ガキの頃から慣れ親しんだ交通博物館も今じゃすっかり取り壊され、どうも跡地には地上20階のありがちな賃貸オフィスビルが出来るらしく現在は工事中。こういうJR東日本の商売へのアグレッシブさには感心させられるんだけど、このビルが出来ると交通博物館よりも前に万世橋駅というターミナル駅があったという事実は完全に歴史の彼方へっつーことになっちゃうんだろうなと思ったりする。
今からすると大きな通りから外れてちょっと薄暗い場所にこの場所に何故ターミナル駅?って感じだが、それは当時この辺一帯が神田多町の市場を中心にした一大商業地だったことと、色々と面倒くさい明治の鉄道敷設の歴史が関係あったりする。というわけで、今回の店の紹介へ持っていく枕話として万世橋駅開設までの流れをザッと説明していこう。
ご存知の方、めんどい人は飛ばすの推奨。
江戸時代の幕府御用市場だった神田青物市場は明治に入ってさらに多種多様な物資を扱い、周辺にそれらを扱う各種問屋街も出来て、その繁栄っぷりが極まっていくんだけど、当然政府の保護を受けるカタチで鉄道敷設を競っていた資本家やらはこの近辺に乗り入れれば大きな利益になると考えるわけだ。そこに、機を見るに敏な甲州財閥の資金をバックに新宿~立川~八王子間の路線営業をしていた甲武鉄道が明治22年(1889年)に鉄道延伸の許可申請を政府提出。しかし、どうも政府の反応がにぶいってことで、東京砲兵工廠(現在の東京ドーム)への鉄道路線が必要だった軍部と協力関係を結んだ辺りからちょっと話がややこしくなる。
延長の許可が政府から出たものの、お仲間の軍部がそろそろ中国と戦争あるかもしれんし砲兵工廠に追加して青山練兵場(現在の神宮競技場)辺りを通さないと許さないよと無茶を言い出したのである。直進ルートを考えていた甲武鉄道は大いに困り「人が居ないところじゃ採算的に」とか「恐れ多い場所(現在迎賓館の赤坂離宮)にぶつかります。」と抵抗したものの、軍部は離宮下にどんどこトンネルを掘ったりして強引に推し進めてしまう。こうなってしまうと甲武鉄道も、この後さら延長していけば大きな利益も出るだろうと諦め、明治28年(1895年)にとりあえず新宿~飯田橋間が開業する。東京へ向かう中央線が新宿から出た後に南行ったり北行ったりトンネル入ったりするのはこんな事情があったんである。
甲武鉄道は軍部への筋は通したんで、後はうちの利益だとばかりに鉄道の電化を進め本数を増やし、明治37年(1904年)には飯田橋~御茶ノ水に延長、更なる路線の許可申請及び工事といった感じで万世橋へ邁進していくわけだけど、この時期はちょうど日露戦争開戦中。甲武鉄道にとっては困ったことに、国防意識の高まりと共に、外国人株主にも経営状況を報告しなきゃならない私鉄じゃ軍事機密が漏れちゃってマズくねと、政府の中で重要路線の鉄道は国有化すべしという流れが決定的になって来たのである。
日露戦争で物資輸送等の苦労が多かった軍部はこの流れに乗っかって恩義のあるはずの甲武鉄道をあっさりと裏切り、鉄道会社株主議員の抵抗も空しく明治39年(1906年)に鉄道国有法が通過成立してしまう。で、同年に国は甲武鉄道を買収。途中だった御茶ノ水~万世橋間の工事も国が引き継ぐことになる。ちと甲武鉄道がかわいそうだけど、それなりな買収額で甲州財閥側はそれほど損はしてないんで、まあその。
こうして国の事業となった万世橋駅開設は当初より大規模で手間の(金も)かかったものとなり、すぐに完成しねえよってことで一旦昌平橋に仮駅を置くカタチとなる。上の写真は現在の昌平橋駅跡なんだけど、ガード下の店舗になってる辺りが駅入り口だったらしい。仮駅とはいえ、随分ちっちゃい始発駅だ。そのまま明治44年(1911年)には名古屋までの中央本線が全通。そして、次の年の明治45年(1912年)に辰野金吾の設計の豪奢な赤煉瓦造りの駅舎完成とともに、万世橋駅の営業が開始されるわけである。
ここまで説明しても、他と繋がってない駅がなんでターミナル?って人も居るだろうと思う。確かに北からの路線は上野まで(秋葉原駅はあったが当時は貨物駅)、南から路線は新橋まで、東からの路線は両国までと西への始発駅である万世橋駅とは繋がっていない。
しかし、当時(というか1960年代まで)の東京都内には現在のバス・地下鉄の代わりとして市電っていう交通機関があったんだね。万世橋駅前の須田町交差点はその都内縦横を走っていた市電が集まってくる場所ということで、万世橋駅がターミナル駅ということになるわけ。「鉄道の」っていうことじゃないんだ。上の画像は大正9年(1920年)の地図。万世橋駅がターミナルだったってのが良く分かると思う。ヨーロッパの大きな都市なんかでは現在でも路線の方向で始発駅が別れてるってのはよくあるようだ。
万世橋駅には前からあった市場やら問屋やらに集まって来ている人達に加え、あちこちから乗り換えで更なる人が集まって来ることになる。当然、押し合い圧し合いのモノスゴイ状況になるわけで、家族と行ってもハグれてしまうということで「親不知子不知」の難所と呼ばれたりしていたようだ。大正期を通じての車両交通量はナンバーワン。
そうやって人が集まってくれば、それを当て込むカタチで繁華街が形成されるのも当然なわけだけど、万世橋駅の北は神田川ということで、その役割は南西側一帯に広がる連雀町(現在の須田町一丁目・淡路町二丁目の一部)が担うことになる。以前からあった店舗に追加して映画館や寄席などのレジャー系の集まってきて、その賑わいは銀座にも劣らないほどだったようである。
因みに町の名前である連雀ってのは行商人が荷物を運ぶ背負子のことで、江戸時代これを作る職人が多く住んでいたことから来ているらしい。回りが市場・問屋街だから需要がいくらでもあったんだろうね。
その後、万世橋駅は中央線の東京駅への延長と神田駅の開設、関東大震災での駅舎の焼失などで縮小から廃止という流れになるわけだけど、連雀町は須田町交差点の市電ターミナル(震災後に中央通りと靖国通りの新設で万世橋駅前から移動・上の写真に市電が無いのが分かる)のお蔭もあって繁華な状況は昭和になっても変わらなかったようだ。この頃の連雀町のことはよく池波正太郎がエッセイなんかに出てくるよね。
ようやっとここまで来たが、今回紹介する「喫茶 ショパン」はこの頃の連雀町で創業(昭和8年)し、現在も続く老舗喫茶店である。
この旧連雀町一帯はその後の戦災被害から免れたため、池波正太郎が戦前に通っていたという飲食店がいくつか今もそのままで営業しており、そういう戦前の情緒に触れようと多くの人が訪れる場所となっている。正直最近じゃどこにでもいるリタイア団塊集団を中心に年配者達が王蟲のように押し寄せて来やがるので、店がどこも混んじゃって困ったもんなんだけど。
上の地図は『神田まちなみ沿革図集』という本に出ていたその昭和10年(1935年)頃の地図なんだけど(拡大します)、鳥鍋「ぼたん」、甘味処「竹むら」、アンコウ鍋「伊勢源」、洋食「松栄亭」、洋菓子「近江屋」、蕎麦「神田藪蕎麦」(天ぷらそば堀田となっている場所)、稲荷ずし「しのだ寿司」、蕎麦「まつや」なんかは今も営業中だな。
「喫茶 ショパン」はその“観光”の方々が行列を作る「神田藪蕎麦」向かいにひっそりとした感じである。なお、ショパンは以前淡路町交差点の近くにあり、現在の店舗は昭和62年(1987年)からのもの。
昔よく神保町で本を漁って、まつやの蕎麦で腹を満たして、ショパンで本の確認ってコンボを決めていたんだけど、訪れるのは数年ぶりだ(十年までじゃない)。上記のように状況なんで休みは混むようになっているんじゃないかと、偵察として平日の朝にモーニングを食いに来たんである。うーん、相変わらず洞穴を思わせる入り口だ。んなわけで、ダンジョンに足を踏み入れるRPGの主人公になったような気分で久しぶりに店内に入る。
う、混んでる。ショパンが静かに流れる店内でおっさんが並んで新聞を読みつつタバコを燻らしコーヒーを飲んでいる。どこの昭和だよ。とちょっと圧倒されつつも、一番奥の席が空いていたのを見つけてそこに座り、ホットとハムトーストのセットを頼む。この店のテーブルには木製の一つ一つが違う動物灰皿は置かれているんだけど、今回はフクロウ。マスターはまだ来ていないのか三代目の女将さんが接客している(店周りを掃いていたようだ)。
店の雰囲気は前に来たときからほとんど変わっていない。この店も典型的な外と時間流れが違う系の店である。“洞穴”って書いたけど実際中はそんな感じ。向かいのオッサンというかジーさんはコーヒーもすっかり飲み終わり、黙々と新聞を読んでいる。こういうオッサン向けに新聞は各種取り揃えているようだ。
と、新たに客(オッサン)がやってきて唯一 残っていた席に座ると隣の席のオッサンに挨拶をしている。こりゃ朝は全員常連なんだな。オッサンだらけで全席喫煙なのでタバコの臭いが気になる人は朝は避けた方がいいかもしれない。
てな感じでオッサンチェックをしていると、以外に素早く注文のコーヒーとハムトーストが来る。実はこの店で食べ物を頼むのは初めてだったりするんだけど(というか普通の店より食べ物は少な目だったり)、そこらの喫茶店でよく見るようなトーストと違い四つ切にしてある手間が客にやさしくていい。塗られたバターとトースト具合も絶妙。
ショパンのブレンドコーヒーは通常の三倍の豆を使っているらしく結構濃厚。昔の喫茶店のコーヒーってこんなんが多くて、子供には飲めない大人の味だったんだよな。これを濃すぎるって言う人は持ち帰り出来るような店のを飲み過ぎだと思う。カップとソーサーはオリジナルらしく、ソーサーの方にピアノのシルエットと店名が入っている。
店内の調度品は移転前の店舗からの引継いだものらしいが非常にレトロで雰囲気がある。こういう店にステンドグラスやなんかは定番だけど、アールヌーボー・アールデコをベースにフランスのカフェをイメージしているんだろうな。その中でショパンってのは合っているといえる(ショパンは後半生フランス在住)。ショパンのつづりが間違っているのはご愛嬌。作ったのは昭和初期の職人さんだろうし。
そうやって店内を眺めながら、太田胃酸のCMにも使われた前奏曲(プレリュード)の第7番が流れる中でコーヒーをゆっくりと味わいながら飲んでいたら、あっという間に時間が過ぎていて、仕事に遅れそうになる。ヤバイと慌てて清算。他に紹介したい飲み物もあるし、夜にもう一度来ることにする。
てなわけで夜。週初めなので店内に客は打ち合わせ系リーマン一組だけ。それもすぐに出て行き、貸切状態となった。一応この店“名曲喫茶”でもあってスピーカーもしっかししたものが設置されているんだけど、以前紹介した「麦」同様にそれほど厳密な感じじゃないので、ちょこちょこ騒がしく談笑する客が居たりして残念な時もあったりする。自分も余り気にはしない方ではあるけれど、やっぱり静かな方が落ち着けるのは確かだ。静かな店内独占で満足である。
さて、追加で紹介したかったのは、あんオーレって飲み物。名称そのまんまアンコをベースにした飲み物なんだが、細かく砕いた氷がシェイクしてあって、アンコ系の飲み物によくある粉っぽさが全く無い、のどごし爽やかな逸品なのだ。なおショパンにはアンコをトーストではさんだあんプレスっていう食べ物もある。アンコと喫茶店っていえば名古屋のイメージが強いけど、この店は全く関係ないオリジナルだそうである。まぁ古くからアンコや羊羹をはさむシベリアってのもあるしね。
ついでに何か食べるものをと一緒に頼んだチーズトーストはたっぷりとチーズが乗っていて、あんオーレとの甘いしょっぱいコラボが中々よろしい。んな感じで交互に食べたり飲んだりしていると、食欲やら仕事の疲れやらが、いろいろと満たされて癒されて、朝同様にショパンの世界にゆっくりと沈んでいく。
ショパンは若くして故郷ポーランドを離れ、生涯強い望郷の念を土台に多くの作品を生み出していった音楽家だ。戦前からの町並みが生き残った連雀町は、古い東京で育ったり知ったりしている年配者達にとっては、ショパンにとってのポーランドのごとく故郷そのものがある場所であるのかもしれない。と考えると、故郷に帰れなかったショパンと違って今もそこにあって、気軽にドシドシと訪れることが出来るってのは彼らにとっても旧連雀町にとっても祝福すべきことなのかな。古い店舗が残ってても金が落ちなきゃしょうがないしね。
正直いろいろと自分たちでブチ壊しておいて、今更うっせえなあって思うけど。
彼らに疲れたら、RPGの主人公よろしく「喫茶 ショパン」に入って、こうやってヒットポイントを回復すればいい。中にも居たらご愁傷様だけどね。
喫茶 ショパン
住所:東京都千代田区神田須田町1-19-9
電話:03-3251-8033
定休日:日曜・祝日
営業時間:8:00~22:00
東京都千代田区神田須田町1丁目19−9
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