「山の手は坂で覚えろ、下町は橋で覚えろ」なんて言葉があるが今回は分かりやすく地名に橋が付く下町・浅草橋である。といってもこの辺りが浅草橋と呼ばれるようになったのはそんなに古くはない。そんなわけで今回はその辺の経緯をマクラとしてみよう。
“江戸”が出来る前、今の浅草橋のちょい上には鳥越神社を中心に門前町的な小さな集落(鳥越村)があったようだ。鳥越神社は白雉3年(652年)建立という中大兄皇子(天智天皇)がブイブイいわしてた頃から続くというエラい歴史があり、敷地は二万坪くらいというから今の東京ドームよりもはるかに広かったらしい。勢力としては浅草寺と競り合ってたくらいっていうから結構なもんだ。しかし、鳥越神社が小山の上に建てられていた(古墳説もある)のが災いし、家康が将軍となり江戸を首都にふさわしくと天下普請を始めると、沼地や湿地の多いこの辺りの埋め立てに使うにはちょうど良くねと、野々村真の仁くん人形並にガンガン土地をボッシュートされちゃうのである。んなわけで現在の鳥越神社はその頃に比べるとずいぶんとちんまりとしている(関東大震災後、蔵前橋通りが出来て敷地がさらに半分に)。
東京都台東区鳥越2丁目4−1
こんな感じで天下普請は鳥越神社からするとパーフェクトに災難だったわけだけど、お陰で周辺の土地は凹凸がなくなり、どんどんと町家・武家地として開発されていくことになる。さらに、古くからあった奥州道を拡張する形で日光街道が整備され、日本橋から日光へ至る主要幹線筋に。こうしてこの通り筋には地方から江戸へ物売りに来る人達のための旅籠なんかが増え、その後に問屋街となるベースが整っていくわけである。
と、土地としては無事に飛躍して行くこととなった浅草橋辺りなんだが、二代目秀忠の時代になると江戸城の北の守りを固めるための外堀を作るべってことになり、その大土木で小石川から本郷台地を割るようにして通された来た神田川によって日本橋方面とはなればなれに(ゴダールじゃなく)なってしまうのである。もちろん橋はかけられるんだけどね。この橋が土地の名の元である「浅草橋」っつーわけだ。浅草から遠くね、とお思いでしょうがこの辺の日光街道は整備と共に浅草寺の参道兼ってことでこの名前になったらしい。っていうか鳥越神社の立場は。
「はなればなれに」とわざわざ描いたのは神田川が外堀ってことはそこで内と外に分かれてしまったっつーこと。外堀なわけだから橋の南には当然のように見付門(監視所)である浅草御門が置かれ、ここを境にやや人の流れが変わることになるのだ。井原西鶴は『一目玉鉾』に江戸の頃の浅草御門の様子をこう書いている「是より江戸町筋、万人の通り町の繁盛、馬、のり物、車は道を道に引きもかぎらず」。“是より(つまり日本橋側)”とあるように浅草側はその外になっちまったのだ。んな感じで、後の浅草橋辺りは問屋筋であるけれど日本橋側よりはやや下がる、要するに雑把な商品を扱う街として発展していくことになっちゃったんである。どうもこういう流れはず~と後の昭和4年(1929年)になっても
浅草橋をわたって浅草に入ると、ここに又一つの中心がある。それは瓦町(浅草橋にあった町の一つ)、蔵前辺に絵草紙、千代紙、玩具、風鈴造花などの安もの屋ばかりが、軒をならべていることである。
今和次郎『大東京案内』
といった感じで、ほとんど変わっとりません。しっかし、“安もの屋”って容赦ないな。その後、昭和7年(1932年)に両国までだった総武線が御茶ノ水まで伸び、この土地に出来た駅が橋の名前を持ってきて「浅草橋」と名付けられると、二年後の昭和9年(1934年)にこの辺りの細かい名前に分かれている町も同じ名前でまとめてちゃおうってことで整理統合が行われ地名としての「浅草橋」が生まれるとことになると。いやー長かったね。この辺りが「浅草橋」になったのは実は昭和に入ってからなのだ。
「浅草橋」になってからは説明は必要ないだろう。日本橋側が高度成長とその後のバブルでイマイチ色の無い場所になっちゃったのに比べて、「浅草橋」は町としてはやや沈没気味であるものの今も雑把な問屋街としてシブトク生き残っている。さて、今回はそういう粘り腰な街の匂いはどんなもんなんじゃろねって辺りを押さえられれば良いんだけど、はてさて。
当日、朝からハッキリと態度を決めかねていた天気は夕方に入りキッチリと決断しちゃったらしくJR浅草橋の駅に着くと傘を差したほうがいい程度に雨が降り始めていた。ということであいにくな雨なわけだけど、街が持つ場末熟女ホステスのうらぶれ感のようなものがドーピング検査に引っかかりそうなくらいに増幅していて、このシリーズ的にはお誂え向きな感じで結構なことである。夜になると問屋系店舗はすでに営業終了しシャッターが閉じられているので、手が震えちゃってるような老残ヨイヨイ感もかなりのもんだ。昼夜問わず営業止めちゃってるような店もチラホラ。
それにしても、そんな街をなだめるような高架の張り出しの曲線がやさしく美しい。建てられた時期もちょうどだけど、よく言われる昭和モダニズム建築の力強い造形と曲線そのまんまの見本みたいである。以外だったのはそんなガード下に新しめのオサレバーがあって、それなりに客が入っていたりすること。質実な浅草橋には合わないような気もするが、そういうのを求める人も出入りするようになってるということか。
んなことを考えてながら西口まで歩き、これまた「庶民的」イメージNO1という相応しすぎる都営浅草線に乗ってやってきたCUE氏と合流(自分より先に到着していた)。雨がどんどん強くなってきているので、西口からすぐの今回の目的の店「西口やきとん」へとっとと向かう。と、左衛門通りに出ると店へと曲がる手前に立看が出ている。やる気あるじゃん。
「西口やきとん」は昭和48年(1973年)に浅草橋西口のガード下で創業。この辺りじゃここっていう鉄板立呑として浅草橋に君臨し、9年ほど前に現在の場所に変わってからも繁盛は変わらず、今じゃ向いにさらに2号店も増設という人気やきとん屋だ。
店の前に来ると雨だというのに軒先で立って飲むオッサン達が見える。横山剣ばりにイイね~と言いたくなるね。野坂昭如の説法付きで。向いにある2号店も覗いてみるがこちらはフツーのテーブル席のようなのでパス。こういう店に来て座って飲んじゃあこのシリーズでやる意味無いじゃんと、バニシング・ポイントへ向かうコワルスキーのような気分で1号店へと突入~。
オ、オッサンしかいねえええええええええええ。すいませんお約束です。いやしかし、立呑でそんな広くもない店内なんでオッサンにむせかえる。リーマンだけじゃなく作業服っぽい人も多いのもよろしい。うーん、すばらしいオッサンパラダイス。こんな感じでカウンターがいっぱいなんで自分たちは向いの立呑テーブルに陣取る。テーブルっつってもビールケース積んでデカめのまな板乗っけただけなんですけど。その上にはハードボイルドな感じで七味が一本だけが置かれている。
奥の方を見るとそこそこのスペースでテーブル席もあるようで、会社のオッサン上司に連れられてきたらしき女性客もいる。流石にこの店は女性が立呑の方で一人ってのは難しいかな。奥の女性たちもあんまし長居してなかったし。その辺で2号店の需要もあるんだろう。その立呑の方には店が使う調味料やらなんやらがその辺に無造作に置かれていてややカオス。その中にしっかり神棚があるってのが下町らしいんだけど、よく見たら鳥越神社の御札だった。エリア的に氏子なんだろうな。いろいろあった神社だけど今は大事にされているようでなによりである。
とりあえずと王道のビールをたのもうとすると、どうもジョッキサイズが500mlと350mlがあるらしく、それじゃあと小さい方でお願いする。数たのむことになるのはなんだが、キンキンのが飲めて良いかもしれない。と、一緒に皿メニュー定番であるらしい「皿ナンコツ」と「塩煮込み 」をタノム。どちらも値段は150円である。やっすいねえ。小皿はいずれもこんな感じ。
「CD 600円」ってのはなんだろうと思ったが、後で調べたら佐藤蛾次郎が歌う?店のテーマソング的なもんがあるそうだ。なんだそりゃ。この店他にもWi-Fiが整っているのに鍵かかってるなど謎もチラホラ(店員やる暇なさそうだし)。
小皿はカウンターに盛られて並べてあり、ビールと一緒にすぐに出てきた。ビールでグビッと喉を潤した後、箸(つるっつるのプラ箸なので若干食いづらい)で塩煮込みの肉をつまんでみると、塩濃ゆめでメチャクチャ美味い。昼間しっかり身体を動かして汗をかいた労働者が欲する味だ。すいません自分達どっちも基本座り仕事で。健康のため塩分控えめって、それでストレス貯めてりゃ同じなんだし、とりあえず食えと。
皿ナンコツの方は見た目はなんだが口に入れるとゆるりとほどけていく位に良く煮込まれていて、こちらも文句なしの絶品。これをどんぶり飯に乗せて紅しょうがたっぷりでカッこんだらタマランだろうね。弾薬どころかV2ロケット並の補給が来たところで、迷っていた串はナニたのんでも大丈夫だろうとおすすめで5本づつ持ってきてくれと、とりあえず走っとけみたいなフォレスト・ガンプな注文でキメておく(タレで)。
酒とツマミが来ちゃえば何時ものボンクラモードであり、古今亭志ん朝から始まり脈略が在るんだか無いんだかよく分からない方向に話題が転がりだすと同時に串盛りがやってくる。メインイベンターの割にはすぐやってきたわけだけど、まぁ立呑だから遅くちゃしょうがないよな。
とりあえずシロをつまんでみるがやわらかいけどしっかりとボリュームがあって美味い。そのままうまいうまいとどんどんとつまんで行っちゃったんだけど、最後食べた脂身たっぷりの謎の一本が前頭葉がトロけそうなくらいの逸品。しかし、最初こいつはバラかなと思って追加したら何か違うもんが来て、結局なんだったのか分からなかったんだけど、後日のCUEの調査によるとどうもガシラらしいとのことなので、この辺を再訪時にはガッチリと攻めたいと思う。
怒涛のスタートダッシュも終わり、再びゆるゆると店内を確認していていくと、入り口横のカブリツキと言っていい串焼き場前のカウンターの面子が大分入れ替わっている。雨降ってるってのもあるんだろうが、ささっと飲んで食って隅田川・荒川の向こうの家に帰る(そして茶漬けでも食う)人が多いんだろう。立呑でダラダラと飲んでいるのは俺たちと明らかに地元と思われる初老のオッサンくらいだ。どうもカブリツキは常連が多いらしく並んでいるオッサン達は顔見知りだな。『マグロ』出演時の渡哲也を85%ほど(ほとんどじゃねえか)浅草橋寄りにしてみた感じの店主もその輪に加わっている。「マスター(本物)」と書かれた名札とつけていてナカナカお茶目な人のようだ。店員さん達もみな妙な人懐っこさがある人が多く、常連が多くても変な排他的な雰囲気は全く無く居心地は大変よろしい。
そのまま自分達のテーブルに目を戻すと横に釣られているカレンダーに何か書き込まれているのが見えるので、なんだろうと顔を近づけてみると小さく「ツイッター」と書かれている。CUE氏と二人でどんな用事だよと笑い合いながら、さらによく見ていくと上のホワイトボートの方に「○○紙業 ○○様 17:30 おみや150本」なんてのも書いてある。まとめてならおみやもやるのね。この辺も常連さんなんだろうけど。というか150本ていくら人多いのか知らんがどうやって食うんだ。
串盛りを片付けたところで、次はシリーズの義務的なところで気になる面白系に言ってみっかと話していたら、CUE氏が目ざとくフランスパンというメニューを見つける。やきとん屋でフランスパン?ナニソレってことで当然のように注文してみると串焼き風にパンがトーストされたものであった。うーむと言いながら食べてみると、炭水化物に飢えた身体にクるのか妙に美味しい。残っていた塩煮込みの汁につけてみたり、皿ナンコツと一緒に食べてみるとさらに美味い。これは定着するよな。
さらに赤獅子、白獅子ってのがあるんでタノム前にどんなんか聞いてみるとシシトウを挟んだっていう名前ほど面白い内容じゃなかったので止めといてシロの追加と共にナンコツとウインナーを注文。注文しつつカウンターをよく見てみると何故か鉛筆立てがあり赤鉛筆が突っ込まれている。アレなんだろうとCUE氏に問うと錦糸町に場外馬券場あるし競馬予想用じゃないかと言う。流石川崎在住。なるほど、スポーツ紙やなんかもしっかり揃ってるしな(付属品としての安価版ゴルゴ13も)。浅草橋っていうよりも、昭和通りより東は何か隅田川向こうの匂いが濃厚だったりするんだけどこういう人の流れが密だっつーことなんだろうね。この匂いってのは埼玉南部から江東区へ抜けていき海を通って川崎方面へ、という首都圏オッサンベルト地帯特有のもんだと思うが(CUE氏も地元っぽいという)、浅草橋はその端に引っかかってる場所なんだろう。
と、やってきたウインナーはただ串に挿しただけの食い慣れた朝食の味。オッサンは競馬予想をしつつこれを食べて家庭を省みるわけか(みねえよ)。
一緒にやってきたナンコツはパイプ感丸出しの部位的にノドの辺り。いいねこのカタチが。歯ごたえが大変よろしい。ここで気づいたのはこの店全体的に串の焼き具合が甘め(というか雑)な感じで来ても美味しいこと。部位によっては一応ボイルしてあるようだし、この辺は好きずきなんだろうけど、元々の肉の質がかなり良いってことなんだろう。肉を食い過ぎるとモタれる自分の胃も、豚を食うとアレな感じになるというCUE氏の腹も無事だったというのがいい証拠だ。
今回残念だったのは最近の騒動的なものが原因なのか、ただ単に仕入れが無かったのか分からないが、レバ刺しが無かったこと。この辺も次回だな。雨が激しくなってきて焼き場前にドア取り付けられちゃってるし、そろそろか。
と、オアイソとなったわけだけど、こんだけ呑んで食っていつもの半分程度で済んじゃったんでビックリ。後でCUE氏となんか計算間違ってたんじゃねと言い合ったくらいだ。こりゃ繁盛するわ。仕事帰りにちょっと一杯程度ならランチレベルで済むだろうし。毎度アタリの店が多いようで結構である。まぁ両者ともに視点を変えて楽しむことができる人間なんで、よっぽとじゃない限りどうにかなっちゃうんだけどね。
さて、今回の西口やきとんはそんな視点変えも必要ない王道立呑である。近隣で名が通っているのも納得の店だ。近所にあったら通っちゃってヤバかったね。まだまだ注文できなかった串も(飲み物も)あることだし、近いうちに再訪しなきゃダメだろう。そして何時かは焼き場カブリツキのカウンターで飲めるよう精進してみるかね。
西口やきとん
住所:東京都台東区浅草橋4-10-2
電話:03-3864-4869
営業時間:月曜日から金曜日 6:30~23:00(ラストオーダー)
土曜日 16:30~21:00(ラストオーダー)
日曜日 15:00~20:00
※下の地図、マーカーが建物一つズレてます。
東京都台東区浅草橋4丁目10−2
というわけで以下はオマケとなるが、店を出てからはビシビシと雨を降る中を主に炭水化物を求めて秋葉原まで歩いて行くこととなった。浅草橋~秋葉原間のガード下の状況も確認したかったんでね。
しばらく歩いて行くとガード下のスペースが空いている箇所があり、この辺りはかなり大胆なアーチ構造になっているのが分かる。足元を見てみると基本煉瓦構造なんだな。正直耐震的に大丈夫なんだろうかという気がしないでもないが、大丈夫じゃないから補強工事でもやるのかもしれない。去年以降こういう工事は増えたよね。それにしてもこういう風景が似合うこの辺りの中途半端な場末感はなんだろう。やっぱり浅草橋と秋葉原の間には何かの境界があるんだろうな。
場末よろしく秋葉原から移ってきた自炊の森があった。ここじゃないと生きていけないんだね。こういう吹き溜まり感は個人的にも好物だ。中途半端さから胡散臭さへ移行はもう少しなのかもしれない。
と、この辺りはこんなもんばっかりなのかっていうとそうでもない。神田佐久間町河岸の佐久間公園にある上の写真の「戦災殉難者慰霊碑」だ。
江戸の頃、この佐久間町に材木商・薪商が並んでいた。すぐ南に神田川が流れていて物資を運び入れるのに便利だったからだ。火事と喧嘩は江戸の華なんていうが、材木商・薪商があるためその火事の火元とみられることが多く(実際火勢が強くなるため)「佐久間町じゃなくて悪魔町」なんて陰口を叩かれたりもしたらしい。そして、明治2年に佐久間町に近い相生町(今のヨドバシ辺り)から出た火が周辺を焼け野原にしてこういう評価は決定的となる。
こういう流れの中でやってきたのが関東大震災。震災後に発生した火災は東京のほとんど(特に下町)を焼け尽くしたわけだけど、この佐久間町だけは住人達がそれまでの汚名をそそぐべく踏みとどまって決死の消火活動をしたため見事焼け残ることになるのである。最後は豆腐まで投げて消火したそうだ。“町の汚名をそそぐ”ってのは江戸から続いていた町人文化がどんなもんなのかってのを良く理解させてくれるように思う。
この碑は東京空襲時に同じく住人達は踏みとどまって消火活動をしたものの~という慰霊碑なのだ。揮毫がルーピー鳩山氏の祖父ってのがアレなんだけど、最後にこういうものを見れて上手くオチが付いた。雨はどんどん激しくなって靴の中はもうぐちゃぐちゃだったんだけど、今回はいろいろと満足度が高くて結構結構。
写真協力:CUE氏
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