上野広小路・御徒町 「とんかつ 井泉 本店」 贋作御馳走帖

「とんかつと(ポーク)カツレツの違いって何?」と問われて、パッと答えるのは結構難しいと思う。この質問の答えはとんかつ誕生の流れそのものの説明となるので、ちょっとこの辺ちょっとお付き合い願いたい。

明治5年(1872年)に政府が肉食解禁宣言をしてから、牛鍋を筆頭に肉が一般的に食べられるようになっていくわけだけど、当然のように、それと共に肉を使った西欧料理もいろいろと導入されていくことになる。どうもその中に骨付き背肉のカットレット(cutlet)というものがあったらしい。日本人に言いやすくすれば、そのまんまカツレツだね。といっても、このカットレットは今に見られるようなカツレツではなく、現在のソテー料理に近い感じで、小麦粉とパン粉をまぶした肉をフライパンで表面に焦げ目を付けた後にオーブンに入れて仕上げ、ドミグラスソースをかけるという結構本格的なフランス式のものだったようだ。
で、この料理だがイマイチ人気が無く普及はしなかった。どうも当時の日本人には肉を焼くときの香辛料の匂いとドミグラスソースの味が駄目だったみたいなんだね。なお、この頃のカットレットで使われる肉は、牛肉がほとんどである(牛鍋等、日本人が最初になじんだ肉は牛肉だったため)。
肉食解禁後の牛鍋屋の様子
この人気のなかったカットレットを日本式のカツレツに改良したのは現在も続く老舗洋食店である銀座・煉瓦亭。この煉瓦亭は明治28年(1895年)にポークカットレットをメインにすえる形で創業したものの、上記のような理由から当初は閑古鳥が鳴いているような状態だった。しかし、外国航路の客船で腕を磨いた初代店主の本格的な西欧料理は、居留地のあった築地明石町の外国人達の間で評判となり、彼らが連れ立って訪れるようになる。こうして、外国人がわざわざ食べに来る西洋料理なら間違いないだろうと、ハイカラ好きの人達も訪れるようになり、結構な繁盛店となっていくわけだが、ここで困ったのは店主である。始め閑古鳥だったというのもあって、急に忙しくなるような状況を想定していなかったのだ。
銀座・煉瓦亭
店主はなんとかカットレットの味を落とさず、工程を少なくすることは出来ないかと苦肉の策として考えたのが天ぷらのように油で揚げてしまうという調理法だった。これで時間のかかる焦げ目を付けオーブンで仕上げるという工程が、油で揚げるだけでよくなる。しかも、オーブンだと一枚しか出来なかったが、これなら複数の肉を一気に揚げることができる。さらに付け合わせも温野菜とかじゃなく、キャベツの千切りにすれば手間も省けるし、油に対してサッパリしていていいんじゃなかろうかと工夫をした。
そんな感じでこの組み合わせを試しに店で出してみたところ、大当たり。この油で揚げるポークカツレツとキャベツの千切りというスタイルは、その後の日露戦争で牛肉が戦地へ缶詰として送られ供給減となったことからの豚肉の普及と、米食に合うウスターソースの輸入と製造が始まったことも重なり、庶民の御馳走として一機にポピュラーな味となっていくわけである。
ポンチ軒・広告
大正時代を通じカツレツはさらに一般に浸透していくんだけど、その中から「とんかつ」が生まれたのは昭和の始め頃。昭和4年(1929年)に御徒町駅ガード近く(仲御徒町)の「ポンチ軒(ぽんち軒)」で宮内省の大膳部にいた料理人・島田信二郎がそれまで使い道のなかったヒレ肉(当時はヒレを使用するハム・ソーセージは一般的でなかった)を使用し、一般的なカツレツの倍くらいある分厚さの肉の加熱調理法を考案して誕生したのが最初の「とんかつ」である。さらに「ポンチ軒」では客が箸で食べやすいように切ってから出した。ここで現在のとんかつとほぼ同じ形になるわけだ。そのポンチ軒があったのは下の場所。

東京都台東区上野6丁目3−1


この箸で食える「とんかつ」は洋食寄りだったカツレツと違い、ザッパにカウンターなんかで食べる形式も含め、何か江戸っ子の琴線に触れるものがあったらしく、御徒町近辺に模倣する店舗が山盛り出来て、ちょっとしたとんかつブームといった感じになる。同所にとんかつの老舗が多いのはこれが理由だったり。この辺、当時は結構安易だったんだね。
「とんかつ」とカッコを付けたのは、「ポンチ軒」が最初にとんかつと名付けたのかどうか不明だからなんだけど、この辺は元祖やら本家みたいなもんで実際どうだったかは不明。呼び名がどうだったかはともかく、大事なのは銀座のようなハイソな町じゃなく御徒町が誕生の地であるということ、要するにとんかつは始めから下町の庶民の食べ物として生まれたっていうことだ。
戦後になってドロリと肉によくからむとんかつソース(濃厚ソース)も生まれ、より飯に合う食い物に進化していくと。こうして、カツレツよりもさらに身近になったとんかつが今どんだけ一般に受け入れられているかはご存知の通り。

ってな感じで最初の設問に戻る。以上の流れを踏まえてのまとめとして、食道楽としても有名だった映画監督の山本嘉次郎の文章が分かりやすいので紹介しよう。

肉がうすくて、ウスターソースをジャブジャブとかけて、ナイフとフォークで食うのがポークカツであり、肉が厚くて、トンカツソースがかかっていて、適当にきってあって、箸で食うのがトンカツなのである
『日本三大洋食考』

えー以上前置きが長くなったが、今回紹介する店舗は、そのとんかつが誕生の地・御徒町にある「とんかつ 井泉 本店」だ。
「とんかつ 井泉」
「とんかつ 井泉」は「ポンチ軒」でとんかつが生まれた次の年の昭和5年(1930年)に初代店主・石坂一雄が「お箸できれるやわらかいとんかつ」の調理法を考案し創業。店の名前は初代店主の画号「井泉(セイセン)」から。今は「井泉(イセン)」となっているのは客がみんなそう読むので、それで落ち着いてしまったとのこと。
井泉の箸で切れるとんかつはすぐに近隣の下町っ子の間で評判になり、さらに店舗が下谷花柳界の中心に位置していたということで、そこで働く粋筋の人々が御贔屓となり、当時のとんかつブームを牽引する店になったようだ。
そして井泉がおもしろいのは、繁盛の原動力になった技術を秘伝にせずにどんどん暖簾分けをしたこと。本店と名乗っているのはだからなんだ。東京都内、地方の主要都市に井泉の名がついたとんかつ屋は結構あるので、見たり入ったりという人も多いんじゃなかろうか。ただの便乗店も結構あるんだけどね。あちこちにうるさいほどある「とんかつ まい泉」(現在サントリー傘下)も実は井泉から暖簾分けした店で、元の名前は「青山・井泉」だったりする(名前が変わったのは現まい泉側がゴニョゴニョ…という噂)。

戦後になって、この繁盛っぷりと、花柳界の風情が残る店内の雰囲気をとんかつ好きの映画監督・川島雄三が気に入り、自身の映画『とんかつ一代』(森繁主演)のモデルに使った関係で、そっち方面でも著名な店でもある。残念ながらこの映画未見なんだけど、出てくるとんかつ屋「とん久」店内のスチール写真はびっくりするほど井泉そのまんまだ。ともかく、こういう感じで「とんかつ 井泉」は戦前~戦後と“とんかつ屋”の代名詞的店舗であったわけだ。で、今も絶賛営業中と。
下の写真は井泉が創業した頃の上野松坂屋屋上の様子。
昭和4年頃の上野松坂屋屋上
井泉に行くときはいつも開店すぐを狙っていく。カウンターで食べたいからなんだけど、その時間潰しに周辺に残る花柳界の残り香をちょっとお散歩。
元々この辺りは、池之端から黒門町にかけての下谷花柳界と、湯島天神周辺の湯島天神花柳界があり、二つ合わせて大きな花街を形成していた場所である。その土地柄は

奥に上野公園を控えているので、以前から日本画家によって開拓されている。それゆえ、何となくもの静かな趣を含んでどちらかといえば人見知りをするような癖を持って進展した土地である。

民俗学(考現学)研究者の今和次郎は『新版東京案内』にこう書いている。まぁちょっと格式と一緒に敷居も高いところだったようだね。戦後、花柳界が下火になって芸妓だった人がそのまま湯島でスナックやバーを始めた関係で、その雰囲気は今もちょっと残っている。
三味線・琴 伏見屋
なんでも、特に黒門町の方は花柳界から飲食街への転換が上手く言った場所だそうで、そういった辺りでバブル期にも土地の買占めや乱開発がほぼ無かった関係で、探せば現役の三味線の店や置屋だったんじゃないかなぁという木造建築がまだ見ることができたりする。会席料理店「くろぎ(旧店名・湯島 一二一)」なんかはそういう建物をそのまま店舗にしていて、その雰囲気とレベルの高い(ついでに値段も)料理で予約の取りづらい人気店となっている。
会席料理 くろぎ
と、ウロウロしているうちに開店時間となったので店に向かう。風月堂本店や上野鈴乃屋が並ぶ上野広小路から一本裏に入った小さい横丁にこじんまりとした感じで「とんかつ 井泉」はある。創業当時はこの道に芸妓の乗った人力車が行きかっていたそうだ。
「とんかつ 井泉」入口
開店時間ちょうどだったが、すでに店にお客が入っていたので自分も慌てて店に入る。上手い具合にカウンターの厨房がよく見渡せる場所に座ることに成功。何故カウンターなのかというと、この店はカウンターと厨房の仕切りのようなものが無く、調理工程が全部見ることができるのだ。二階は芸者が踊っていたという座敷席になっているらしく、一度上がってみたいなと思っているんだけど、とんかつはやっぱりガガっと食べたくて何時も一人で来ちゃうんだよね。そん時は何時もロース定食を注文してるんだけど、今回はとんかつ誕生の歴史に敬意を払い、初めてヒレ定食をたのむ。
あっという間にカウンター席が埋まり、後二席となったとき「おー、まだ大丈夫だぞ!」という高い声と共に映画監督の崔洋一氏が入って来て、その残りの席に座った。開店すぐをわざわざ狙ってくるってことはとんかつ好きなのかな。それとも川島雄三の映画がらみ?
「とんかつ 井泉」まな板
自分のすぐ前には揚がった後のとんかつを切るまな板があって、目の前で板さんがこの上にとんかつを乗っけて勢い良くザクザクと切ると結構な迫力がある。とんかつは生まれた当初からこのように職人達がイキオイで食わすみたいなところもあったようで、その辺はいかにも出自が下町の食い物という辺りをしっかりと受け継いでいる。ここは何時もそういう活気のようなものがあって、とんかつが来るまでワクワク感をしっかり高めてくれて非常によろしい。こんな感じなんで、このまな板の寿命は二年ほどだそうだ。
ザクザクと切っていた中に自分のヒレかつもあったらしく、目の前なんで板さんが直で給仕してくれる。
どーん。
「とんかつ 井泉」ヒレ定食
とんかつ屋は大体赤だしが多いように思うんだけど、ここは余った断ち落としの肉がしっかり入ったとん汁が付く。ご飯はお代わりOK。
で、肝心のヒレかつは~。うーん。確かにやわらかい。適当な店でヒレを食べるとパサ付いていることも多いんで、イマイチ苦手だったりしたんだけど、井泉のヒレはしっかりジューシー。これだったらたまにヒレ食べるのも良いな。
「とんかつ 井泉」ヒレかつ
ソースをしっかりとかけたヒレかつで一心不乱にご飯をやっつけていると、厨房の端で板さんがパンを並べているのが目に入る。名物のかつサンドを作り始めたのだ。
実はこの店、かつサンド発祥の店でもある。初代店主夫人(女将)が馴染みの芸妓達にかつを海苔巻きのように気軽に食べてもらうことができないかと、口紅が取れないよう小さいパンを特注して誕生したのがかつサンドなのだそうだ。こっちもまい泉のがやたらあちこちで売られているけど、こっちが元祖である。というか大きさから何からそのまんま。“かつ”な感じは井泉の方が強いけどね。確か快楽亭ブラックも井泉の方が好きってどっかで書いてたな。しかし、暖簾分けした店が本家の考えたもんを大々的に売り出したら、そりゃモメるよな。
「とんかつ 井泉」店内
そんなことを考えているうちに、ご飯のお代わりもしてしまい、やや苦しくなってごちそうさま。自分の後ろには席を空くのを待っている人が結構溜まってきてるので、とっとと清算して店を出る。
入り口近くでは80歳ぐらいのご近所さまと思われるジイ様がヒレかつをワシワシと食べている。肉食えるのか心配にもなるが、ここのヒレならまあ大丈夫なんだろう。地元の人間にも愛される店はいい店である。
「とんかつ 井泉」価格
何時ものようにすっかり満足したわけだけど、その内容は以上紹介した通り。さらに、もう一つ自分がちょこちょこと訪れる理由を上げると、それは価格である。実は井泉の近所にはとんかつ御三家といわれる「双葉」「蓬莱屋」「本家ぽん多」っていう老舗とんかつ屋があるんだけど、どれも三千円近い価格で高いんだよね。全然庶民の味じゃないじゃんっていう。それでいて(個人的見解であるけれど)味はゴニョゴニョだし。その価格だったら、近くの「伊豆栄」でも行って鰻食った方が良い。
井泉で何時も自分が食べるロース定食は1250円。あんまり金の無いときでも、ちょっと何か他のものを買うのを我慢すれば食えない値段じゃないのだ。そういう部分も含め、井泉は初期のとんかつ屋の心意気そのままで営業する貴重な店といえるだろう。それにしても、なんで御三家に入ってないんだ。
ともかく、上野・御徒町で昼でもなんてことがあったら、「とんかつ 井泉 本店」を思い出してもらいたい。損はしないぜ!
「とんかつ 井泉」外観
とんかつ 井泉 本店
東京都文京区湯島3-40-3
電話:03-3834-2901
定休日:水曜日
営業時間:
月・火・木~土 11:30~20:50(ラストオーダー.20:30)
日・祝 11:30~20:30(ラストオーダー.20:00)

東京都文京区湯島3丁目40−3

上野広小路・御徒町 「とんかつ 井泉 本店」 贋作御馳走帖」への1件のフィードバック

  1. タダ 返信

    正直散歩を見てて上野トンカツ御三家で[検索]してるうちにこちらへやってきました。井泉はトンカツ食べたい時は必ず伺いってます。なんで御三家じゃないの不思議ですが御三家も征してないのであまり言えません(笑)御三家も気になるけど多分今後も井泉一筋だと思います。お邪魔しましたm(*_ _)m

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