神田祭よりの“江戸っ子”の眺め 街角裏散歩

今年は4年ぶりの神田祭開催だったわけなんだけど、CUE氏および神田明神の氏子である親族様ご好意により、神田祭(神輿宮入の日)における当事者スタンスといった辺りを覗かせてもらえることになった。

先ずは、いつもの様にマクラっつーことでそこら辺りの歴史をサクッとと考えたんだけど、まぁそこらは公式なもんが幾らでもあるわな。ということで、神田祭が天下祭となるまでの流れを、やや斜めった角度から眺めていくことにしよう。

家康が秀吉に恭順の意を示そうと薦められるままに関東に入府したものの、江戸城周辺の余りの鄙っぷりに家来共と「だめだこりゃ」といかりや顔を見合わせたナンテ話が残っており、自分もガキの頃に読んだ児童向け歴史本にガッガリ家康の挿絵と共にそのように書かれていたのを記憶している。秀吉が地元である東海地方から引き剥がすという目論見で関東の田舎へ追いやったという見立てだね。しかし、どうも現在はそうではなく、江戸城周辺は太田道灌がブイブイ言わしていた頃から関東内陸部からの物資を集積して外洋へ、という交通の要衝であったからと上書きされているようなんである。道灌は有名な“足軽隊”をその貿易の上がりで組織していたとか、ナントカ。

太田道灌

その貿易の相手ってのは主に中部地方であったらしい。「江戸名物、伊勢屋、稲荷に犬の糞」ってのがあるが、“伊勢”との取引ってのはこの頃からの連続性があるんだそうだ。ちゃきちゃきの中部地方出身で、この情報をすでに知っていた秀吉は、どっちか言うと自身の貿易立国ビジョンを実現させるため、家康に奥州から関東に至る商業ネットワーク構築の要石なってくれよと、ジャニー喜多川よろしく「YOU!大阪みたいにやっちゃえばいいじゃん!」とリサーチ済みの江戸城を本拠にするよう“好意”として薦めたっつーことらしい。

太田道灌の頃の江戸図

そのことは入府後の寺社への寄進額に如実に現れていて、(武蔵国で)最も多い400石の朱印状を与えられたのは、利根川を中心とした関東全域の水運の中心地にあり、神主が在郷領主としてそれを押さえていた鷲宮神社であったりする。今はらき☆すた町おこしで有名な神社だな。ここまで細かく秀吉からサジェッションがあったのかは不明なんだけれども、役に立つか立たないかという政治的リアリズムオンリーっていう。さて、それに比して神田明神への寄進はどんなもんだったかというと、たった15石なんである。そして、後の天下祭の片割れの日枝神社はどうかというと、たった5石。この頃はどちらもちっとも大事にされていないんである。

徳川家康

では、神田明神は家康に天下が転がってきてからは大事にされたのかというと、チットもそうじゃない。江戸城の拡張に伴うカタチで元々の現大手町から駿河台へ、そして現在の湯島台地へと二度も移転させられているんである。このような目にあったのは神田明神だけではなく、同じく将門絡みの伝承もある鳥越神社なんかも広大な土地を取り上げられた上に(しかもその鎮座していた丘は埋め立てに使用)、分社されて移転なんつーことになっている。どっちも足元なわけだから、地生えの勢力の牙を抜いとかなきゃっていうのもあったんだろうけどさ。よく、家康と天海が将門を利用して江戸に霊的防壁を~なんて話もあるが、こうして見ていくと嘘っぱちだというのがよく分かるね。こんなことやってんだから、まずテメエが祟られるだろ。大体、家康なんて出ずっぱりで江戸に居たことなんてほとんどなく、そのまんま最後は駿府で死んでるわけで、多分押し付けられたこの江戸って土地を嫌っていたんじゃなかろうか。まぁなにしろ、秀吉には妹(朝日姫)まで押し付けられてるからねぇ。家康が神田明神で戦勝祈願うんぬんも天下祭になって盛り上がってから後からくっつけられたんじゃねえかと思う。

神田明神

こうして再構築された神田明神は一応「江戸総鎮守」となるわけだが、秀忠から家光となっても幕府の微妙な扱いは変わらず。どうもこの頃朝廷との関係が上手くいっていないこともあり、それなのに将門のようなあからさまな“朝敵”を江戸総鎮守ってマズくね、という声が幕閣の間でもあったもの理由のようだ。が、勅使として来た烏丸光広卿がオマケで“偶然”神田明神を参拝し、ナンのことはないと将門を勅免するよう工作をしてから流れが変わるのである。なお、この烏丸光広という人物、『柳生一族の陰謀』で成田三樹夫が演じた「烏丸少将文麿」のモデルで、実物の方もかなり胡散臭い人物である。恐らく、神田明神の神主である柴崎家から(不遇な状況改善の)斡旋を頼まれ、公家と武家の間で顔になれるチャンスじゃねと首を突っ込んできたといった辺りだろう。まぁ、それはともかく、幕府の方も渡りに船と朝廷の顔が立つように桃山風の壮麗な社殿への建替え資金を出し、目出度く神田明神は大っぴらな「江戸総鎮守」に、となるわけである。江戸っ子は三代なんていうが、三代目の江戸っ子将軍になったところでチョーンというのはらしいっちゃーらしい。

花競神田祭禮

神田祭は慶長の頃からほそぼそと始められていたらしいが、それらしくなって行くのはやはりこの頃から。将軍よろしく江戸っ子の氏子がどんどんと増えていった時期だったってのが大きいんだろう。結局のところ、昔から上から下まで江戸っ子に支えられて続いてきた神社なんである。

平将門

ここまでバチーンと江戸っ子とこの神社がハマったのは、やはり将門の存在が大きいと言っていい。初期の江戸っ子が上方から来た“大店(おおだな)”への反骨心があったのは以前に書いたが、何しろ将門はその上方に逆らって“新皇”を名乗った人物である。それに加えて、『将門記』に「天下ニ未だ将軍自ヲ戦ヒ自ラ死ヌルコトハ有ラズ」と書かれるような自ら馬で突っ込んでいくような苛烈な戦いっぷりが、何よりも威勢の良さだとか勢いを重んじる江戸っ子のハートをガッチリ!だったのだろう。何となく、この辺イメージ取れないって人は下の志ん生でも聞いてくれい(志ん生は今の末広町の辺りというギリギリ神田生まれの人)。

この手の古本を漁っていると、どうも神田祭は維新以前と以後じゃ全く豪壮さと勢いが違ったなんて書かれていたりもするんだが(さらに戦後なって落ちたという)、江戸の最盛期には、それこそ宵越しの金はどころか借金してまで祭りに参加する奴はまだマシで(「借金をいさぎよくする祭り前」なんて川柳も残っている)、町内の祭りの資金が足りないと商店から寄付を脅し取ろうという奴や(基本神田祭は同じ天下祭の天王祭に比べてスポンサー面で貧乏だったようだ)、勢い余って大名家の下っ端と喧嘩して島流しになる奴と、カナリむちゃくちゃだったらしい。特に荒っぽいのは神田蝋燭町(現・内神田1~3丁目辺り)と神田関口町(現・司町2丁目辺り)で、二町で西神田の羅生門と呼ばれていたそうだ。単なる威勢の良さで済むようなもんじゃなかったわけだね。流石将門の~ということでもないんだろうけど。

神田祭礼之図

当然のように今はこんなことは無いんだろうけど、実際はどうなのか「江戸っ子」にイロイロと確認したいことはあるんである。はてさて、どうなったかは以下をどうぞ~。
神田祭・その一
さて、当日。週前半の朝晩が妙に冷え込んだので、その流れでジャケットを着て来てしまったが、オモイッキリの好天。というか初夏並みに暑い。といってもカメラ持ちなので脱げば荷物になるということで、仕方なくジャケットは着たママ。イキナリのハンデキャップモードとなってしまったが仕方がないと諦めるが、この後やや注意力散漫になってしまったり。ちょっと早めに来てしまったしクソ暑いので、連雀町で喫茶店にでも入ってみようかとそちらへと向かうと、何か外堀通りの方に人の流れが見えるんで行ってみると、すでに神田明神へ向かう神輿の列がそこまで来ているのだった。
神田祭・そのニ
場所が中途半端なだからか以外にもギャラリーが少なめなんだが、この手のイベントにはどこにでも居る激写年配者が制服のようにカメラベストを付けて周りをウロウロしている。しかし、みんなイイカメラ持ってんなぁ。

神田祭・その三

それはともかく、まず最初の確認点は、神輿の担ぎ方だ。都内の祭りでは昭和三十年代の後半辺りから担ぎ手の減少なんかもあり首都圏全体から神輿同好会なんかにヘルプしてもらうというのが一般化している。が、それ以降本来の地元の掛け声が乱れてしまい「ソイヤ、ソイヤ」や「サー、サー」など、元々のもんじゃない掛け声が増えてしまったという話があるのだ(細かくはイロイロと議論があるようだ)。以前、なぎら健壱氏の本を読んでいたら深川八幡祭りでは氏子達が本来のものに戻そうと「ワッショイ」に統一したというのを書いていたので、神田祭ではどうなんだろと気になっていたのである。
神田祭・その四
というとこで、流れてくる神輿を見て行くわけだが、バラッバラである。どうも、子供神輿はワッショイにしていることが多いようだが、ワッショイは平担ぎといい余り揺らさないということで子供がやるのに向いているってことかな(子供神輿は肩を壊さないように担がない)。それにしても子供神輿に子供がそれほど居ないのが気になる。やっぱり地生えの子供ってのが居ないんだろうなぁ。新規で若夫婦が神田明神の氏子になるのはチト家賃的に厳しいだろうし。ともかく、神田祭は掛け声に関して適当にやってるっていうのが分かったので一つ納得。まぁ深川よりも神輿が多いし手伝ってもらわないとどうにもならないってのもあんだろう。
神田祭・その五
ただ、神田祭ってのは「神輿深川、山車神田、だだっぴろいのが山王さん」というように明治の途中までは山車中心の祭だった。路面電車の電線とレールなんかに山車が引っ掛かるってので、余り出されなくなって行ったトコロに、関東大震災や空襲で無くなっちゃったと。埼玉(江戸の頃は同じ武蔵国)ナンカには路面電車も関係無いので、アチラコチラに天下祭の影響を受けて始まった山車祭が結構残っている(神田祭の山車を購入ってのもあったり)。自分の出身地である久喜市にも夜になると提灯を付ける山車祭りがあり、ガキの頃は結構参加させられていたもんだ。その巡行に関してはやっぱり荒々しさがイロイロとあったと記憶しているので、全盛期の神田祭は志ん生の落語よろしく、江戸っ子の威勢も加わり更にややこしかったんだろう。これを盛り上げるお囃子屋台も一緒に来るんだが、この志ん生も口真似したお囃子が付くのは宝暦12年(1762年)からだそうだ。
神田祭・その六

面白かったのはガキの頃の地元の祭りと同じように神輿の前に世話人の老人達が羽織袴で先導役として居ることだ。昔は喧嘩の仲裁が中心だったと聞かされた覚えがあるが、この辺同様なんだろうな。江戸時代に町人で羽織袴を履いていたのは基本長屋の大家のような地域社会の世話人だった人(田舎の場合は庄屋)なわけだけど、今やってる人達も恐らく変わらずそういう立場の人達なんだろう。どうも日差しがめっちゃキツイのもあり、世話人の方々はどこの町内の方々もお疲れ気味でグッタリとした感じだ。

そんなこんなを昌平橋の辺りまで眺めていったところでCUE氏より連絡が入ったので、その氏子町会である神田須田町一丁目南部町会の神酒所(っていうのか?)へと向かう。後で知ったがこの町会、昔は荒っぽい若者が多いってんで有名だったそうである。
神田祭・その七
間違って隣の町会へ行ってしまった後にたどり着くとますますフォトジェニックになっている息子含むCUE氏家族が集合しているのでご挨拶。そのまま、地元っ子であるおばあさんに町会の手ぬぐいやらおにぎりをいただく。この食い物をとりあえず渡されるってのは実にお祭りっぽい。手ぬぐいは「四十八茶百鼠」ってのに見事に合致する茶色である。
とりあえず、まず宮入を見ておかないと、と言うCUE氏と話をしていると、聞こえてくる後ろのご長老達の会話の間がイチイチ志ん生の落語そのまんまで笑ってしまう。「日ぃが強いんで気持ち悪くなっちまったい」「なんだい兄さん(ふたりともご年配である)小かい?だったら家でしなっ」みたいな感じで。いやぁ、実際こういうもんなんだな。
神田祭・その八
こっからはダラダラ書いてもしょうがないのでポンポンと行こうと思うが、んじゃと手ぬぐいをクビに巻きつけCUE氏と共に神田明神へ向かう。明神下交差点の辺りまで行くとすでに神輿が大渋滞中。その中に須田町一丁目南部町会の神輿は居ないんでもう行っちゃったんだろうと、脇の歩道もギャラリーでいっぱいの中、ともかくクライマックスの宮入りを見ようと一気に境内へ。
神田祭・その九
男坂の方から回りこむように境内に入ると、白い法被でいっぱい。どうも将門塚保存会の神輿が宮入り中らしい。後で調べたが丸の内にある将門塚の維持管理団体だそうだ。氏子っていうか氏子企業ってことで近隣のオフィスの人達が主であるとのこと。将門は明治に入ってから祭神から外されてしまい、戻ってきたのは昭和59年(1984年)なわけで、その間の祭はどうしていたんだろうか。
神田祭・その十
ともかく人だらけなわけだが、CUE氏が「前はもっと大変なことになってたよ」というように、先へ先へと行けなくもないのでズンズンと神輿が見える位置まで。というか氏子よりカメラおっさんがいっぱいなんですが。カメラ用ポールってこういう時使うんだな。
神田祭・その十一
最終的に宮入は神社に借りていた御霊をを返す儀式になるわけだけど、流れを見ているとこうすんのねとナカナカ面白い。御社殿前の普段賽銭箱がある辺りに集合した氏子達が参拝した後にお祓いを受け、羽織袴の年寄りの中の総代が挨拶をして一本締めしてオワリ。後の神輿もあるからだろうが、サクサクと進むのが以外だった。
神田祭・その十二
横をみてみると、江戸の頃の山車を再現したという加茂能人形山車が見える。江戸期の神田祭の資料なんかは結構残っていて、それを紹介する本なんかも出ているわけだが、実際はちょっとリオのカーニバルといったところがなんとなく近い辺りなんだろうかと思ってみたり。
神田祭・その十三
と、ザックと流れを見たトコロで境内から脱出。トルコアイスやトムヤンクン、烙餅(ローピン)の前に長野のおやきという国際色を超えて文化人類学を感じさせる並びの屋台の間をすり抜け、いくつかの神輿とすれ違ったりして、湯島聖堂前交差点でCUE氏家族と合流。どうも宮入は全体的に遅れ気味であるらしい。すれ違ったのもこれから坂下へ行く神輿だったようだ。
さて、ここでも何か決まり事でもあるのかというくらいに必ずカメラベストを来ている激写年配者がアチラコチラに居るわけなんだが、そういう秘密結社でもあるんだろうか。こういう人達の写真ってコンテスト的なもの以外に出てこないからなとCUE氏と話している内に、一度須田一丁目方面に戻ろうということになる。
昭和26年頃の須田町界隈
と、一旦神酒所に戻る前に万惣前のフレッシュネスバーガーで休憩ということになったので(ビールを御馳走に)、持参してきた『東京風物名物志』(昭和26年発行)に出ている神田の地図(エラクざっくりしてるんだが)をCUE氏のお母さんにお見せすると「あぁ、ここの靴屋の親父はアゴが外れて顔を(縦に)縛っていた。」という、アサってだが面白すぎるという延髄斬りのような情報をいただくことになった。そして、その辺はおばあさんの方が詳しいから聞いた方が良いとのことなので、是非にと神酒所へと戻る。
戦前の神田須田町界隈
早速、CUE氏と共におばあさん含むご長老の方々にお見せするとやはり「あぁ、ここは!」といった感じでイロイロと情報を出してくださったのだが、うれしかったのは立花演芸場の情報が出てきたことだ。その「神田立花演芸場」は明治から続く戦前は「神田立花亭」という名前だった寄席である。地図の頃はNHKのアナウンサーだった松内則三(なんでも野球中継で名を馳せ、最初のオリンピック中継をやったアナウンサーだとか)が運営し、後に桂文楽に薦められて橘流寄席文字家元になる橘右近が楽屋主任をやっていた頃である。歌舞伎ナンカの歴史なんかは残っていくけど、こういう寄席の話だとかは消えてっちゃうんだよね。今回演芸場の写真無いもんかと探したけど、全然ありゃしないし。この「神田立花演芸場」は昭和29年(1954年)に志ん生独演会を最後に閉鎖している。
ここで橘右近が新網町の出身ってことで、そのことをおばあさんに聞こうと思っていたんだけど、暑さでボケていたのかすっかり忘れてぶっ飛んでいた。
諸人成田山参詣ノ図
覚えていたのは、神田明神の氏子は成田山新勝寺にお詣りしちゃイカン説ってのはホントかという質問。成田山は平将門を討った方側だから行くと機嫌を損ねるからっつー話。が、お歴々の皆さんは「そういうねぇ」とその説自体は肯定されたものの、家内安全ってことで行かないわけにはいかないってんでみんなでバスに乗って行ったりしているという。本人達、全然気にして無いじゃん!。そして続けて「(御利益の)商売敵だからそんな話ができたんじゃないか」という話をいただく。なるほど、それはカナリ頷けるな。
市川新之助宮参りの図
成田山は荒事を完成させ絶大な人気を誇った初代・市川團十郎が成田山の近場出身で子宝祈願したら見事二代目を授かったことから屋号を「成田屋」として、提携するようなカタチで成田山絡みの舞台を上演、江戸っ子に多いに宣伝したため人気の参拝地になっていったという。当然、江戸の既存の御利益場所としては面白くないわな。だけど、同じく討った側の平貞盛が戦勝を祈願したっていう大宮の氷川神社に関しては別に拝んじゃイカンとか無いもんね。しかし、荒御魂の平将門を奉る神田明神を荒事を生み出した「成田屋」が脅威を与えていたってのはナカナカ面白いな。
神田祭・その十四
といった感じで自分の中的なノルマは一応果たしたので(ど忘れしてたことはあったが)、ここでその辺のアレヤコレヤを見物させてもらう。気になっていたのは宮入では使わないのか置かれたまんまの曳太鼓だ。エラク立派なんである。
神田祭・その十五
イキナリ気になったのは太鼓に乗っかっている人物だ。ぱっと見は宝珠持ってるし格好から吉祥天だろうかと思ったんだけど、背負ってる旗が日月旗なんである。錦旗なのだ。ってことは神功皇后か?
神田祭・その十六
更に良く見ていくと台座の彫刻がただの干支かと思ったら、馬が馬紋である「放れ馬(はなれうま)」になっているのだ。これ、確か千葉県沼南町岩井にある将門大明神にある彫刻とほぼ同じもんだ。要するにコレ、将門を意味すると言ってしまってもいいだろう。錦旗を背負った人物が将門に乗っかってるってのはエラク意味深だなと、ちょうど町会の人が近くに来たので「アレ誰ですか?」と聞いてみると、「誰なんでしょうねぇ」。って知らないんかい!
神田祭・その十七
ここで思い出したのは勝海舟が若い頃のエピソードである。蘭学を修めようと学者(箕作阮甫だったか)のトコロに行ったら「お前は江戸っ子だろう。江戸っ子は粋だとか洒落だとかは分かるが、根気が無いから学問には向いてない。同じ所で穴を掘るようなことは田舎者じゃないと駄目だ。」と断られるという話だ。結局のトコロ、やはり江戸っ子はまず勢いであり、意味は後から着いてくる。というか、田舎者が付けていったんじゃなかろうか。自分も好奇心があっちこっちへ行ってしまい学問はダメな人間なのでそういうことにしておいた方がテキトウに心地よくてよろしい。うーん、ようやくナンカ掴んだような気がする。別にこっちは真実を追い求める人じゃないんで結果がユカイならそれでいいのだ。

よーわからんベクトルで人心地ついていると、宮入が終わった神輿が「お茶の水ホテルジュラク」で休憩しているので見に行こうとなる。なんでも町会でよく使うんでそこで休憩することになっているだそうである。まぁ、元々聚楽は「須田町食堂」が原点だもんな。
神田祭・その十八
CUE氏家族に着いて行くようなカタチで聚楽に到着すると、入口にどっかりと神輿が置かれていて、その周りに担ぎ手含む町会の方々が地べたに座って休憩している。ホテルの方からは飲み物カウンターが出され、柱の方にはおにぎりが山と積まれている。と、いつの間にやら水割りとおにぎりを持たされたので、流れのままパクつかせていただく。流石にメインで担いでいる人達はアルコール方面をガッパガッパとは行かないようである。しかし、ホテルの入口で休憩って何かスゴイな。
神田祭・その十九
須田一丁目南部町会の神輿は小ぶりと聞いていたが置かれているとそれがよく分かる。後で貰った神田祭のパンフを見ると昭和6年(1931年)製ってことで震災復興計画の合併で今の「須田町一丁目」が出来る前なんだね。東京の神輿は戦後になって担ぎ手の減少から小型化していった何て話もどっかで読んだことがあるが、神田祭に関してその情報は間違っているようである。前からこの大きさなわけだからな。
神田祭・その二十
そうやって神輿を眺めつつ、おにぎり食ったせいかぼんやりとしていると、何か一本締めが始まりアレよアレよという間に子供神輿が出発。自分達もそれにくっついて神酒所に戻るということになる。しっかりおまわりさんもくっついてくるのね。終盤ということで、子供たちは疲れちゃってるようで、神輿には手を添えているだけで目をつぶって寝ちゃってるような子も。
神田祭・その二十一
ほとんど、大人たちが何とか引っ張るようにして神酒所に到着。伝統の継承ってのも大変なんである。それにしても思春期前辺りの子供が居ないように思ったが、居ないのか参加したがらないのかどっちだろうか。自分の田舎の山車祭りだとヤンキー予備軍の子供たちが積極的に参加して(させて)、地域社会に組み込まれて行くというのがあったように覚えているが、都心部だとそれ以前の子供の少なさってのがあるんだろうか。
子供神輿が帰ってきて、神酒所がパッと明るくなったトコロでこちらも解散である。CUE氏の息子も大分お疲れのようだ。おばあさんに雰囲気を楽しめましたか聞かれたので、十分にと感謝。CUE氏家族にも感謝をして別れ、まっすぐに帰ろうかと思ったが、何故かおにぎり散々食ったのに万世に寄って万カツ買って帰ったのであった。

さて、今回は以上なわけだが、本なんかにも確定事項として書かれているようなことが、実際はそうでもないってのが確認できてカナリ良かったように思う。オマケにイロイロと面白い話も聞けて、誠に感謝感謝である。
なんとなく江戸っ子の実際の有り様を掴みに~といった感じになったが、これも江戸っ子同様の勢いでキマったようなもんなので、ある意味収まるトコロに収まったということで話的にはお後が宜しいようで、となったんでしょか。一つ、江戸っ子の今後ってのは何かモヤっと気がかりになりつつのオワリではあるんだけど、これもまぁ勢いとかでどうにかなっていくと良いんだけどね。

追記(2013年5月28日)
まだ何か自分が忘れてんじゃないかってのがドウモ頭からヌケなくて、なんだろうとず~と考えてたんだけど、ようやく思い出しました。
神田明神の氏子は~
古本に出てきた由来が全く不明の神田明神の氏子は股間のものが左へ曲がっている説。いやーこれは当日思い出さなくてホントウに良かった。

日本侠客伝 血斗神田祭り
江戸の祭礼屋台と山車絵巻: 神田祭と山王祭
江戸最盛期の神田祭絵巻: 文政六年御雇祭と附祭

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