品川以南、いわゆる城南と呼ばれる辺りは埼玉出身の自分からすると何やら距離のある場所である“距離”ってのは実際のだけじゃなく、気分的なものも含めて。
まぁ、品川までが江戸の境界線である墨引(町奉行支配)内なんで、そこから外になると東京(江戸)の歴史案内本なんかでもすっ飛ばされている場合が多いんだよね。
そういった取っ掛かりの無さもあり、これまでちょこちょこと訪れて入るのだが、それはあくまで“点”であって、“面”として捉えてことはなかったし、正直そういった捉え方でどうしようっ気も起こらなかったんですな。
そういった気分がじんわりと変わったのはCUE氏から「アノ辺りは“東京”の人間が堕ちていく場所なんだ」という話を聞いてからである。
最近自分は東京住まいから出身地である埼玉に戻ったのだが、それは東京に住み続けること、東京という場所に身を置くことでの己のメンタリティの変化の無さをシッカリと確認してしまったからでもあった。埼玉だったというのはタマタマである。
率直なトコロ、地方出身者が東京に出てくることで生じるデビュー的な心象変化とそれへの執着、あるいは東京出身者が生来持つ都市文化への屈託の無さとそこから来る余所者への無神経といったものを自分は獲得し得ないってことにやや失望しちゃったって面もあったのだ。
どうも、思春期以降に内面のインナースペースを強化することばかりにかまけていた結果、そこがテフロンだかダイヤモンドコーティングみたいなものがされてしまったらしく、環境みたいなものから来るインパクトってのがほぼ無いという、正直何処に住んでも変わらん人間なのだなというのがハッキリしてしまったというか。ここでも、イロイロ扱ってはいるが基本“ネタ”として、というか。どうも“プレーヤー”じゃなかったんだな。外側から眺めていたという。
というのもあり、東京に住み続けなきゃいけない、また逆に東京との相対性の中でしか地方に住めない(地方移住者に多いよね)みたいな心情がイマイチ分からんのである(当然だが経済的にとかいうのは十二分に分かってる)。
彼らはそれにコダワルことで“堕ちていった”わけだが、今回は品川から旧東海道を南へとフラフラと歩いて行くわけだが、“堕ちていく”現場を見ることでアカラサマにしようってのが目的なのである。
毎度おなじみ、行けば分かるさ~である。
と、その時間が出来たのは去年の夏の終わり(すいません、随分前なのだ)。イイカゲン涼しいだろうと思ったらおもいっきりの夏日であった。当日は休暇を取っていたので、通勤する人々と逆方向へザマミロ感を出しつつの品川駅到着である。
現在の品川駅は記憶にあるソレというか、その頃の面影が全くなく、なんだか機械の身体を貰いに行く駅のような有り様となってしまったため、どうもこの駅に来ると妙にメローな気分になる。どうやってもネジになる側だなという。
まぁJRの特にターミナルとなる駅はどこもそういった方向で改造されてまくているわけだが、そういった駅にはゴチャッとした部分があるのがデフォルトで育ったので落ち着かないのだ。実際かつお節くっさい立ち食いそば屋とか絶滅の危機にあるよな。
外へと出ると左手には昔ながらの駅前が広がっているんだけど(この辺りの居酒屋には何れ潜入したい)~
右手に目をやると、松本零士的ナニコレ近未来風景が広がっているのだ。
操車場跡地ナンカを中心にして出来た品川インターシティ・グランドコモンズである。オフィス、ショッピング、賃貸・分譲マンションがお団子になった複合ビル群なわけだが、マルーン5『Makes Me Wonder』のPVみたいにスカシつつヨコチンしているような底の浅さがある奇妙な風景が連続して存在している。
なんだろうこの身についていない感。しかもマルーン5のようにコイツラ笑っちゃってもイイんじゃね、という雰囲気は無く、ひたすら生真面目にスカしているのである。ヨコチンしながら歩きタバコを叱っている正義の中年リーマンようなネジ飛んでる風味に溢れているのだ。
うーむ、と考えつつ歩いて行くと裏側(東側)のテラスに出てしまった。先に見えるペカペカしていないややホッとする建物群は東京都中央卸売市場食肉市場である。駐車場で白衣にマスク、手袋と中で働く人たちが作業をしているのが見える。スカした風景の裏で牛や豚を解体しているってのは、 ナニカ陰影が際立ちまくりで面白い。
しかし、このエッジの効いたコントラストには面白いだけでは片付けられない隠れた部分があったりする。この食肉市場は紆余曲折の上、というかハッキリ言うと“差別”的な事情によって戦前ココらに何もなかった頃に移転してきたのだが(この辺りの事情は公式のアレコレにクドイほど書かれている)、どうも新規の“住人”達より手を汚さないカタチでの移転要求みたいな声が小さく聞こえなくもないらしいんである。
と、なんだかグリム童話並に分かりやすい話が出てきたわけなんだが~ここで、この湾岸と呼ばれる海沿い、そして下町と呼ばれていた低地にマリオの豆の木よろしくニョッキリニョキニョキに増えてきたタワーマンションという問題にケリをつけておこうと思う。話ぶった切っちゃうけど、まぁ今回の話に関係ありまくりだし、正直今後も街歩きしていて見えないものとしておくわけには行かないんでね。チト長くなるかもしれないが、お付き合い願おう。
で、どう切り込むかなんだけど、それにはまず我々の“土地”に対してのイマジネーションというか、どんなそれに価値を見出してきたのかっていう流れから押えて行くことで、どうにかしようと思う。
うんと遡ってその辺りを探って手を伸ばしてみると“豊葦原千五百秋瑞穂国”という古い日本の美称がある。葦がズンドコ生えていて、そこに何時迄も稲穂が実っている国っていう意味なんだけど、まぁハッキリ言えば低湿地地帯だ。こういった米が取れやすい、豊富な水を灌漑出来る土地ってのが古代~近代化するまでの最も価値のある土地だったわけだね。
日本を表す言葉として“大和”って言葉もあるけど、これは元々は“山門”、もしくは“山間処”という山の間に米が作れる低湿地がある場所を意味する言葉だったなんてことを折口信夫なんかが書いている。
古代の首都だった飛鳥ナンカに行くと何でこんな辺鄙な端っこにって思っちゃうけど、山の間の低湿地そのまんまで、要するに大したことしなくても田んぼが作れるような場所だったっつーのがあるんだよね。そういった場所で大和朝廷っていう権力が産まれたわけだ。
こういった土地を神聖視するような価値観は最近まで我々が共有して持っていたもので、戦後の高度成長期を支えた技術者筆頭とも言ってイイ本田宗一郎が、部下から上がってきた農地(田んぼ)とオモイッキリかぶっている鈴鹿サーキット場コース案を見た時に
「お前ら、(神聖な)田んぼを潰すつもりかあああああああ!」
と激怒した話は有名なので知っている人も多いかと思う(結局コースは変更されて作られた)。
“米”の話が未だに単なる農作物の話じゃ済まないってのは、我々の中にそういった価値観が多かれ少なかれチビっと残ってるってのが原因だったりするんだよね。日本の原風景でもあるという、ね。
そういった価値観がズンドコ収縮していったのは、これまた非常に分かりやすい話だが、我々の西欧化が大きく影響している。どこで?となれば当然のように明治維新、そして(太平洋戦争の)敗戦である。
日本で低湿地が価値があるということは、逆に水の手が不便な高台の土地は無価値とされてきたわけなんだけど、西欧では逆にそういった場所こそがサンサンと日が当り小麦が豊かに実り家畜が肥える草が生えるといった原風景的なイメージがあるんだな。
こういった方向に逆転が起こって行くと。価値を高めたいビル(住宅地なんかもそうだ)なんかに“ヒルズ”とか“ナントカヶ丘”みたいな高台をイメージさせるネーミングをするのは、こういったイメージの逆転が大きく作用している。コンプレックスとないまぜとなった憧憬も含めてね。
これは「階級」にも大きく作用していく。江戸の頃から山の手と下町という区分は確かにあったんだけど、“武士”と“町人”という階級の住区分というよりも、単に利便のイイ川・運河沿いの低地(神田とか)には商業活動のために町人を、といったあくまで都合上のもので、土地の高低にそれほど意味はなかったんだな。せんでも固定化された階級がしっかりとあるわけだから。
こういったキチンとした階級制度の特徴は役割区分がキッチリとしているといった辺りで、武士は(表面的には)形而上的な文化で生活を律し、町人たちは逆に生活の中から“芸”という文化を紡いでいくという、お互いが牽制しつつも、町人が歌舞伎で忠臣蔵を楽しみ、武士が余技として芸事を嗜むといった、ラッパーのディスり合いのような~それぞれのバックボーンへのリスペクトも交えつつみたいな関係性があったわけだ。
それが明治維新でワヤになるわけだが、(西欧のノブレス・オブリージュを加味して)武士と入れ替わるカタチで成立した華族制度はともかく、商業あるいは学問で“立身出世”して新しく山の手の住人となっていた人々には当然のように文化的バックボーンのような“根拠”は無いわけで(『吾輩は猫である』の金田のごとく)、その代替物となったのは西欧的な土地への価値観~それを元にした土地の高低(のイメージ)での区分だったのだろうと思う。そして、コレといった根拠が無いゆえに“外部”が必要となるわけだな。
こうして、明治以降に東京の低い土地に野蛮・不潔といったイメージが付加されていくようになるのである。これは足立区ディスのようなものに継承されている。
そして、それまで土地としてはせいぜい畑作程度しか出来なくて、以前なら無価値に近かった“武蔵野台地”が開発されていくことになるのだ。川崎・横浜の北の方を含むカタチで(江戸期は武蔵国の領域)。まぁ全て丘陵地帯で風景としての田んぼがほぼ無いエリアなんだよね。
これは敗戦によって更に加速・強化される。“山の手”の上に乗っかった進駐軍は前庭に芝生が植え込まれたアメリカンな郊外型住宅を持ち込んで、分かりやすいトコロで言うと田園都市線沿線のようなパッケージ化された住宅開発の元イメージとなるのである。
そして、彼らによって華族制度もお取り潰しとなったので、変な話“意識が高ければ”上部構造に誰でも食い込めるようになってしまったのだ。アメリカ型のハイアンドロー(黒澤明『天国と地獄』の欧米版タイトルでもある)な世界の到来である。
しかし、そこにはアメリカンドリームというものはもちろん、喜捨やパトロンのような文化は導入されなかったので、ただ“上昇志向”のみに修練していく荒野が広がってしまう。戦後のミッチー(現皇后陛下)ブームというのは、それの分かりやすいカタチでの標準化だな。やや西欧(至上)コンプレックスを抱えつつ、よー分からんけどとりあえず“上へ”という行動律が本能のように刷り込まれていく。それが良きことなり、と。
こういった“高さ(上へ)への希求”を基準とするものの考え方は当然のように戦後カルチャーにも大きく影響している。若者文化を象徴する街が銀座から新宿へ、さらに渋谷・原宿へってのはサクッと見ても“山の手”へって流れが分かりやすいんだが(特にぶら下がってる沿線)、高度成長期から高度消費社会への移行を象徴する西武セゾングループの開発が、池袋で失敗して渋谷で花開いたのは、後者が“高低”ハッキリとした街だからで、原宿なんかは分かりやすく進駐軍が駐屯(現在のNHKから代々木公園)し、さらに明治神宮のような皇室を意識させるようなイメージが重層になっている街だからでもある。
こうした“山の手”的思考(嗜好でもある)が一般化すれば、逆の下町の文化はそれに覆われて弱くなっていくわけで、東京の土着的な文化はズルズルと後退していくことになる。
この中学生の性衝動並にとりあえずおっ立てる上昇志向(実際は“まがい”なんだけど)が東京の西側をフロンティアとしていたのはそちらに“高さ”があったからだが、逆に言えば“高さ”が無いゆえに低地である東京の東、そして湾岸には進出出来なかった。
それを解決したのがタワーマンションなのである。人工的な高さによってめんどくせえ上昇志向はそのままに低地への進出が可能になったのだ。バブル期に登場した脇毛AV女優・黒木香が「米軍基地は日本に挿し込まれたアメリカの陰茎だと思いますの」なんてことを発言して夢枕獏が天才だ!なんてことを書いていたけど、タワーマンションは“下町”に挿し込まれた“山の手”の陰茎なのである。チンポだよ、チンポ。
こうして最終的に“山の手”的なものは旧来の日本的なものから切り離されていった末にチンポ型タワーマンションへと至ったわけなんだが、問題として明治維新、そして敗戦を経てどんどんと文化的バックボーンが無くなり、ペッラペラになっていったというのがある。“根拠”が湯捨て前にソース入れちゃったペヤングみたいなもんなんである。
無いとなれば自分たちがキラキラ出来るような“外部”が必要だ。こうして発見されたのが“オタク”であり“ヤンキー”なのだろうと思う。「マイルドヤンキー」って言葉が広告代理店の人間によって創造されたってのは象徴的なんだけど、ヤンキー側はテメエが何者かなんてのはどうでもよくて、“山の手”的なものを支える(というか彼らが山の手)立場である広告代理店がそれを必要としたってことなんだよね。同じようなことは80年代の高度消費社会の入り口で“新東京人”によるダサイタマ、チバラギの発見ってのがあったんだけど。
社会学者方面がやたらと“オタク”をイジろうとするのも同じ文脈だろうな。彼らは自分たちはオピニオンな立場でなんて言ってるけど、実は山の手的思考ズブズブ(というか実際そっちの出自、または落ち着いた人間が多い)で“外部“が必要なんだよね。日本では革新を名乗ったり、アウトローを気取ったヤツのほうが裕福で現状維持派(杉並区的な)に見えるっていうアレだな。まぁ震災以降、彼らがオピニオンでもなんでもなく、ただの大衆で消費者にすぎないってのはもうハッキリしちゃったわけで。
そういった意味では、彼らが寄って立つところのサブカルチャーてのはカウンターカルチャーでもなんでもなく(ハイカルチャーでもないのが無惨なんだが)、そこから離れた場所で生まれ育った“オタク”や“ヤンキー”が本当のカウンターカルチャーなんじゃねっていう。
要するにタワーマンションってのは“意識が高い”って言葉に置き換えることができる山の手チンポ衝動のみを行動律としている人々を上部構造に抱えてオレたちどうすんだよっていう話なんだよね。おっ立てて何をするじゃなく、おっ立てることが目的化して、自己実現でもある人々。(世間的な意味で)決してバカではないし、一応の理論武装も偽装も出来るし、社会的に影響もそれなりにあるってのが面倒くさいんだが。
「支配」はもちろん「教導」も出来ない奴らが上に乗っかった階級ってなんなのっていうのが“オタク”にも“ヤンキー”にもバレてるんだよね。だったらまだ“人間的”なそっち方がましっていう。バックボーンもそれなりにあるしね。文化的な“貧困”の問題なんだな。オタク、ヤンキープギャーってお前らがプギャーじゃっていう。なんだか先の方にソイレント・グリーン的なキモさが横たわってるのも含めて。
じゃあどうすんだって辺りで、彼らを逆に“発見”してやればイイんじゃねってことで、イロイロ名称を考えたけど精々「湾岸チンポ族」みたいなのしか出てこなくて、俺全然そういうセンス無いのな。スターボーの「ハートブレイク太陽族」かよ。
まぁ、個人的にはディストピア的なバットテイストとしては十分に成り立っていると思っているので、そういった視点からの健全なる階級的憎悪ってのを盛り上げて行くべきなのかなぁといった辺りを思ったり、思わなかったり。正直ネタ以上には関わりたくないというか、興味がイマイチ向かないんだよな。深みが無いというか。
そういったトコロを押えてタワーマンションを見ると、映画『マトリックス』に出てきた培養槽塔に見えなくもない。彼らが食肉市場を追い出そうって流れは必然だろう。そういうのから自らを区分することがアイデンティティで自己実現なわけだから。
そういう意味でここらが今後どのように“無菌化”されていくのかってのは、ウォッチしていく上での押えどころだろうと思う。随分先になるけど、果たしてこういうの全部ひっくるめて建物として“更新”出来んのかっつー話も出てくるだろうし。
そういや最近マスコミで妙に東京の東側に注目するような記事なんかをよく見るんだけど(錦糸町とか)、山の手チンポ衝動の新たな消費場所としてソッチがフロンティアになりつつあるってのは、多分オリンピックとも絡む話なんだろうけど、その辺も観察していったほうがイイんだろうな。
といったところでイイカゲン元に戻すが(実はもう一視点あんだけどいずれ)、このチンポータウン(唄:EPO)から東海道の第一宿であるところの旧品川宿へと向かおうとすると、お隣のタワーマンション群とは対照的な都営北品川アパートが見えてくる。
日本のこの手の集合住宅建築ってのはヨーロッパ直輸入ではなくソビエト(Commieblock)から満州を経由してやって来たもの(この辺、本職方面でも誤解があるようだ)なんだけど、共産圏の影よろしくモロにそんなようなくすんだ色調で何やら味がある。
一階が都バスの基地になってるってのもイカニモで、こういっては何だがチンポータウンの為の腐葉土といった感じでとてもイイ。失礼ながら機械化伯爵に狩られる側。でありながら、恐らく建てられた当時は最先端であったことが無くちゃこういうイイ味は出てこない。都心でしかも隣がアレで集合住宅や団地がピカピカしていた頃を、そして高度成長とソビエト的計画経済の類似を偲べるってトコロは結構珍しいんじゃないかな。
しかし、その辺を押さえて見ていくと、いまの住人層ってのがイマイチ読めない。江東区なんかじゃこういうトコロは限界集落になってるんだけど、どうもそうではなく、やはり“堕ちてきた”人ナンカが多いんだろうか。いずれは建て替えやらで消えていく風景なんだろうな。ここでは。
そのアパート横の坂を八ツ山橋交差点へと向かう形で登って行くと、京急の踏切があり、その先がかつての品川宿の北端にあたる場所である。
現在は街歩きの人間を呼び込むためか、旧跡の説明板などが増え、結構キレイに整備されている。自分と同じように東海道を歩きに来たと思われる中高年ペア、グループがチラホラと見える。
川島雄三『幕末太陽傳』の冒頭シークエンスはここってのは映画好きならご存知かと思う。もちろん、建物やらは更新されているが、大体のレイアウトは変わっていないので、物好きな人は見てから訪れるのが良いだろう。
確かその冒頭シーンの最後はカメラが街道の方にグッと寄っていく感じだったと思うんだけど、自分も同じようなカタチで街道へと入る。一旦渡った京急をもう一度戻るように、と。
なお、今回通常のベタな街道の歴史散歩的なものはテーマと違うんで、基本すっ飛ばすつもりなので始めにふれておくと、現在の街道筋には品川宿から戦前の遊郭というようなものはほぼ残っていない。ここにずっと花街が残っていたと思っている人も多いんだけど、実は昭和7年(1932年)に現在の海岸通りの方(当時は新たな埋立地)に移転しちゃってるんだよね。多分景観的な辺りでの芝浦の花街への対抗上だと思うんだけど。高杉晋作なんかが遊び、英国公使館の焼き討ち前に集まったという土蔵相模も今はコンビニである。占領下でのパンパン地帯だった頃のそれも、ほぼ無いかな。
で、渡るとイキナリ空き家があったりして。
歴史的なってことで整備はされているんだけど、どうも寂しさというか、生活感のようなものが薄い。店もそれなりに開いてはいるが、客はそんなに見ない。それなりに新陳代謝あるが旧来型の商店街としてはゾンビ状態といった感じ。というのにチェーン系の店はほぼ無い。コインパーキング、あるいは建て替え中物件多し。
しかし、この辺にボロボロとできているマンション住人を相手に~なのかオサレなお店もちょぼちょぼとあったりする。
木造の商店建築もかなり減ったね。しかし、やってイケてるんだろうか。かといって、歴史散歩ジジババを招き入れるといったウェルカムな雰囲気は微塵もない。この発酵感、嫌いじゃないけど、要するに現在更新中の通りなんだな。今後マンション住人相手の商店街(どっちか言うと飲食街かな)に静かに移行していくんだろうと思う。シャッター通りになるよりはよっぽどマシなんだろう。
なお、こういった状態は今に始まったわけではなく、昭和40年頃に出版された『東京風土図』に「今の町すじは、いなかくさい町並みで、とり残された町になっている。」なんてことを書かれてしまっている。むしろ、最近の状況は良くなってきたと言うべきなんだろう。今、その“いなかくさい”が残ってたら結構な観光資源になったんだろうけど。
ということで、風情としては間の路地の方がイイ。
路地の奥には江戸の切絵図にも出てくる寺がポコポコと残っている。
が、そういうトコロには南沙諸島に居座った中共並にドッカリと街歩きジジババが専有していてチットモゆっくりと見ることが出来ないんである。
こともあり、ますます路地にそれて行って、いい感じの煉瓦塀を発見したりして。
こうなりゃズレた次いでだ、と折角なので品川神社に詣ることにする。この辺りじゃ一番デカイ神社だし、以前勧進元の洲崎神社にも行っているんで、縁を作っとくのも悪くないだろうと。ちょっと押えておきたいモノもあるし。
品川神社は高輪の方からから伸びている台地(高輪台地と呼ばれ“高さ”の関係から古手の富裕層が多い)の端に位置し、以前書いたが源頼朝が当時の重要港である品川湊の守り神として、自分を運を開いてくれた洲崎神社の神様(天比理乃咩命)を勧進したものである。
その後も在豪に大事にされ、室町晩期には品川湊の傭兵隊長だった教養武将・太田道灌が武家の伝統よろしく非常に大切にした(つー辺り彼に“大望”があったんだろうと思う)って関係もあり、さらにそれが家康に引き継がれるカタチで大いに信仰され、明治に入ってからも東京鎮護のための東京十社に選ばれたりしている。まぁこの土地の最重要神社なわけだ。
ちなみに、太田道灌の館があったのは三菱開東閣(高輪岩崎邸)がある辺り。ここが江戸末期には外国公使館(高杉晋作が焼き討ちしようとしたヤツ)となり、維新後に成り上がりトップの一族が住まったってのは非常に面白い。現在、ここと品川神社の土地とは分断されているように見えるのは江戸期から明治にかけて、埋め立て(台場建設等)、鉄道設置等で散々削られたからである。隣にあった八ツ山という小山は橋や交差点の名前として残っているだけで消失している。
江戸期の切絵図を見ると、品川神社が向かっている先に猟師町(漁師町)という漁業専業者の集落がビローンと目黒川を守るように伸びているのが分かる。先の方が冽崎(洲崎)と呼ばれていたというのも面白い(洲崎公園の名で残っている)。単純に砂洲だからじゃなく、洲崎神社にもかかっているんじゃないかね。
ここは頼朝以前から武蔵の国の国府津だったと言われているんだけど、これほど重要だったのはこの砂洲で守られた淡水域があったからだろう。木造船は海に入りっぱなしだとフナクイムシにやられてしまうので、淡水に漬けて養生する必要があるのだ(砂洲が開発されるのは江戸期に入ってから)。で、すぐトナリに防御拠点になる高台もあると。
なお、この砂洲がどこにあったかは現在でも地図を見るとハッキリと分かる。赤で薄く色を付けたトコロがそうなんだけど、街道の一本東の道路がほぼ川筋だね。利田(かがた)神社(地図でのオレンジ円)というのが切絵図での弁財天。この神社には寛政の頃に漁師たちが捕らえた鯨を供養した鯨碑なんかがあったりする。
下の浮世絵が砂州の先っぽを広重が書いたものである。品川女子学院中等部辺りから眺めた感じか。運河がカギ状になっているトコロがかつての河口なんだね。
もう一つこの地には寄木神社(上の地図の緑円)というのがあるんだけど、これは日本武尊が御東征の折、荒海を鎮めるために入水した弟橘姫の船の破片が祀られたっていう由来がある神社で、源義家が奥州出兵のときに、この寄木明神に立ち寄り、戦勝祈願をして、さらに帰路に自分の兜を埋めたなんて伝承もあるらしい。どういうわけだが、戦いに明け暮れた人間たちと縁が深い土地でもあるのだ。
幕末にこの砂州の先っぽ海側(東側)に品川台場の端っことして御殿山下台場が出来ると(一つ前の地図で青で薄く色を付けたエリア)。とことんそういう場所なんだな。上の地図はそれがまだ残っている明治18年(1885年)頃のものである。
湾岸の埋立が始まる前なので、品川駅が海に囲まれた海上駅なのも分かると思う。上は当時の写真。なんかターナーっぽいね。
で、明治から大正になり台場が無用のもの(湾の入り口を要塞化)となったんで、その場所が民間に払い下げられ、周囲の埋立と共に、さっきふれたように三業地がやってくるというわけだ。
神社に話を戻すと、その参道の階段を登り切ると左手に富士塚がある。が、それは後回し。台地上なんだが境内は結構広い。
お約束の稲荷やらを含め参拝を済ますと、以前来た時にはスルーしていたモノを見ようと神社裏へと向かう。わざわざ見るもんでもなかったというか。
クソ狭い道を歩いて行った先の南面が開けた場所にソレがある。板垣退助と夫人の墓である。
場所の追いやられ感もそうだが、スペース的にもオモイッキリ整備されておらず、粗末に扱われているのが丸わかり。というか、高知県は何やったかよく分からん坂本龍馬を持ち上げるのと同じくらいこっちも大事にしてやれよ。実は押えておきたかったモノというのはコレなんである。
板垣退助がどんな人かって説明は要らないと思うが、晩年は土佐関係者からも孤立した関係もあり、かなりの貧乏をしており、死の床についてからご拝領の備前長船を杉山茂丸に売ろうとしてその困窮っぷりが明らかとなり、同輩だった元老連からの基金と宮中からのご下賜金でようやく葬式が出せたというような状況だったらしい。この墓もそれでようやく出来たもの。
元々品川神社は東海寺の広大な敷地内にあり、この一帯はその塔頭(寺内の末寺)の墓場だったようなんだけど、震災後に東海寺が縮小された関係で末寺と墓場は移転しちゃったものの、この墓だけは板垣の希望によってこの場所に建てられたものであるため、そのまま残ったんだという。
この板垣の希望だという墓が東京の中心(皇居)をではなく、南を向いているってのを見ておきたかったんである。この住居(晩年板垣は三田に住んでいた)からも離れ、わざわざ江戸の領域を外れたこの場所で南を向いている墓をってのを希望した板垣の心境ってのが興味深いんだな。これは維新の立役者達の一部が結局のトコロ、上部構造にガッツリとハマりきれなかったことを示しているように思うのだ。
実はもうちょっと南の海晏寺には岩倉具視、西大井には伊藤博文の墓があるんだけど(何れも基本非公開)、彼らに共通するのは国事に奔走(その内容はともかく)したことと比べて、余り私(わたくし)の勢力を作らず金銭的には比較的汲々としなかった辺り。
何か言いたいのかっていうと、彼らは恐らく江戸(東京)への(との)微妙な距離感というか疎外感のようなものを持ったまま、つまり現在に生きていればタワーマンションに積極的に住むような鈍感さが無かったために、この“堕ちていく”ような土地に葬られることになったということに、今の自分は非常に共感のようなもの(あくまで“ようなもの”なんだが)覚えるのである。で、今回のテーマ的にも繋がっているトコロなんじゃないかとってことで来てみたんだけど、どんなもんか。
さて、神社に戻ろう。
残してあった富士塚である。なんでも都内では最大級だというが、カップ麺を作るほどの時間もかからずに登頂できて、富士山と同じ御利益と来たらヤハリ登っておくべきだろう。キチンと何合目とか書かれているのが面白い。
上からの景色はナカナカのものだ。ここから海側へ向けて、段々と建物が高くなっているのが分かって非常に面白い。海岸沿いが衝立のようになっているんだな。この景色、数年で変わりそうだ。恐らく以前は港が望めたんだろうけど、港ドコロか海が全く見えないってのがイイ。
その後、街道に戻ってサクサクと歩きつつ、品川宿本陣跡をすっ飛ばしたり(何もねえ)~
ココでやってけんのかっていう古い畳屋を見たり~
ソコカシコにある歯抜け駐車場を見たり~
昔懐かしきネーミングの美容院とかを発見している内に腹が減ってきた。実は品川駅で早めの飯をと思っていたんだけど、チンポータウンに突入しちゃったら飯食うような気分じゃなくなり、すっかり忘れていたのである。
が、無いんだな、気安く飯食うところが。しかし、どうも眺めていると近場のオフィスから出てきたリーマン達がやってんだかやってないんだか見た目分からない商店で弁当を買ったりしているのはチョロチョロと見かけるんだ。うーん。商店会の店としては死んでるけど、そういうので食いつないでる店が多いのか?
ともかく、オフィスに帰るわけでも無い自分はそこらでは食えない。
と、ウロウロと一旦街道を外れると松屋があったのでそこで食うことにする。「八潮高校入口」という名前の交差点だ。八潮高校って薬師丸ひろ子の出身校だったな。進学相談をした高倉健が品川住まいだったし、っつーことで『野性の証明』の大仰な音楽を思い出しながら牛丼を食らう。
飯を食って街道に戻ると、エキセントリックな感じのオッサンにチラシを渡されたので見てみると、なんだかヒドく非現実感の強い内容の自費出版ものをお出しになられたらしく、チラシを眺めつつちょっと不合理短編SFの主人公になったような気分になる。しかも、オッサン適当に配ってるらしく、こっちが行きつ戻りつ街道を移動している間に二度も渡された(もらうな)。
と、街道沿いの街灯の柱を見ると、いつの間にか青物横丁商店街に変わっている。
この青物横丁にも押えておきたいトコロがある。品川の非人頭・松右衛門の“溜”がこの辺にあったのである。ということで、そっちの話に入りたいのだが、イイカゲン長くなってしまったような気がする。というかタワーマンションに引っかかり過ぎだ。続きは次回ってことで、どうぞよろしく。