上野駅前といえば聚楽台の入った西郷会館~の印象がある人は多いようですが、残念ながら新しく建て直された「UENO3153」には条件面が折り合わず再出店はしなかったようです。正直この「UENO3153」、聚楽台が抜けてしまったこともあり、かつての西郷会館と比べるとコレといった特徴がなく、果たして前と同じようにランドマークとして機能するのか?なんてことを考えたりもしたんですが、実際来てみると満員状態。まぁ、土日になると上野駅周辺はどこかじゃなく、どこの店にも入れないって状態になっちゃいますので、街の特徴よりはキャパっていうことになっちゃうんでしょうかね。~なんてことを考えながら階段を登り上り西郷隆盛像へ。
あれ、ネタは団子なのに何で西郷さんなの?とお思いの方も居るとは思いますが、ここに来た目的は西郷さんじゃないんですな。その西郷像の裏側に何やら辛気臭い感じである「彰義隊の墓」に用があったんです。やっぱり団子と関係ない?いやいや、実は今回紹介するお店「羽二重団子」へ向かう道ってのは彰義隊の敗走路でもあるので、ここから始めてみようというわけなんです。
彰義隊でアレでコウでって歴史上の流れはガッコウで習うことかと思いますですので、その辺はスッ飛ばしますが、当サイト的に押さえたいところとしては、それこそ勢いで集まってしまった江戸っ子侍の集団であったという辺りです。杉浦日向子女史も彰義隊を題材にした『合葬』に「強いていえば“義憤”が彼らの原動力であった」なんてことを書いているわけですが、それ故に同じ幕府側でも会津なんかの面倒臭さとは違い、何かタンパクで底の抜けた間抜けさと共にある散り際のあっけなさに、そこはかとない憐憫の情を感じたりするわけです。江戸文化に強い思い入れのあった日向子女史が取り上げるもの当然といえば、当然というか。
因みにこのお墓、生き残った元彰義隊士である小川興郷が尽力して明治17年(1884年)に出来たものなのですが(墓に刻まれた「戦死之墓」の文字は山岡鉄舟の筆)、実は現在あるものは再建されたもので、明治8年(1875年)に私財を投じて立派な唐銅の宝塔墓(上の写真)を建てたものの、借金のカタに持っていかれてしまったという、ちょっと物悲しくも情けない歴史を背負っていたりします。
というわけで、「羽二重団子」は江戸期より続いている店で、しかも後でふれますが彰義隊とも結構関係が深かったりもするので、その辺に敬意(というか好意か?)を表する意味でまずここに詣でて、彼らの何事かを道連れにお店へ向かおうってコンセプトなんですが、日向子女史の『合葬』よろしく「江戸の風俗万般が葬り去られる瞬間の情景が少しでも画面にあらわれていたら、どんなに良いだろうと思います。」といった辺りが少しでも盛り込めればと思っております。
さて、大村益次郎の手のひらの上で壊滅した上野の山の彰義隊は北である根岸方面へと逃れて行くことになります。大村がわざとそちら方面には兵を配置しなかったからです。「窮鼠猫を噛む」といった状況を避け、とっとと終わらせる為の策というわけですね。流石というかなんというか。
そういった理由で上野の山から根岸へは新政府軍の包囲の輪が比較的ゆるやかだったため、彰義隊の神輿であった輪王寺宮(後の北白川宮能久親王)も剣客として有名であった榊原鍵吉に護衛されて根岸から合羽橋の東光院へと脱出しています(その後榎本艦隊合流、仙台まで逃れて奥羽越列藩同盟の盟主に)。ゆるやかといっても途中で榊原が土佐藩士を斬ったりしてるんですが。
比しての谷中方面ですが、長州を中心とした新政府軍は団子坂下まで到達したものの、その後の雨が降っている上に狭くて急な(しかも上からは丸見えな)三崎坂の突破が上手く行かず、攻めあぐねていました(どうも長州が新式のスナイドル銃の操作が分からなかった等々あった模様)。このことに正面の黒門を担当していた西郷が足並みを揃えろと激怒したとか、なんとか。ともかく、地の利がある彰義隊が優位と言えないまでも、なんとか押し止めているといった状況だったようです。しかし、衆寡敵せずというか、先に上野の山の方が落ちてしまったので、空家に火をつけるなどの時間稼ぎをしつつ(新政府側もやたらとある寺の探索が面倒で放火している)、坂を転げ落ちるように日暮里(根岸)方面へと逃れていくことになります。
安政4年(1858年)の地図でちょっと確認してみましょう。江戸時代の地図なんで、ちょっとどこがどうというのが分かりづらいので目印を付けてみました。右手が北になります。番号1が上野の山。番号2の谷中天王寺付近で戦っていた(実際戦っていたのは少し上)彰義隊士は、番号3の日暮里(根岸)方面へと逃れて行くわけですが、この間のくねった道が谷中天王寺・寛永寺谷中門を守っていた彰義隊残党の多くが逃走路として使用した道です。この番号3の場所が「羽二重団子」がある場所で、道の途中からの芋坂を下りきったところにあります。関係無いですけど、日暮里駅の辺りは乞食小屋だったんですね。
念のため、維新後の明治25年(1892年)の地図も見てみましょう。番号は1が上野の山(博物館になってますが)というように同じ場所に対応しています。番号3の横に同じように善性寺があるので分かりやすいかと思います。お店のある場所と善性寺の間に同じように北に伸びていく川と道がありますが、これは音無川と王子街道です。音無川は王子で石神井川から分かれて流れていた灌漑用水で、昭和10頃までには完全に暗渠となっていたようです。王子街道(何故か上の地図ではしっかりと書かれていないんですが)は当時から大名行列の往来路でもあり、羽二重団子はこの街道を通る旅人プラス同じく街道を使って王子飛鳥山へと向かう行楽客、そして花の名所として「ひぐらしの里」と呼ばれた「新堀(にいぼり)」(江戸中期頃には日暮里が定着)に散策に来た人々に団子を供して発展していったお店なのです。
なお、すでにここまでの流れでもそうですが今回紹介する羽二重団子、日暮里と根岸(そして谷中)の境にあるため混同しやすく、また一緒に扱われることも多いので、どこだというエリア的な扱いが人によってバラバラですので混乱しないようお気をつけください(本来の区分は日暮里なんですが店の看板にも「根岸」とあったり)。当サイト的にはどっちでもいいんで、基本記述はそれぞれそのまんまです。
ザクっと説明したところで芋坂へ移動しましょうか。今回は上野から谷中霊園を通るような格好で向かいましたが、当然ながら単に芋坂から羽二重団子に行くには日暮里駅で降りた方が楽です。ただその時は北口改札から出て、まず経王寺に寄ることをおすすめします。ここの山門には彰義隊を匿ったために撃たれたという弾痕が残っているんですな。
天王寺の参道を横切る形で谷中霊園を抜けきり、道がやや下るようになってきたなと思っていると、それを断ち切るようにJRの線路が見えてきます。そこが芋坂です。
線路を渡るために青く塗られた跨道橋があり、「芋坂跨道橋」と名付けられているのですが、本来の芋坂は左手に降りて行くのがそうです。
降りて行くと道がどん詰まりになっており、線路によって断ち切られたというのが非常に良く分かるようになってます。ここまでハッキリと残っているというのもナカナカ珍しいかと。昭和の始めに跨道橋が出来る前はここに踏切があったようです。しかし、これだけ路線の多いところだと渡りづらかったでしょうね。
東京都台東区谷中7丁目12
GooleMapで上から見ると、そのことがさらに良く解ります。
戻って“芋坂”と書かれた標柱をもう一度横から見てみると正岡子規の句が書かれています。「芋坂も団子も月のゆかりかな」。子規がまだ元気だった二十代の頃、当時は谷中在住だった幸田露伴に処女小説『月の都』を見せに行き、そして酷評されて「小説家となるを欲せず、詩人とならんことを欲す」と俳人となることを決意して帰ってきたのも(見ても貰えなかった説もアリ)、この芋坂なのです。最もゆかりがある文学者と言ってもいいでしょうね。近所の根岸在住だった子規がこのように句を読んだというのは当然のような気がしますが、この芋坂と羽二重団子は他の多くの文学者達も作品の中で取り上げています。有名どころをいくつか紹介してみましょう。
「行きましょう。上野にしますか。芋坂へ行って団子を食いましょうか。先生あすこの団子を食った事がありますか。奥さん一返行って食って御覧。柔らかくて安いです。酒も飲ませます」と例によって秩序のない駄弁を揮ふるってるうちに主人はもう帽子を被って沓脱へ下りる。
吾輩はまた少々休養を要する。主人と多々良君が上野公園でどんな真似をして、芋坂で団子を幾皿食ったかその辺の逸事は探偵の必要もなし、また尾行する勇気もないからずっと略してその間あいだ休養せんければならん。
夏目漱石『吾輩は猫である』
「團子(団子)が貰いたいね、餡のばかり、」
と、根岸の芋坂の團子屋の屋臺へ立った。…その近所に用達があった歸りがけ、時分時だつたから、笹の雪へ入って、午飯を澄ますと、腹は出來たり、一合の酒が能く利いて、ふらふらする。
―中略―
眞昼間の幕を衝と落とした、舞臺横手のような、つらりと店つきの長い、廣い平屋が名代の團子屋、但し御酒肴とも油障子に記してある。
泉鏡花『松の葉』
青壷のカンはあたりました。…とういうのは、それから二三日して、わたくしに、根岸まで行く用があったので、その帰り、そうだ、ここまで来たものだと、芋坂で羽二重だんごを仕入れ、何んの気なしに、田端まで一足のばしました。
当店にて
芋坂の団子さげたる賀客かな
久保田万太郎『うしろかげ』
と、キリがないのでこの辺で止めておきますが、他にも田山花袋、船橋聖一、司馬遼太郎(主に子規絡みで)と、出てくる出てくる。上で江戸後期の日暮里が「ひぐらしの里」と呼ばれ花の名所であったことを紹介しましたが、それ故にその頃には文人墨客、尾形乾山、平田篤胤、前野良沢、酒井抱一、亀田鵬斎、等々が多く移り住むような場所だったようで、その伝統が続いていたと言うべきなんですしょうか。なお、江戸期の日暮里周辺には彼ら文人墨客だけではなく、市街からちょっと離れた場所であったことから火事の時の避難所として日本橋なんかの大店(おおだな)が多く別宅を構えていて、その大店の主人がそこで妾を囲う場所としても知られていました。どうも文人墨客達よりもこっちの方が先だったようです。この辺は「悋気の火の玉」って落語の演目にもなっていたりします。どうも明治になってもそれは変わらなかったようで(現在の西日暮里4丁目辺りの日暮里渡辺町が妾横丁として有名だった)付近が子規が「妻よりも妾の多し門涼み」なんて句を残しています。今ラブホテルが多いのもある意味伝統なんですかね。
このように日暮里が行楽地として開発されたのは、宝暦4年(1754年)にお隣の根岸に輪王寺宮の御隠殿(隠居所)があったことが大きいようです(上の江戸期の地図にあります)。御隠殿が出来る前の元禄の頃には当時の宮が京都から鳴き声になまりの無い鶯の雛数百羽を取り寄せて放つなどして(鶯谷駅の名はそこから)、すでに幽趣佳境の地として知られていたようですが、出来た御隠殿に松の林に包まれているように池が配置されている優雅な庭園があったことから(御隠殿のことを歌った子規の句に「人の庭のものとはなりぬ月の松」というのがある)、同じ根岸や隣の日暮里の寺などもそれに刺激されて大いに改庭、どしどし花木を植えるなどして引っ括めての形で行楽地化していったようです。『江戸名所図会』には日暮里の説明としてこうあります。
感応寺裏門あたりより道灌山を界とす。この辺の寺院の庭中、奇石を畳んで仮山を設け、四時草木花絶えず、つねに遊観に供ふ。なかんずくニ月の半ばよりは酒亭・茶店の床几所せく、貴賎袖をつどへて春の日の永きを覚えぬも、この里の名にしおへるものならん。
何しろ多くの江戸っ子はそれほどお金を持っていませんでしたから、自然の楽しむ行楽というのがレジャーの中心で、『江戸名所花暦』なんてガイド本を持ってほうぼうに出かけていました。それで一句ひねったりと。寺の方も参拝客が増えるのは願ったりなわけですから更に作庭がエスカレート、評判になったそれを見ようとますます人が集まり、そしてその集まってきた行楽客を相手に商売を始めようという人間が出てくるのも不思議じゃないわけです。
ということで、いよいよ芋坂跨道橋を渡って羽二重団子へ向かいましょう。跨道橋の途中になにやらしゃがんでいる人が居ますが、近づいて行ったら上野方面から来る電車を見ている親子でした。ただ、子供の方は女の子で、どうもお父さんが趣味全開でそれに付き合わされているようで、ちょっと憮然としていました。
何しろ下の景色がこんなんですから分からなくは無いんですがね。
この跨道橋、片方は階段になっているため自転車で来ると大変なことになります。一度やらかして上りだったため結構辛かったです。でも、ここを生活道路に使ってるオバちゃんとかが、普通に押していたりして、慣れって凄いと思ってしまったり。
階段を降りたところが元の芋坂になるわけですが、奥の羽二重団子(男性が横に立っている建物)まで微妙に坂が続いているのが分かります。基本的な位置関係は江戸の頃から全く変わっていないんですね。
と、坂を降りちゃうと店に到着ってわけなんですが、ここは真っ直ぐに通り過ぎる形で道を渡って善性寺へ。実はこの善性寺、彰義隊の屯所が置かれていた場所でもありました。ということで、もう店は目の前で焦ることは無いので、ちょっと寄り道をします。
この寺の前には音無川という用水路が流れていたと紹介しましたが、この寺の入口にはしっかりと川に掛かっていた石橋が残っています。よく見てみると「将軍橋」と彫られています。この善性寺、寛文4年(1664年)に六代将軍徳川家宣の生母長昌院がこの寺に葬られ、さらに弟の松平清武がここに隠棲したことから、何度か御成があったようなんですね。それで「将軍橋」と。思いっきり徳川家ゆかりの寺というわけです。それもあって、彰義隊が屯所を置いたというわけなんですな。芋坂から逃げてきた隊士が多くここに逃げ込んできたようで、ここで力尽きた隊士の墓もありますので、時間の余裕を持って羽二重団子に来た方は覗いてみると良いでしょう。
安土桃山時代の作という妙にアクが強い「不二大黒天像」なんかもありますので。
ようやく、羽二重団子の前までやって来ました。このお店の歴史はやはり日暮里の歴史と密着していて、文政2年(1819年)に店を開いた初代の澤野庄五郎って人は植木職人だったそうなんです。この辺り一帯の寺が造園に力を入れたことはすでにふれましたが、元々江戸市中への園芸の供給地であったところに行楽地になったので、日暮里には植木屋がやたらとたくさん居たようなんですね。江戸期の地図に「植木屋多シ」なんて書かれるくらい。庄五郎もその中の一人だったわけですが、自分の手入れした庭園を見に来る大勢の人達を見て何か思う所があったのか、副業としてその行楽客と王子街道の往来の人々を相手にする「藤の木茶屋」という掛茶屋を始めたというわけなんです。
この辺、きっちりと分かる資料は無いかなと江戸期の地図を漁っていたらありました。“芋坂”ってのもしっかりと書かれているんですが、現在羽二重団子がある場所が“植木屋”となっていますね(赤い矢印の先)。この地図はちょうど文久2年辺りまでの様子を書いたものらしいので、庄五郎は元から全く同じ場所で植木屋を営んでいたとみていいでしょう。「藤の木茶屋」という屋号は藤棚があったことから来ているそうで、そういう自慢の庭を見せつつお茶や田舎団子(街道をゆく旅人の為に菜飯などの簡単な食事も)を供するお店であったようです。チョイと経ってから近所に酒を飲む場所が無いってんで、酒とツマミも出すようになったり。
こうして開業した「藤の木茶屋」なんですが、実は現在の形の団子を作り出したのは三代目庄五郎。もう江戸も終わりの頃らしく、開業してすぐってわけじゃないんですね。この三代目庄五郎がキメが細かい団子が評判となり、誰言うとなく「羽二重団子」呼ぶようになり、そのままそれが菓子名、そして屋号に、という流れは店の入口の由来書にもあるので、ご存知かと思います。
では店に入りましょう。店に入ると右手にお持ち帰りの売店、左手に何やら歴史資料が置かれているのですが、まずは団子を食わねば話になりませんので、店員さんにどうぞと薦められるままに奥のテーブル席の方へ向かいます。
上手い場所に座ることができれば風情のある庭を独り占めするように見ながら食べることができるのできます。自慢の庭を見せつつ、という部分は変わっていないわけですね。前の善照寺で大きなお葬式があった場合や、老人会のお散歩集団なんかと当たってしまうと大変な混み具合だったりするのですが、日曜でも早い時間だったからか、客は他に一組しかいませんでした。
席に落ち着いた所で注文となるわけですが、ほとんどの人が注文するメニューは大きく二つ。煎茶と四ツ刺し団子あん焼各1本セット(525円)と抹茶と二ツ刺し団子あん焼各1本セット。今回写真に収めるため初めて抹茶セットをたのんでみたのですが、やはりちょっと物足りなかったので、ここは四ツ刺しをオススメしたいですね。両方の写真がありますが、四ツ刺しの方は以前来た時に撮ったものです。
現在、串団子は四ツ刺しってのが一番多いんですが、江戸の中頃までは五文で分かりやすく買える五ツ刺しが一般的だったんだそうです。が、明和5年(1768年)に裏に波形の紋様がある四文相当の波銭ってのが発行されて混乱するやら誤魔化されるやらでややこしいので少ない方の四ツ刺しが多くなったんだそうです。
くぬぎの消し炭(通常の炭では火力が強すぎるため)で二度の付け焼きをするという生醤油の焼団子にしろ、北海道産の小豆を何度も餡ざらしを繰り返してアクを抜いた餡団子にしろ、どちらも味を押さえた上品なといっていい塩梅なわけですが、そのお陰でそれぞれの良さを引き立てるように、甘さと芳ばしさを両方楽しむことができます。評判であるところの団子のシコシコ感はもちろん素晴らしいんですが、原料の粉は(主に)庄内産のうるち米を自家製粉(通常の二倍丁寧に挽くらしい)してから寒ざらしをしたもので、焼団子と餡団子でわざわざ練る時の水の分量を替えているんだそうです(焼団子の方が固め)。
この団子を食べていると、毎度のこと脊椎カリエスで仰臥しながらこの団子を大食らいした子規のことを考えてしまうんですが、食べながらテーブルの脇を見ると何やらあるので手にとって見ると「正岡子規 漫録セット」なんてメニューが新しくありました。餡団子3本に焼団子1本ってこれ日記『仰臥漫録』そのまんまですね。
間食
芋坂団子を買来ラシム(コレニ付悶着アリ)
アン付三本 焼一本を食フ
(『仰臥漫録』明治34年9月4日ノ項)
“悶着”というのは寝たきりなのに毎日過食し過ぎて吐き気・腹痛で苦しんでいるのに、また団子を買ってこいという子規に対して面倒を見ている妹の律子が流石に怒ったらしいんですが、動けない子規からすると欲求の向ける場所がそこしかないという心情も理解できたりするので、何か読んでいて微妙な気分になるくだりです。それをメニューにってのは中々際どいところを突いて来ますね。どうも、子規は四代目庄五郎と親しかったようで、紀行文『道灌山』には以下のような文章もあります。
ここに石橋ありて、芋坂団子の店あり。繁昌いつに変らず、店の内には十人ばかり腰掛けて食い居り、店の外には女三人佇みて、団子の出来るのを待つ。根岸に琴のならぬ日ありとも、此の店に人の待たぬ時はあらじ。
子規門下の双璧と謳われ同じく根岸在住だった河東碧梧桐は『子規の回想』という本の中で「我々が日本ほど頂戴する間に、主人(子規のこと)はもう空の串を三四本も並べていた。(中略)団子を見るよりも、空の串の揃った方に、常時が余計追想される。」とちょっと泣けることを書いていたりします。
もう一つ「岡倉天心 陶然セット」なんてのもありました。馬で来たまま焼団子で酒を飲み続け、馬だけ先に帰って来たっていう息子の回想本からのセットのようです。馬で来たといえば、ここには森鴎外も馬で団子を食いに来たそうです。馬で団子。流石、樋口一葉女史の貧乏葬式に馬で出ようとして断られただけはあります。というか、どっちのメニューもちょっと微妙と言うか、何と言うか。普通の食った方が良いですね。
とか言っている内に食べ終わってしまったので、店を出ましょうか~と、その前に精算しつつ店の入口付近に置いてある歴史資料の写真を撮って良いかお願いをして(毎回お願いしても特に問題は無いんですが一応)、そちらへと向かいます。そこに彰義隊に関するものやら、何やらがいっぱい有るんですよ。
まずは上の写真。真ん中にある玉はどうも新政府軍が撃った円形砲弾(焼玉)らしいんですな。アームストロング砲や四斤山砲は椎の実弾なんで、それ以前の旧式のカノン砲か何かでしょうか。上野戦争に(新政府側として)参加したのは薩長だけじゃないですからね。この砲弾は裏の畑から掘り出されたんだそうです。
そして、奥の方をよく見ていると長い槍が吊られています。これは彰義隊が敗走時に店に闖入、刀や槍を縁の下に投げ込んで、そこらのあった野良着で変装して北へ逃れて行ったとのことで、それでこういうものが残っていると。客としてよく来ていただろう江戸っ子侍は勝手知ったるだったんでしょう。
その時に店のもの、というか当時の主人・三代目庄五郎はどうしていたかといいますと、参加しちゃったのか徴用されたのかは知りませんが、戦争が始まった時はなんと上野の山に居たんだそうです。しかし、本郷台の方から撃ち込まれるアームストロング砲の威力にびっくりして逃げ帰り、家族と商売道具の蒸籠を持って尾久村の方に避難していたんだそうです。江戸の町人の大体は彰義隊びいきだったと言いますが、多分こういう形というか勢いで“参加”していた人は多いんでしょうね。でも、とっとと逃げると。
そしてカウンター側にはこれまでの羽二重団子の店舗の絵図、写真が並べられています。
一番右にあるのが江戸から明治22年までの彰義隊が闖入したりした創業期の店舗。これを見ると始めの頃は芋坂側に入口があったというのが分かります。そして現在の道路側(入口側)にすぐ音無川があり、将軍橋は現在の善性寺門前すぐではなく、羽二重団子の横にあったというのも分かるかと思います。位置関係は江戸の地図そのまんまですね。この絵、今回初めてちゃんと見てみたんですが、「根岸八景(芋坂の晩鐘)」というタイトルがキチンとあって、作者を見たら伊藤晴雨でした。挿絵画家というよりも責め絵の方で有名な人ですね。
店内の方にこの頃の店舗の絵が別にあるんですが、やはり入口は芋坂側です。団子を焼く屋台もあったようですね。音無川の向こう、王子街道を歩いている人達も見えます。
真ん中は明治22年から昭和7年までの店舗。子規に漱石、鴎外等々、多くの文学者が通っていたのはこの建物の頃でしょう。前の店舗同様、右奥が開放されていて庭が見えるようになっているのが分かります。そして、端っこにはやはり将軍橋らしきものが見えますね。
そして、昭和7年にこの辺の音無川が暗渠になっての道路改正と同時に改築しての店舗(昭和46年まで)。この頃には音無川はドブ川となってニオイが酷かったそうですから、店的にはずいぶん助かったんでしょう。この時に現在の入口が出来るわけですけど、芋坂側の入口もそのまんま残っていたんですね。小津安二郎なんかが来たのはこの頃でしょう。これを壊したのはもったいないなぁと思っていたら、やはり常連にそういう声が多かったらしく、芋坂側の入口を残す形で半分だけビル化して、その後に芋坂側もビル化という手順を踏んだんだそうです。まぁ、古い建物を大事にするといっても火災には弱いですからねえ。難しい所です。神田薮そば、燃えちゃいましたし。
と、他にも田山花袋の書や久保田万太郎の色紙など文学関連の歴史物があるんですが、あくまで彰義隊がメインで、そっちは添え物ということで(子規については結構ふれましたし)今回は割愛します。この辺は紹介しているところがいっぱいあるでしょうしね。まぁ、根岸文学ネタは別途やるのも面白いかなと思っていたりします。
外に出て振り返ると建物の角には「王子街道」の石柱が建っています。そして、芋坂側には子規の石碑が。上で紹介した句以外にもいくつか羽二重団子の句を読んでるという辺りで、店側も子規の貢献が大きいと理解しているようで何よりです。
というわけで「羽二重団子」、それなりに他で取り上げないような部分も掘り下げられたんじゃないかと思いますが、どうでしょうか。そこから何となく解ったのは、江戸っ子からするとここの団子は“郊外”を感じさせてくれるけど、味と歯ごたえ共に田舎風ではない洗練されているところが命、ということで、文人達に好かれたのもその辺りなんだろうということ、ですかね。すでに店はビル化してはいるのですが、こんな感じで江戸の“行楽地”の店としての風情と風格はしっかりと残っていますので、混まない時期を見計らってゆっくりと来店することをオススメします。
羽二重団子(本店)
東京都荒川区東日暮里5-54-3
電話:03-3891-2924
定休日:不定休
営業時間:9:00~17:00(日曜営業)
最寄り駅:JR「日暮里」駅
東京都荒川区東日暮里5丁目54−3
さて、以下は余録ですのでお暇な方はお付き合いください。しっかり腹も膨れた所で旧王子街道を下る形で日暮里駅へと向かいます。どこへ行くのかというと、彰義隊の墓から始まった話ですので、最後も同じく彰義隊の墓で納めようと、もう一つの墓がある南千住の円通寺にと詣でようというわけです。
何で墓が二つあるのとお思いの方も居ると思いますので説明しますと、上野戦争後、亡くなった彰義隊士の骸はそのまま放置されていたそうで(266体あったらしい)、そろそろ暑い季節といった時期でもあったので、上野の山はニオイやら何やら惨状極まった状態だったようです。それに心を痛め、無くなった隊士の霊を慰めようと読経して回ったのが当時の円通寺住職・仏磨和尚。その時に同じく憤りつつ山を回ってた彰義隊びいきの任侠の人・三河屋幸三郎(元は神田旅籠町の飾り職人)と出会い、二人は相談の上、大総督府に弔いを願い出ます。
無事に許可が下り、幸三郎は手下の若い衆を率いて一度清水観音堂近くに埋葬。その後火葬許可も出たので、山王台(西郷像がある高台)の塵溜めの穴を使って荼毘に付し(この場所が上野の彰義隊の墓)、仏磨はその一部を自分の寺に持ち帰り埋葬した、ということで二つ墓があるんだそうです。
日暮里駅から常磐線で南千住まで行き、日光街道までやや歩くと円通寺に到着します。まず驚くのはその本堂の異様さというかキッチュな造りです。どこぞの新興宗教みたいなことになってますが、円通寺は伝統ある曹洞宗のお寺です。なんでこんなことになっちゃったんでしょうか。
なお、上野の初めの墓の方が借金で持っていかれた後、再建に手を差し伸べたのは白山大乗寺だそうで、そちらは日蓮宗と、寛永寺絡みで何故天台宗が出てこないんだろうなんて考えたりもしますが、輪王寺宮脱出に手を貸していたので謹慎中ってことでしょう(匿った合羽橋の東光院住職は新政府からの圧力で還俗させられている)。
つい、本堂の方に目が行ってしまったんですが、本来最初に目に入ってくるのは上野から移築された黒門です。これも何でここに?という話だと思います。なんでも戦争の後、公園を作るというので邪魔になり上野東照宮へ移動。しかし、そのまま手入れもせず置きっぱなしだったので腐食がひどくなり、明治40年(1907年)に捨てる捨てないの話になった時、ゆかりがあるということで円通寺が引き取ったんだそうです。ひっくるめて黒門と呼んでいますが、本来“黒門”なのは左側だけで、右側は将軍が通るための“御成門”です。
実際見ると腐敗していたわりには随分しっかりとしているんじゃないかとお思いでしょうが、実はこの黒門、昭和61年(1986年)に解体修理され、色まで塗りなおされているんです。歴史家なんかには評判悪かったようですが、木だから腐っちゃいますしねえ。しかし、近づいて見ると弾痕はあちらこちらにそのまま残っています。
黒門が実際どのようにあったかというのが上の写真です。右の御成門は普段閉じているのが分かりますね。谷状になっている所に設置してあるので確かに土嚢のようなものを積んでしっかり守れば攻めるのは難しそうですが、新政府側の主導(いきなり山を囲んだ)で彰義隊側にはほとんどそういう準備が出来なかったようですから、激戦とはいえ半日で落ちちゃったというのはしょうがないと言えますかね。
黒門奥になにやら墓には見えない石碑のようなものがいっぱい並んでいるので、廻りこんでみると、有るわ有るわ旧幕臣と元彰義隊、そして関係者の石碑が。榎本武揚、大鳥圭介、永井尚志、松平太郎、高松凌雲、丸毛靭負(彰義隊組頭)、上原仙之助(同じく組頭)、等々紹介しきれないくらい大量に。新門辰五郎なんてのもあったりして(娘のことなど説明は要らないかと思いますが、三河屋幸三郎の遺体収容等にも協力してます)。
また、彰義隊に参加した後に吉原で幇間(太鼓持ち)として生きた松廼家露八も遺言でここに葬られています。
それにしても、ちょっとはまとめて大きな石碑でも建てられなかったのかって考えちゃいますが、それが出来なかったから負けたとも言えるんでしょうね。しかし、これだけ個々に建てられているのを見ると、福沢諭吉の「瘠我慢の説」じゃないですが、ちょっと生き延びたことに後ろめたい気持ちでもあったのかと。勝海舟のが無いのはしょうがないとして(彰義隊に斬られそうになってますし)。
彰義隊士の墓はそれらを眺めるように建っています。無名というのが当時の扱いが良く分かる辺りです。明治時代前半に大っぴらに賊軍の法要ができる当時唯一の寺がここだったわけですが、現在も花は絶えないようで安心しました。
その隣りには三河屋幸三郎が向島の別邸で供養していたとう「死節之墓」も移されています。この墓は彰義隊だけでなく戊辰戦争で亡くなった旧幕府関係者全体を弔うもので、左右と裏側の面には名前がびっちりと彫られています。有名なところでは土方歳三、甲賀源吉、中島三郎助、伊庭八郎など。それにしても、最も丁重に弔っていたのが任侠の人間だったというのは面白いあたりですね。
この黒門裏の敷地には最終段階での彰義隊“首魁”で、戦争後に捕らえられて獄死した天野八郎の墓もあります。この人も筋目の侍ではなく、農民出身なんですよね。その人が徹底抗戦の方向に引っ張っていったというのは日向子女史の言う「江戸の風俗万般が葬り去られる瞬間」と共に消えていった彰義隊を考える上で押さえなきゃいけないところかと思います。墓は本当に端っこの方に隠れるようにしてありますので、是非円通寺に来た時にご自分で確認してみてください。なお、隣りには榎本武揚が題字を書いたという碑も建っています。やっぱり、福沢諭吉に言われたこと気にしていたんでしょうね。気にしなきゃ良いのに。
たっぷり墓を見てどよんとした気分になったら、入口に片付けられたように置かれているアフロ入ったような狛犬を見て帰ると良いでしょう。何か藤子Fキャラ風でもあるんですが。
さて、こんなところなんですが、帰ってから確認のためもあり、もう一度日向子女史の『合葬』をパラパラとめくってみたのですが、あとがきに以下のようにありました。
藤村が「夜明け前」を著したように、近世つまり江戸は<暗黒の時代>のように思われがちです。芳賀徹氏はこれに対し、近世が日曜日であり、近代=明治維新は<月曜日の夜明け>だとたとえています。私はこの言い方がとても好きです。
なるほど、毎日が日曜日な気分で過ごせればと思っている自分が江戸に惹かれるのは、そういった部分がなんでしょう。実際、今回彰義隊を道連れに羽二重団子やらを巡ったのは実際日曜日だったのですが、読んでいただいた方が、諸々なものと共に、いやオマケで良いのでそういう日曜日な気分も感じることが出来ましたら幸いです。
調子に乗って三番勝負にしちゃったので、後二回ありますです。はい。
次回の「東京スカイツリーライン・向島 言問団子 江戸東京団子三番勝負 地の巻」をみる。
追記(2013年6月30日)
筑摩書房の古い図鑑に修理前の黒門の写真を見つけました。というか、一部はほとんど新しいのと取り替えているんですね。そりゃ批判もあるでしょうね。