”にタップリと込めて演出したからだ。
映画が斜陽の時代に入り、自ら勝プロダクションを起こして、経営者として二足のわらじを履いて、忍従する場面も多かった(それがし切れないので勝プロは後に倒産するのだが)だろう勝との相乗効果によって、駒として使われつつも必要以上に己を立てようとする、押さえられない自我が独歩しようとする人物像となったのだ。本来の以蔵の自我における問題は、あくまで従属の問題だけだったはずだ。
勝といえば、『座頭市物語』の市を筆頭に、『悪名』の朝吉、『兵隊やくざ』の大宮もそうなのだが、元々権力の埒外の人か、その下に居ても我慢などしないような人を演ずることが多かった。しかし、そこにはアラカン(嵐寛寿郎)が以下のように述べた要素が無かったのだ。
ワテは前から維新ものがやりたかった。アラカン何をゆうやらと嗤われるかも知らんが、詮ずるところ男のドラマは革命や。それとまあ、ニヒリズムでんな。たれよりも勇敢に闘うて、たれよりも無残に裏切られていく。そんな人間を演じてみたいと願うておりましたんや。
竹中労「鞍馬天狗のおじさんは」
「たれよりも勇敢に闘うて、たれよりも無残に裏切られていく。」、正にこの映画の勝“以蔵”そのものである。勝は上記のような作品で、新たな人物像を演じてスターとなったが、この映画では時代劇役者としての原初に帰って裏切られてゆくもののニヒリズムを獲得したのだ。
この映画の「裏切られてゆくもののニヒリズム」は批評で学生運動等の社会運動に絡めて語られることが多かったのだが、エリートのみの贅沢品だった当時よりも、社会全体に様々な“裏切り”が身近となってしまった現在こそ、より切実により広く理解出来るのではないだろうか。勝“以蔵”の死に様を熱く見ていただきたいのは今なのである(青臭い山本圭も)。
というか、今回五社英雄じゃなくて勝新太郎じゃねえか。まぁ勝新だからしゃーない。
・いまさら五社英雄シリーズ
『鬼龍院花子の生涯』
『吉原炎上』
『肉体の門』
『陽暉楼』
『極道の妻たち』