ボンクラ各位はご存知のことかと思われるが、三原橋地下街にある銀座シネパトスが本日(2013年3月31日)で閉館となる。以降、同じく地下街に残っていた他の飲食系の店舗も段階的に立ち退きとなり、近いうちにこの味のある地下空間自体も消滅となってしまうようである。
ノスタルジー的なもので何か感傷的な気分にはならない人間ではあるのだが、何しろ大分世話になった場所である。多少は惜別の情を示さないと申し訳ないってことで、今回は歴史を振り返ったりしつつ、撮ってきた最後の状況(2013年3月30日)なんかも並べてどーにかしたいってのが今回の投稿である。ということで、写真多めとなるので、どうぞ宜しく。
歴史を振り返るとなると“三原橋”と元は橋であったとうことで、そこにあった川の紹介から入るのが順当な辺りだろう。その消えてしまった川の名前は「三十間堀川」。忘れがちなことだがかつての銀座は同じく消えてしまった外濠川、北には京橋川、一部が残っている汐留川なんかもしっかりと、水の街と言ってもいいような場所だったんである。
上は戦前の航空写真だが薄くオレンジ色になっているのが三十間堀川。汐留川と京橋川を繋ぎ、銀座と木挽町(東銀座)を分けるように流れているのが分かると思う。江戸初期の天下普請で出来た堀なので結構な歴史がある。矢印の先が三原橋だ。
というわけで戦前の地図にはしっかりと三原橋の名が書かれている。昭和通りの交差点に都電(市電)の三原橋駅があったんだね(見えないんだけど)。
その肝心の三十間堀川と三原橋の一番古いと思われる写真が上。明治後期の写真。それにしても三十間(54mくらいか?)って言うだけあって川幅結構あるんだな。木造なのにすでにチンチン電車が走っているんだが、当時から交通量がそれなりだったっつーことだろう。
現在ある地下街の土台というか上部構造となっている三原橋が出来たのは昭和4年(1929年)。実は関東大震災復興橋梁なのである。それが耐震性の問題で消滅ってのは皮肉なもんだが、橋自体じゃない部分の老朽化ってことなんだろうね。震災復興橋梁ってまだアチコチで普通に現役だし。
しかし、この辺どうも耐震性ってことでこういうものを片付けたいっていう都政の意向もちょいとあるような気もしないでもないですな。実際、東京オリンピックの時も「外国人にみっともなくないように」ということでいろんなもんが片付けられちゃったわけだし。
その三十間堀川が埋め立てられることになるのは昭和24年(1949年)から。他の川と同様に戦災で出来た瓦礫の撤去ってのが名目だが、銀座で特に埋め立てられた川が多いのは出来た土地を売っぱらってモロモロの予算を確保するって目的の方が強かったようなんである。因みに三十間堀川を埋め立てて出来た土地は「第二銀座」銘打って一区割り三十坪単位百万で売られたとのこと。
三原橋的な側面としては、川っペリに廃品回収業者(バタヤ)なんかが集まってしまったので、再開発と共にどっかやりたいってのもあったようだ(このバタヤ集落は埋め立て後もしばらくカタチを変えて残っていた)。
と言っても何しろ当時は米軍占領下。銀座にそっち相手のPX(以前紹介した銀座ライオンもそうだが和光ビルや松屋も接収されていた)、キャバレー、パンパン地帯があり、それにゴマをすりつつの三国人が跋扈し、それに対抗する銀座警察がウロウロしていた頃のことである。売られた土地にはやはりというか胡散臭い人間が群がり、トルコ風呂の元祖という東京温泉、近隣の闇市系の露天を整理するカタチで出来た銀座館マートなんかも出来て、都や近隣住民が望んでいたものとは違う方向の場所になってしまうのである。
で、肝心の三原橋地下街が出来るのは埋め立て数年後の昭和27年(1952年)。地下歩道として残っていたトコロをやはり胡散臭い人脈に狙われ、何やら癒着的な動きもありつつ日本初の道路占有地下街へという流れらしい。要するにココ、成り立ちやら何やら含め戦後の闇市的混沌をそのまま封じ込めたような場所なんである。案の定というか、オープン当初から条例違反の又貸しをして、約束とは違う飲み屋やパチンコ屋なんかもアリの、イロイロとゴタゴタ込みの船出であったようである(まず地下街が出来て、後に両側の建物ができる)。
オープン当時からここには「テアトルニュース」というニュース専門の映画館があり、これが後にピンク映画館の「銀座地球座」から「シネパトス1」となる。そして、片側いっぱいだったパチンコ屋は都がうるさく指導した結果「銀座東映」に。ここが「銀座名画座」(名画座だったが途中からエロ映画館に)から「シネパトス2」と「シネパトス3」になる。シネパトスは東映は大体子供が行っちゃイケない場所にあるっていう伝統も受け継いでいたっつーわけだな。ボンクラ各位が妙に居心地のイイってのはこの辺の歴史があるからなんだろう。
シネパトスが出来てからの説明はいらないだろうね。で、閉館前日の写真となるわけだが(ホントは前日夜に行く予定だった)、何か妙に寒くて曇りという春らしからぬ微妙な天気である。
シネパトス前に行くと、いやー居るわ居るわバズーカ砲みたいなレンズ付けたカメラ片手の年配親父共が。
地下街に入って直ぐの「理容 遠藤」は去年の11月に閉店していたようだが、律儀にオススメ店舗の案内板がある。
その隣の「カレーコーナー三原」はなぎら健壱氏が以前贔屓にしていてエッセイに書いたりしていた。渥美清や淀川長治なんかも客だったとのこと。
確かここに牛カツの店があったんだが、入ろうか迷っている内に閉店してしまった。
シネパトス3の脇にある関係者しか入っちゃイケないトイレ。
そのシネパトス3の横に映画関係者色紙と寄せ書きコーナーがある。
舟木一夫だけ写真入りなのと、村西とおると睦五郎が並んでいるのが妙におかしかった。
天井の曲線で橋のアーチがどんなもんか分かる。
真ん中辺りには撮影コーナーも出来ていた。
そういやアダルトショップもあったような記憶があるが、どの辺りだったろうか。
シネパトス1の入口で記念撮影をお願いしている客が居た。シネパトスで印象深く覚えているのは個人のものを別にすると、ライター陣(11PM、氏とCUE氏)と映画を見るための待ち合わせ(『ズーランダー』だった)をしている時に中原昌也氏が人を殺してきたような顔で劇場から出てきたことか。
なお、同じおじさんが何度か写っていたりするが、自分同様に中をウロウロと見て回っているからである。
ザっと見たところでちょっと気になったことがあったので戻る。
横手にある三原小路である。同じくの銀座に残る闇市的空間なのでチト心配になったのである。
看板見て店減ったなーと奥へ進むと、看板に関係なくそれなりに店やってたりして。ナンカ奥にはオサレなバーっぽいのも出来てるし。「中華三原」は昔ながらの中華屋といった感じで結構好きだったりする。中途半端な時間であるため、残念ながら準備中である。
焼肉屋以外の何物でもない。
二階の「よしの」もメニューが出ているので営業中と分かる。潰れない内に赤いウインナー食いに来よう。と、安心したところで三原橋地下街へと戻る。
まぁ、こんなところですかね。上手く時間があれば、消滅途中にも来てやろうかと思ってるですが。
帰りには新しくなった歌舞伎座見て帰ったんだけど、妙にマブシク感じちゃったりして。変わっていくことも面白くはあるんだけどね。