今回から三回に分ける形で、湯島から本郷を散歩しつつ老舗和菓子屋を三店舗ほど紹介しようかと思います。
まずは一軒目、上野広小路のうさぎやから。出発地点の湯島駅(千代田線)からうさぎやは徒歩3分ほど。かつて「黒門町」と言われた辺り。何故ここからというと、人気店のため先に行っておかないと肝心のものがなくなっちゃうからなんです。このうさぎやの創業は大正2年(1913年)。大正デモクラシーの頃ですね。紹介していく老舗の中では一番新しいお店です。初代の谷口喜作氏は元々は銀行員で、うさぎやという屋号は喜作氏が卯年生まれだったことから付けられたそう。店入り口の上にはうさぎのオブジェが鎮座しています。
当時菓子職人の間で神様といわれた松田咲太郎に出会ったことから菓子店開業を志し、咲太郎からの職人の紹介、俳人でもあった喜作氏の幅広い人脈からの援助もあり、うさぎやを開業。そして、素人だけに利潤よりはいいものを低価格にと自分の名を冠して売り出した「喜作最中」がヒット。最初は最中屋さんだったわけですね。この最中は喜作氏の知人でもあった芥川龍之介も好物だったそう。これは、現在でも一つ90円で売られています。
しかし、なんといってもうさぎやの看板商品と言えばどらやき。これは二代目の谷口喜作が昭和の始め頃(昭和2~3年)に開発。江戸時代にも“どらやき”と名が付いたものがあったらしいのですが、平たく伸ばした餡子を天ぷらのころものようなもので焼くという今のきんつばのようなものだったそうで、それを「ひとつでおなかいっぱいになるように」と二枚のパンケーキ風の皮で包むという形にしたとのこと。
このどら焼きのことは池波正太郎の本でご存知の方も多いかと思います。
〔うさぎや〕のどら焼といえば、私が少年のころからつとめていた株式仲買人の主人が、月に二度ほどは、私をよんで、
「お前さんのところの近くだから、今日は帰りに、うさぎやへ寄り、どら焼を買って、明日、持ってきておくれ」
とたのんだものだ。
翌日、どら焼を持って行くと、その中から二個を半紙に包み、
「ごくろうさん」
と私にくれる。私が、いい若者になっても、どら焼を買いに行かされた。戦争がひどくなって、砂糖などが統制されると、うさぎやも、日に何個ときめられたどら焼しか売ることができなくなり、私は早朝から買いもとめ、主人のところに持っていくと、
「ごくろうさん」
の言葉に変わりはなかったが、その内二個を私に分けてくれるのが、ちょっと惜しそうな顔つきになる主人に、私は苦笑したものだ。
『散歩のときに何か食べたくなって』(新潮文庫)より
現在のビルも立派ですが、木造の頃のうさぎやも非常に趣きがありますね。池波正太郎が株式仲買人の所で奉公をしていたのは昭和10年以降ですから、その頃にはすでに人気菓子としての評価が定まっていたことが分かります。この地元である東京下町での評価に加えて、昨今の池波ブームで全国に名が知られて、現在も午後には無くなってしまうことも多いという人気っぷりです。お店のHPにも「16時以降は、要予約」とありますのでその点ご注意を。
平日でも9時の開店と同時に20個、30個と買っていく人が結構いるのですが、今回の散歩当日は、比較的空いた状況で手早く買うことができました。この日は居ませんでしたが、ときどき4代目と5代目思われる方が接客していることがあるんですが、どうも自分の周りのうさぎやファンには「無愛想」「客のあしらいが荒い」など余り評判が芳しくなかったり。人気店ゆえのおごりでは無いと思いたいですが。
うさぎやのどらやきは一個180円。十勝産の小豆を使った甘さが控えめで水分の多いトロリとしたつぶ餡をれんげの蜂蜜を混ぜてさくっとフワフワしたパンケーキ風の皮がはさみ、ここのどらやきを食べると今まで食べていたのはなんだったんだろうと、よく見かける真空パックのものなどはもう食べられなくなります。後味は非常にさっぱり。
しかし、消費期限はなんと2日。2日といっても、店によれば出来れば焼いた当日に食べてもらいたいということです。実際比べてみると当日と次の日では皮のフワフワ感が全く違い、なるほどと。それを知るお客さんは注文時に持ち帰るものとは別に今すぐに食べる分を買ったりしています。
大概のどらやきは保存と作りやすさを優先して餡は甘過ぎ、皮は油でしっとり(べっとり)というものが多いんですよね。それと比べると消費期限が短くて、遠方へのみやげにはちょっと難しいですが、無理して持ち帰るだけの価値はあります。
うさぎやの場所は下の地図をご覧ください。水曜定休で営業時間は午前9時から午後6時です。
東京都台東区上野1丁目10−10
うさぎやの紹介の最後に、このテキストを書いていて、どらやきに関して謎がいろいろと深まってしまったのでそれを記しておきます。
上にあるように現在の形のどら焼きはうさぎやの二代目が昭和2~3年頃に開発したというのが有力な説として流布していてウィキペディアでもそう書かれています。しかし、どら焼きは関西では三笠と呼ばれていまして、昔から江戸(東京)で食べられていたのきんつば的なものよりは現在のどら焼きに近いものが数種類あり、それから現在のものに発展したという関西ルーツ説からの物言いもあって定説となっているわけではないようです。
今回、うさぎやとどらやきを調べていて、謎が深まったというのは、この現在のどらやきのルーツと、上で登場した松田咲太郎との関係なんです。松田咲太郎は「菓子職人の間で神様」と書きましたが、当時有名和菓子屋の工場長などを歴任し、和洋菓子のレシピ本を出版、さらにうさぎやがそうであるようにコンサルタント的なことも行うなど、単なる菓子職人を超えて菓子総合プロデューサーといっていいような人物です。彼は後に乞われる形で北海道で最も古い和菓子店である函館・千秋庵総本家の四代目となり、現在の千秋庵のラインナップをほとんどを開発しました。その千秋庵総本家のHPをなんとなく覗いてみたら「どらやき」の紹介に「函館千秋庵総本家では大正時代の末より四代目松田咲太郎によりどらやきを作り始めました。」とあって、アレっと。うさぎやの昭和2~3年頃より前ですね。
となると、もしかして、松田咲太郎のレシピがうさぎやにという流れ?そして、千秋庵総本家のHPをさらに見ていくと中花饅頭という菓子があり、この一つの皮で包む形は京都・西陣のどらやき(月心)のような…。この辺が現在のどら焼きのルーツ?そして、いったい、どっちが古いんだ?
てな感じで、ややこしくなってしまったこの問題、後でもう一度じっくりと挑もうかと思います。
さて、うさぎやから次の壺屋総本店に行くには、切通しを登るような形で春日通りを真っ直ぐに行けば簡単なのですが、それじゃツマラナイ。
まずは、冬場は酒を五合ほど呑まないと出歩けない程冷たい風が吹いたことから名づけられた五合通りに入り、かりんとうの「ゆしま花月」の前を通って一度春日通りに出ます。そして、創業は明治42年(1909年)の甘味処・みつばちに寄り道して店頭でアイスを購入。
元祖小倉アイスの店として知る人ぞ知るお店です。路上で慌しくアイスを食べてこめかみが痛くなりながら、湯島交差点角の和菓子屋・つる瀬前の信号を渡り、湯島天神・男坂の方へ向かいます。
江戸時代、本郷方面から上野広小路へ抜けたい場合はこの男坂を通ったとのことで、逆に本郷へ向かう今回の散歩では正規ルートと言えます。
湯島という名の由来は、「湯」の方は語源である「湧」から水が湧くという意味。実際男坂下の心城院境内には江戸名水である『柳の井』があります。そして「島」はかつては東京湾の入り江だった上野広小路、不忍池辺りから湯島天神の高台を見上げると島に見えたことから。これを二つあわせて、水の湧き出る島ということで湯島と。どうも他諸説あるようですが、男坂下から湯島天神を見上げると、この辺が一番しっくりくるようです。
湯島天神下は花街として栄えた場所で、男坂下辺りにはいわゆる粋筋の風情が特に色濃く残っています。泉鏡花『婦系図』の舞台、「湯島の白梅」の世界ですね。菓子屋が多いというのも、おそらくそちらに遊びにいくときの土産としても需要があったという部分があるんでしょう。
男坂下をちょっと歩いてから、曲がったところには菊岡湯島三味線店や、居酒屋の名店・シンスケがあり、横の女坂下には久保田万太郎の本宅もありました。ただ、このような風情が残っている半面、かつて花街だったという事情からラブホテルが多いのがあれなんですが。写真に「太郎」とある看板は、講談の人間国宝・一龍斎定水師匠の奥さんが女将をつとめる居酒屋(一階が店舗で上がご自宅)。
男坂を上がると、湯島神社境内。上の江戸名所図会(上の写真)。には「月ごと二十五日には植木市ありて、ことさらにぎわしく一時の壮観なり。表門の通り、左右に料理茶屋あり。」と書かれています。ビルのない江戸時代の頃、高台の神社からの景色は絶景で、それ望みながら飯を食べる懐石茶屋「松琴屋」は浮世絵の題材にもなっています。小さな芝居小屋もあったようですね。残念ながら現在境内には参道に屋台が出ているだけです。
江戸時代は富籤で儲けており、現在は合格祈願する学生の賽銭で大いに儲かっているようです。噂では現在の宮司さんはやり手とのこと。しかし、時期外れなので学生は少なめ。参拝者の間を抜けて、”撫で牛”横の喫煙スペースでちょっと休憩。文章の方も一旦休憩して、次回へ続きます。
次回の湯島・本郷散歩 老舗和菓子屋 壺屋総本店(壺々最中)編へ行く
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