鶯谷駅北口 「信濃路」鶯谷店 昼飲み ボンクラ座礁酒場

信濃路 鶯谷店

今回は鶯谷である。で、鶯谷というとラブホテルってなるわけだが、何でそうなっちゃったのっていう説明としては「上野の隣駅という立地から、出稼ぎ・集団就職のために上京して来た人達のための簡易宿泊所や旅館が多く、それらが時代の流れと共に廃れていくとラブホテルに転業していった。」って辺りが、ほぼ固定で、共通って言っちゃっていいかな。が、ホントウにそうなんですかねぇ~ってのを、今回のマクラにしようかと思う。

といっても、鶯谷ってのは、古来から場末の中の場末として定評がある土地であり、資料的なものがとにかく少ないんである。となると、やはり地元の人の声で何か取っ掛かりがあるんじゃないかと、根岸出身の新聞記者・河合勇が書いた『根岸の里』を読んでみると、「根岸の思い出」の中に“伊香保・塩原”という鶯谷を扱った項がある。鶯谷の新坂(現在は駅の南口を出ての陸橋)を下ったトコロには病院があり、その向かいには~という部分。

その前が伊香保という大きな料理屋で、芝の紅葉館と併称された大宴会の出来る料理屋だった。二階の畳数は二百畳ぐらいもあったのではなかろうか。

この伊香保は群馬の伊香保温泉の湯(といっても湯の花を使用)を使用した温泉浴場がある料理店(料亭)として有名だった店。岡倉天心や幸田露伴、饗庭篁村、斎藤緑雨、森鴎外、といった文士・文人達の集団“根岸党”の面々が“飲抜無尽”の宴会を行った場所としても知られている。問題はその次~

伊香保の横町の奥まったところに「塩原」という旅館があった。ここは今でいうサカサクラゲ、温泉マークの旅館のはしりであった。今国電の鶯谷駅から見るとこのあたり温泉マークの旅館が林立しているのでさすがに発祥地だけあるとびっくりさせられる。

ちょっと気になる記述が満載だが、この「塩原」は“志保原”という名前で、同じく温泉料理店(料亭)として営業していた店。伊香保と並び称される(下のように実際に店は並んでいた)、というか後になると、小規模でも使いやすいって辺りから、文士達の利用に関しては、こちらの方が多くなり、大正から昭和に掛けては、当時の名の知られた文人はほとんど来てるんじゃねというくらいの名物店となっている。有名なところでは、太宰治が骨をおる形で、親友の山岸外史の結婚披露宴(媒酌・佐藤春夫夫妻)が催されたりしている。

戦前の鶯谷周辺

問題は「ここは今でいうサカサクラゲ~」からの箇所、まず今は死語になってしまっている“サカサクラゲ”と“温泉マーク”から説明しておくと、ラブホテルの昔の呼び名のこと(主に50年~60年代頃)。なんでラブホってのは、当時のこういった料理店(料亭)は、そういった使い方~主に芸者を連れ込むような場所でもあったからである。まぁ戦後になっても、こういった使い方はあって、ヒヒジジイと飯食いに行ったら、奥に布団が~みたいなコントも昔は結構あったりして(加藤茶の場合、失敗して一人でストリップを踊る)。なお、自分のトコロで料理を作らない(他から取り寄せる)、小規模な店は“待合”と呼ばれる。

鶯谷 割烹・志保原

1942年(昭和17年)の3月、志保原にて中央公論社主催で、永井荷風と谷崎潤一郎の対談が行われているが、『断腸亭日常』にはこの日のことが、以下のように記述されている。

この旗亭志保原は余の若かりしこりには藝者連込の温泉宿なりき。神田講武所の小勝といひし妓と共に折々来りて巫山の夢を結びしことあり。門前の路地に萩しげりて車より降りれば夜深の露に袂の濡れし風情今に忘れず。

この日の対談は、谷崎はリスペクトする荷風としばらくぶりに会えることから、ウキウキ・ウェイク・ミー・アップで1時間以上早く来てしまい、対する荷風は荷風で、来る途中の上野駅で別れ話をしている思しき男女をしばらく凝視してしまい、尾行までしたくなりつつも、時間的にヤバいとギリギリにやってくるという、どちらもらしい立ち上がりだったようである。
どうも、谷崎も志保原には以前はよく来ていたらしいが、荷風と同じような使い方だったのだろう。どちらも“以前”なのは、ある時期になると、温泉は止めてしまい、料亭一本に絞るなどして、ちょっと店の格が上がってというのがあるらしい(山岸外史の結婚式もその流れ)。

この二店、鶯谷の温泉料理店としても世間的に有名ではあったんだけど、こういった方面でも有名店だったのである(どっちかいうと志保原)。戦後になっても、広津和郎が小説内で「鶯谷にはSとかIとかいう~連れ込みで有名で」と書くくらい知られていた、と。どうも荷風が書くような、繁華な場所から離れた、かくれ里的なイメージが受けていたようだ。
そういったこともあって、金持ちが妾を囲うには都合が良く、妾宅が妙に多いって土地柄ってのもあって(鶯谷の上、芸大裏辺りも妾宅が多いというのは愛玉子の時にふれた)、鶯谷の住人・正岡子規の句にもこんなのがある。

妻よりは妾の多し門涼み

こんな感じで、実は鶯谷は戦前からこういったトコロがある場所だったんである。ただ、「温泉マーク的な旅館の発祥地」かどうかっていうと、流石に話が大きくなり過ぎのような~戦後に連れ込み宿がどういった流れでこのマークを使い出したのは、ハッキリとは分かっていないんで、スゴイ通りが良くなるのは確かだけど、ちょっと不明点がってのは、この二店含めて、一帯は空襲を受けてズンベラボーになってしまうからなんである。

昭和23年の鶯谷

上の写真は1948年(昭和23年)の鶯谷。北の根岸三丁目は焼け残っているが、駅に近い辺り~伊香保・志保原があった場所は見事に空き地になっている。ただ、伊香保は北側の道を挟んでの、別邸的な建物だけ焼け残り、ひとのみち教団(PL教団)の布教所として、しばらく(建物は)存続していたようだ。後にココはグランドキャバレーのスター東京に。空き地になった南の土地には、1950年(昭和25年)の露天撤去令によって、上野公園や寛永寺内のアチラコチラで商売をしていた露天業者達のための替地として飲み屋街を形成するのである(現存)。要するにこっち(伊香保)は廃業。
そして、志保原の方は余力があったのか、とっとと泉岳寺の方に移転。後に保守合同の三木武吉と大野伴睦の秘密会談の場所に使われる等、文士の利用よりはこういった政治家や財界人が出入りする場所として名が知られるような料亭になっていったようだ(名がさらに上がったわりには廃業は何時だかは不明)。
そして、元の鶯谷の土地はボーリング場になった後、現在は公園、と。

なるほど、以降はよく言われるように~と思っちゃうが、そうじゃないんである。風俗史的な本を漁ってると、同じ年の1948年(昭和23年)には「日暮里、鶯谷に同伴旅館が出来始める。」なんて書かれていたりして、戦後復興期の出稼ぎだったり、集団就職なんかの時代より、ソッチがはるかに早かったりするんである。何で、まだ混乱期といった時期、イマイチ関係性が分からない場所に、同伴旅館が出来始めるのってのは、当然のギモン。実は、これには当時(昭和22年~23年)がパンパン(街娼)全盛期ってのが関係あったりするんだが、その一大メッカだった隣駅・上野(ノガミ)の状況ってのを、ちょっと見て行こう。

昭和23年11月のパンパン地図

ちょうど同じ年に出版された告発調の『売笑なき国へ』(神崎清・著)によれば、ノガミのパンパンには“山パン”というのと“下パン”というのが居たらしい。上のオカマに攻められている小田原城籠城図みたいな地図がその分布だが、書いてあるように“山パン”は公園内でコトを済ます「青カン」。下駄履きにモンペというテキトウな格好で、席料も払わないので安価。
“警視総監遭難地点”って何って思っちゃうが、この年にパンパンや男娼の取り締まりのデモンストレーションに来た警視総監が、男娼にぶん殴られた事件が起きた場所を指している。遭難なのかよ。

上野の山のパンパン

問題は上野駅周辺から上野日活館までに帯状になっている“下パン”の方。この帯地帯は「肉体の門」をもじって「肉体の花道」とか呼ばれていたらしい。で、「ドヤ入」ってのは近所(車坂町や稲荷町)の旅館にシケ込むってこと。しかし、どうも別のパターンもあったようなんである。

「肉体の花道」を歩いていると、あまり人相のよくない男があらわれて、「旦那、おもしろいところへご案内しましょう」と、よびかける。これが、パンパンの客引き、すなわち源氏屋である。駅のガード下にたむろしているリンタク屋には、ヨタモノくずれや牛太郎あがりが多いようである。

リンタクってのは自転車の後ろだったり、横に座席を付けた人力タクシー。自動車もロクに無い戦後の一時期、大流行していたものだが、当時リンタクはポン引きのイメージがメチャクチャ強い職業だった。で、それに乗っかると、どこに連れて行かれるかというと~

神吉町、坂本町、根岸方面、吉原周辺にかくされた無数のパンパン宿が、このリンタクの輸送力に依存している。
<中略>
こういたパンパン宿は、女が一人間がりしているのと、親方が三、四人の女をかかえているのと、二とおりある。

で、書いてあるように宿の部屋にパンパンが待っていたり、逆に部屋で待ってパンパンが来たりするという、ほぼ後のホテトル・デリヘルだな。鶯谷名物。
注目点は“根岸方面”。鶯谷の方ですな。ここでなんで、混乱期に同伴旅館がってのがピッチリと分かるわけ。このリンタク方式はリンタク側がマージンを取れるので、っていう部分もあるんだけど、パンパン側からすると警察やMPによる“手入れ”や“狩り込み”を避けられる点でのメリットが大きく、上野の隣駅だけどモロな場末~戦前からのかくれ里的な土地柄ってのが、モロモロ都合が良かったんですな。ズンベラボーになったのも、新たな商売を始めるのには宜しかったと。
この話から、モノズキの人は日暮里寄りにあった連れ込み宿・志ほ原(2015年頃消滅)を思い出した人も居るかと思う。多分アソコも元はパンパン宿だったじゃないのかな。戦前の志保原の評判を知る人間が、名前パクったんだろうね。この辺が温泉マークを掲げ始めたってのはあるかもね。

米兵と輪タク

当時の上客ってのは当然米兵ってことになるんだけど、彼らは土地勘が無いことから、一度利用したリンタクのリピーターになることが多く、そのまま顔なじみになったパンパンとオンリー(愛人)契約を結ぶことも多かったようである。そこで、鶯谷はオンリーが多い場所としても知られるようになると。妾宅に囲うってわけじゃないが、この辺でも戦前の鶯谷を変に引き継いじゃってるのである。ここらは朝鮮戦争勃発でもう一度盛り上がることになる。

で、よく言われるフツーの旅館だったりが増えていったのは、というと『東京路上細見・3』(1988年出版)に掲載されている、元三島神社の宮司の話曰く「昭和三十年代の後半ですかね。旅館が多くなったのは。」ということらしいんだけど、この時期ってのは、高度成長的なものと合致すると同時に、同伴旅館的なトコロでの近場のライバル・千駄木(一時期は東京一のメッカだったとか)が文教地域に指定されて、業者が近隣へ流れた時期でもあり、鶯谷のソッチでの地位も揺るぎなく~といった時期でもあったりするんですな。宮司が直接的なことは言えないし、どっちとも取れるというか。
まとめていくと、先行した同伴・サカサクラゲ・連れ込み色が強い形での混在状態があって、後に時代の流れと共にソッチ一色になる~ってのが鶯谷のラブホテル街のシンの理解ってことになる、んじゃないかな。微妙な戦前からの引き継ぎも含め、っていう。飽きてきたんで、こんなトコロでいいや。

鶯谷駅・木造駅舎

というわけで、鶯谷駅である。
目的の店は北口出ちゃうとすぐ過ぎるんで、南口から出てグルっと廻って行くことにする。
しかし、山手線の駅とは思えない木造駅舎には毎度ちょっとビックリする。

鶯谷駅・南口

この駅舎が出来たのは1927年(昭和2年)。線路の上に木造駅舎があるっていう、変わった構造だが、これは新坂の陸橋化に伴ってだと、多分コレしか繋げようがなかったんだろうな、という。

昭和初期の頃の鶯谷駅

新坂陸橋化前は急坂の下が踏切という、歩行者にはキビシイ道だったようである。この写真だと台地の縁(崖線)にある駅だってのが分かりやすいね。

鶯谷・新坂

南口から出ると、大概は上野公園方面へと行ってしまうので、下へと下るのは久しぶりだ。
右手の大きな建物は現・東京シネマ倶楽部~元・グランドキャバレーのワールド。伊香保があった左手には同じくグランドキャバレーのスター東京があり(現在コイン駐車場)、昭和の頃は暗くなってから上野から家路につくとなると、両方のギラギラのネオンを見ながら帰ることになる。散々それを見て育ったせいか、未だにそういったものに郷愁のようなものを感じてしまうのは面倒くさいオッサン特有のビョーキである。

鶯谷・陸橋下飲み屋街

下っての闇市直系といえる飲み屋街は、基本夜稼働なのでさすがにやっていない。しかし、随分キレイになったような気がする。奥にはデザイン会社みたいのもあるし。

台東区立鶯谷公園

その飲み屋街とラブホ街に挟まれた、ほぼ元・志保原の土地となる台東区立鶯谷公園は、土地柄というか何なのか知らんけど、カマシ・ワシントン風味の正体不明のオッサンが意味なく仁王立ちしてたり、取引先を全員刺してきましたって顔をしたサラリーマンがベンチで佇んでいる。子供遊ばさられるか!円形遊具はよくあった回るやつかと思ったら、ガッチリ固定。

鶯谷・ラブホテル街

ということで、ラブホテル街を北へと抜けていくわけだが、入口に恐らく“相手”と待っていると思われるオッサンが桜田門外の水戸浪士のような顔をして、出たり入ったりしているので、若干というか結構コワイ。ちょっと女子だけで来るのはオススメ出来ない。
この盤石かと思っていたラブホテル街も最近のインバウンド需要で、普通のホテルへと建て替えられたりもしている。ただ、上で紹介したように、こうして時代時代の需要によって、振り子のように形を変えてきたというのが、この街の有り様なのだろう。その点からもベースは変わんないんじゃないかな。

鶯谷・元三島神社

今回の店は元三島神社の下で営業というめでたい立地。流石にもう面倒なので、神社ネタはそういうサイトの方でどうにかしていただくようヨロシクお願いします。

鶯谷・信濃路裏口

正面入口に向かう前に、妙に味がある裏口前を通らざるを得ないわけなんだが、ちゃんと表から入りたいので見なかったことにする。

信濃路・鶯谷店

というわけで、今回の店は「信濃路」鶯谷店。いまさらこのサイトであーだこーだと説明する必要もないような鶯谷の定番食堂酒場である。
そのテレビにもよく出るような店を何故“いまさら”ってのは、そのように名前を高めることになった、作家・西村賢太が常連だったという辺りだ。実は自分は西村賢太を読もうとして(まだ芥川賞受賞前)挫折した人間で、常連というよりも固執したといっても良いくらい通っていたという店に行ってみれば、読むことが出来るようになるんじゃないかという裏テーマを抱えつつってわけなのだ。
本は読んでないが、人となりナンカは調べていたりして、西村賢太は“無頼派”なんて言われたりもするが、実際は“無頼憧れ派”ってのが自分の理解。大体こういう人は、実際は気が小さくて、繊細なトコロが多いってのが経験則としてあるんだけど、そういう部分がちょっとモロ出しになっているのが辛かったというのもある。同じくの中島らもは“笑い”と“家族”って触媒があるんだけど、そういうの無いしね。
というか、いわゆる“無頼”的な文学自体、なんというかイイ育ちじゃないと~サファリパークのように眺められるような生き方をして来た人間じゃないと、ちょっと読みづらいもんだと思う。「お前それサバンナでも同じ事言えんの?」じゃないが、サバンナでそういうものと対峙しなきゃならなかった人間からすると、もうイイよ感があるんである。芥川賞受賞後の文壇やマスコミの取り上げ方ってのが、サファリパーク感丸出しというか、無邪気な“下流”の消費ってのが、コメカミがピクつく程度には我慢ならず(コレは西村賢太は何も悪くない)、読まない箱に思いっきりブチ込んで、今に至るというわけなんである。
が、死後に読んどいた方がイイのかなぁーって気分が定期的に来るんで、じゃぁ信濃路行ってみるかと。

鶯谷・信濃路の入口

で、入店しようと思うが、入口前に人が居て、もしかして混んでるのと思ったが、どうも風俗方面に行く紳士の待ち合わせ場所になっているだけだった。
なお、入口が2つあるようにに見えてヤヤコシイが、のれんがある方が入口。

鶯谷・信濃路の店内

まだ昼前なので、店内はそれほど混んでいない。オッサンが捲った石の下のダンゴムシのようになってんかと想像していたが、どうも違うようだ。お約束は無し。

鶯谷・信濃路の店内

混んでないのに壁側のカウンターに陣取る。奥まってもいないトコロの、こういう席が好きなんである。西村賢太は奥のトイレ前が定位置だったらしい。
で少し待つが、注文を取りに来てくれない。どうも、この店は中国の店員さん達が基本厨房で忙しくしており、こっちで声を掛けないとどうにもならんようなので、丁度瓶の整理か何かで出てきた元人民解放軍みたいな屈強なオニーチャンに、とりあえずのビールと、貼ってあるメニューで目についたツマミ(赤ウインナー揚)を頼む。

鶯谷・信濃路のメニュー

落ち着いてみると、眼の前の本日のオススメ以外の一覧があった。後は、モロモロ持ってきてくれた時に追加を頼めばイイ。
西村賢太が常連だったのは、ほとんどの店で出禁を喰らい、入れてくれるのはココぐらいだった、という噂もあるが、入店しての雰囲気を見ていると、とても日本の酔っぱらい的な甘えが許されるような空気は全く無いので、ナルホド感がある。暴れても一発でオニーサンにねじ伏せられそうだし、コンビニで外国人店員に怒鳴るジジイのようなモードには、負け犬的な尊厳さえも無いしな。
ただ、このベタベタ感のないトコロが、一人飲みには心地よい部分もある。

鶯谷・信濃路の生ビール

とか店内を脳内パトロールしていると、オニーサンがビールを持ってくる。夏はコレで間違いない。

鶯谷・信濃路の赤ウインナー揚

続けて来たのは赤ウインナー揚。この小さめの赤ウインナーを食べるのは久しぶり(弁当ぐらいにしか使わないし)。しかし、こんな魚肉感フリチンだったっけ。そこがイイんだけど。
ここで客が一人(オッサン)が入ってきたが、普通にそばセット頼んでた。元々そば・うどんの店なわけで、もう酒飲みしか来ないんじゃないかと思ってたけど、そうでもないようだ。

鶯谷・信濃路のニンニクレバー

丁度食べ終わった頃に、ビールが来た時に頼んだニンニクレバーがやってきた。
想像していたよりもニンニクが多く、食った後は間違いなく誰かに会いたくない逸品。味も濃い目でビールがススムススム。

鶯谷・信濃路の椅子

と、ニンニクとレバーを交互にツマミつつ、ビールを飲み進めていると、昼が近くなってきたので、ちょぼちょぼ客が増えてきた。入ってくるのはソロのオッサンしかいないが、どいつもこいつも顔がニヤけている。身奇麗なほっそいラコステオッサンも、空調服を来たガタイの良い角刈りオッサンも、完全に一人飲みを愉しみにやって来るのである。ニヤけたオッサン同士のちょっとしたやり取りが発生する場合もあるが、和気あいあいとしつつも、あくまでソロベースだ。なんというか、バリケードの中の平等愛というか、コミューン的な同志感が店内に満ちている。これは西村賢太も暴れないわ。

鶯谷・信濃路のコーラハイボール

ここでビールも飲み終わったので、ハイボールと思ったけど、コーラハイボールがあったので、そちらにする。
瓶で自分で入れれるってのがイイね。ここの割りものは濃いって情報があって頼んだんだけど、飲む頃にはそんなことスッカリ忘れて、どうだか分からん。

鶯谷・信濃路のつくね

最後に串物も頼んでみるかと、やってきたつくねは謎過ぎるカタチ。最後にっていう、お前はもしもの高木ブーか。

鶯谷・信濃路の店内

ここで昼になり、店内がニヤついたオッサン祭りになりミッチリと。こうなったら、帰りますかね。
厨房方面に声を掛けて、レジの方へと向かう。西村賢太のサインはソッチにあるので、好きな人は確認するとイイだろう。あたしゃ未だ読んでないんでね。

鶯谷・信濃路の提灯

てなわけで、「信濃路」鶯谷店。オッサンパラダイスと言ってしまうのは簡単だが、スネに傷を持つ~というよりはスネに傷を持ちたいような面倒くさいオッサンも受け止められるような度量と幅を持つ店だった。これに元々あった街のかくれ里的な土地柄が加味されつつも、駅を出て30秒ってのは、そりゃぁ定番店になるよねっていう。
ラブホテル街がどうなろうと、この店の風味は損なわれずに続きそうである。

で、お前西村賢太読むのかっていうと、スッキリしちゃったから、しばらくいいや。

信濃路 鶯谷店
住所:東京都台東区根岸1-7-4 元三島神社 1F
電話:03-3875-7456
営業時間:月・火・水・木・日・祝日・祝後日
07:00 – 23:30
L.O. 22:30
金・土・祝前日
07:00 – 23:30
L.O. 23:00
定休日:無休

日本、〒110-0003 東京都台東区根岸1丁目7−4

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