前回散々「湯島天神」って書きましたが、平成12年から正式名称は「湯島天満宮」だそうです。「湯島天神」も通称として残っているんで、まぁいいんですけど。
湯島天神はアマテラスを岩戸から引きずり出した天之手力雄命(あめのたぢからおのみこと)を祀って雄略天皇二年(458年)に創建。雄略天皇自体本当に存在したかよく分からない時代の天皇なので、この神社もよく分からないくらい昔からあったと。その後、正平10年(1355年)に湯島郷民が菅原道真公を慕って北野天満宮から勧請して合祀。つまり、この神社には力自慢と知恵自慢の両方の神様が祭神としているわけです。受験生の方はくれぐれも間違って力自慢の方に祈願しないように。
さて休憩もそこそこに、次の店である壺屋総本店へ。寛文7年(1667年)の刻印がある銅鳥居をくぐって境内から出て、切通しの坂が続く春日通りに戻ります。本郷方面へ歩いていくとすぐに見えてくるのは「すき焼 江知勝」の看板。
江知勝は明治4年(1871)創業の老舗すき焼屋。川端康成が常連で、VS林芙美子みたいな面子で合コンが行われたりした店だそうで。仕事帰りに前を通るといつも黒塗りの車が止まっていて、けっ!とか思ってました。そういう店です。今回もけっ!という感じでとっとと通り過ぎます。
切通しの坂も終わり、春日局の菩提寺である麟祥院(からたち寺)に入る横道が右手になる辺りで、壺屋総本店の建物が見えてきます。中々古風な佇まい。
ここで、壺屋の歴史を紹介しようと思いますが、商品を買ったときにもらえる口上が非常に簡潔で分かりやすいので、まずはこれを全文掲載しましょう。
当店は寛永年間に町民が開いた最初の「江戸根元」菓子店です。以後三百八十年間の間市民に愛されてきました。江戸時代には京都中御門家より「壺屋出羽掾」「播磨大掾」の称号を授与され、「江戸総鹿子名所大全」「江戸買物独案内」などの古書にも記載されております。明治維新の際には「長い間徳川様にお世話になったのだから」と大店がつぎつぎとやめていった時に勝海舟先生から「市民が壺屋の菓子を食べたいと言っているから続けるように」と言われ店を再開し、暖簾が残ることになりました。
当店の菓子はすべて材料を厳選し、手作りにより製造しております。伝統の菓子の味をご賞味ください。
寛永年間(菩提寺が焼失してしまったため、正確な創業年は不明とのこと)は将軍でいうと家光のころですね。乳母で近くの麟祥院に眠る春日局と関係あるのか?と思っちゃいますが、創業したのは九段坂近く(滝沢馬琴が住んでいた旧飯田町中坂)。
口上に<町民が開いた最初の「江戸根元」菓子店>とわざわざ書かれているのは、それまで菓子業は関西から来た人間に占められていたとのことで、江戸の町人が開いた店として「最初」なのだそう。禁裏御用を意味する御用菓子司となり、清水徳川家・一橋家のような大名を顧客にし、虎ノ門(西久保八幡町)にも店を増やすなど大いに繁盛していたようです。
その後の壺屋には、二度の大きな危機がありました。
まずは、一度目は明治維新。これも口上にありますが、将軍家をお得意先にしていた大店が徳川には恩があるし、下ってきた「官」には売りたくないと廃業していく中、壺屋も同様に廃業。しかし、勝海舟(西久保八幡町店を贔屓にしていた)からの声がかりもあり再開と。しかし、これって海舟、自分が食べたかっただけのような。そうじゃなきゃ書まで下げ渡したりしませんし。書の『神逸気旺』ってのも、大意は「神様に頼らないで、気力でどうにかしろ」というような意味だそうで、菓子屋に渡すようなもんじゃないような。天皇を担いできた薩長への皮肉が入っているのかも知れませんが。
そして、二度目の危機は日中戦争から続けての第二次世界大戦。明治・大正と順調に業績を伸ばして、昭和初期には10店舗以上に支店が増えた壺屋でしたが、戦争が始まり、激しさを増すとともに砂糖の割り当てがどんどん厳しくなって、その支店を徐々に畳むことに。そして、戦争末期には商売そのものが続けられなくなる事態なり、そこに追い討ちの空襲。焼け残ったものを本郷に移すことは出来たけれども、まともに商売が出来なかったために店を開くための蓄えも尽きていて、終戦後、数年経ってからようやく再開。現在の店舗はこういう状況の中で建てられたようです。しかし、それだけあって良くぞ残した(残った)というか。
お茶の三千家の替紋でもある壺々が染め抜かれた暖簾をくぐり店舗に入ると、海舟の書だけでなく、明治天皇・昭憲皇后からの感謝状が何気なく飾られていて、ちょっとびっくり。
他にも江戸期の店舗の図、当時の江戸ガイドマップ「江戸買物独案内」、明治時代の支店の写真や菓子屋番付、かつて使用していた菓子の金型もあったりして、単なる店舗じゃない資料館的なもののそろいっぷりで、歴史・和菓子好きにはたまらない空間になっています。それだけに買い物に来て写真を撮りたがる人は多いらしく、声をかけてくださいと書かれた張り紙が。当然、今回声をかけてから写真を撮りました。声をかけた18代目と思われる方、ハジけた方なのかアロハで出てきたり、シルバーのアクセをしていたりと店の雰囲気とずいぶんギャップが。
壺屋は名物の最中だけではなく、季節の生菓子、「湯島の白梅」などの饅頭、和洋の焼菓子(ビスケット)など、さまざまな種類の菓子がそろっているのですが、今回は散歩途中ですので、ここは買うものを絞ってやはり名物の最中を。といっても、最中も壺々最中、壺最中、壺形最中の三種類が。若干悩んでから、江戸時代からあり、店の意匠にも使われている壺々(こしあんのみ90円)をメインに粒あんも欲しいなと壺形(こしあん160円・粒あん170円)の両方のあんを数個ずつ追加して購入しました。注文してから、奥であんを詰めるらしく少々待つことになります。
壺々は小ぶりで一口でいけなくもない大きさ。あんは質の高い白双糖(ザラメ)を使っていて後味良く、口の中に入れるとサラリと溶けるような感じ。あんこ好きにはたまらない。さらに、それをはさむ皮も餅米のみを使ったサクッとしたものなので、いくらでも食べることが出来て少々危険。
江戸時代は今の白双糖ではなく黒砂糖を使用していて、アク抜きをするのが難しかったようです。このアク抜きを秘伝にしている和菓子屋さんって結構ありますよね。
そのアク抜きした砂糖を「つぼ」に入れて保存していたため、店の名前が「壺屋」になったとか。西久保八幡町の壺屋はこれに使用していた「つぼ」をそのまま絵にして家紋にしていたようです。
壷形の方は白皮がこしあん、焦がし皮が粒あん。粒あんはこしあんと違い粒がしっかりと残ってボリュームがある感じ。よく皮の中に隙間があってがっかりするような最中もあったりしますが、壺屋の最中は、どれもはみ出るくらいにみっちりとあんが詰まってます。
壺屋の場所は下の地図をご覧ください。春日通り沿いなので分かりやすいと思います。営業時間は月曜日から金曜日が午前9時から午後7時、土日は午前8時から午後5時です。
東京都文京区本郷3丁目42−8
紹介の最後に壺屋が登場する文学作品をいくつか。
まずは、前回のうさぎやでも取り上げた池波正太郎。代表作の『鬼平犯科帳』(文春文庫)11巻、「穴」の冒頭辺り。
芝の、西の久保にある化粧品屋〔壺屋菊衛門〕方へ盗賊が押し込み、金三百余両を盗んで逃走した。
壺屋方では、それに少しも気づかず、翌日の午後になり、主人の菊右衛門と番頭の佐兵衛が金蔵へ入って見て、
「あ……」
はじめて、気づいたのであった。
壺屋は、髪油や京白粉の評判もよいが、なんといっても〔桜紅〕となずけた口紅が名代の商品であって、遠く浅草・下谷のあたりからも、わざわざ、女たちが買いに来るそうな。
問題は菓子屋でなく、化粧品屋となっているところですが、池波は「江戸買物独案内」をかたわらに置いて江戸物を書いていたそうですので、どうも間違えたというのは考えにくい。おそらく、現在も営業している壺屋に気を使って化粧品屋にズラしたんじゃないですかね。
そういえば、登場人物の木村忠吾のあだ名の元になったうさぎ饅頭も芝の菓子屋のものでしたが、これのモデルも、もしかして壺屋でしょうか。
昭和に入って、この西久保八幡町の壺屋裏手には、お歌という名の永井荷風の愛人が住んでいました(というか荷風が囲っていた)。昭和2年10月13日の記述~
市ヶ谷見附内一口坂に間借をなくしたるお歌、昨日西ノ久保八幡町壺屋という菓子屋の裏に引移りはずなれば、早朝に赴きて訪う。
『断腸亭日乗』(岩波文庫)上巻 より
荷風はこの借家を壺屋と中国の故事「壺中天」を引っ掛けて壺中庵と名づけます。隠れ処的なものが好きな荷風はこのことに満足して何か高揚するものがあったのか、この後、壺中庵記というのをわざわざ日記の中で書いていますが、話がそれますので、興味のある方は『断腸亭日乗』をお読みください。
他、田山花袋が実体験を元にして書いた 『蒲団』の新橋駅から神戸急行で郷里に帰る芳子と父親を見送る場面に「時雄は二階の壺屋からサンドウィッチを二箱買って芳子に渡した。」と壺屋が登場します。新橋駅には壺屋新橋店の出張所があったと記録にありますので、“時雄”である花袋は実際買ったんでしょうね。買うのは和菓子ではなくサンドウィッチなんですが、明治の頃の壺屋は洋菓子の製造・販売を含め手広くやっていたようです。現在の壺屋店内で当時販売していたカステラの木箱を見ることができます。
しかし、どれも肝心の和菓子を食べる描写が無いってのは、ちょっと残念ですね。荷風はしょうがないかという気がしますが。
次の店は壺屋を出て、春日通りを本郷方面へ真っ直ぐ。途中、江戸あられ「竹仙」の前で店頭に並ぶあられや煎餅に誘惑されつつも振り切って、本郷消防署前の信号を渡ると本郷の中心である三丁目交差点までもうちょっと。最後に紹介する店はほとんど交差点横と言っていい場所です。
次回はお店の紹介の前に、明治期に新文化の中心地であった本郷の歴史から入ろうかと思います。
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