池袋東口 タカセ洋菓子・池袋本店 カフェブックマーク

ツービート時代のたけしが漫才で池袋のことを「新宿に負けたカッペの街」と規定したのは80年代の始めだったわけなんだが、今に至るもご当地はそのまんまのイメージで絶賛営業中である。
しかし、当時は自明のことだったこの池袋のイメージ~なんでこう言われるようになっちゃったの~といった辺りは余りにも当たり前になってしまったためか、それの提示前に語られるというのはほぼ無くなって来てしまったように思う。というわけで、コレをマクラにしてみよう。

戦前の池袋というのは鄙過ぎて話題にも出てこないような~江戸川乱歩の小説で舞台として出てくるのがせいぜいといったような場所だった。江戸川乱歩は戦前で唯一と言ってしまってもよい池袋在住文士なわけだが、書斎兼書庫として怪しげな土蔵がある家が良いと、該当物件を探しに探してというカワリモノが極まっての結果であって、土地への思い入れは全く無く移り住んできただけだったりする(乱歩邸は西口の方に現存)。

戦後の闇市

今の池袋のイメージの源泉となっているのは、なんといっても戦後の闇市だろう。鉄道路線が複数乗り入れていること、それが練馬や埼玉の畑作地帯と結んでの物資の集積地だったこと、空襲によって駅の両側が焼け野原に~つまり大きな空き地が出来たこと、等の理由により、西口と東口合わせてだと都内最大級の闇市が出来ちゃうわけだが、経緯は他の闇市と変わらない~よくある流れである。どうも仕切るヤクザの質に問題があったようで、そのアウトロー方面での評価も以下のようなものがあったようなんである。

浅草のヤクザは、着流しにサラシの腹巻、そして胸にはドスを忍ばせている。銀座のそれは、ソフト帽にピストルが制服。池袋の愚連隊は、地下足袋に、草刈り鎌でのし歩く。

一揆かよ!それ足すマッドマックスか北斗の拳か。映画好きはニュージーランドの百姓マッドマックス映画『バトルトラック』を思い出す人も居るかもしれない。こういった田舎(練馬・埼玉)と直接繋がったある種の蛮性~都市的なスマートさとはかけ離れた、垢抜けない問答無用の逞しさが都内のヤクザ達から恐れられていたようなんである。これが闇市の色となり、いままでこれといった無かった池袋のイメージが、仕切るのも売る(売りに来る)ものも野蛮な田舎者の街といったような強烈な形で固定化されてしまうのだ。
なお、関東最武闘派と言われ、多くの半グレも傘下に置いている住吉会・幸平一家は池袋もシマとしており、現在の本家(本部は大山)の場所は埼玉の飯能である。

戦後の闇市

しかも、その後の闇市の整理に関して、東口は上手く行ったものの、西口は失敗。揉めに揉めて、最終的に完了するのは1962年(昭和32年)。60年代まで残っていたんである。当然ながら、固定化していたイメージの敷衍に思いっきり貢献してしまう。50年代、60年代の雑誌の池袋ルポ記事でもタイトルは「情け無用の街」だとか「せちがらい街」、「いなかものの街」みたいに、このイメージを引きずった内容のものばかりとなる。

池袋東口・西武百貨店

このイメージをどうにかしようと苦労することになるのが、中核店舗が東口にズドンとある(あった)堤清二率いる西武セゾングループである。その堤清二がまだ取締役兼池袋西武百貨店店長時代に、コンサルが西武を持ち上げる形式の経営本『暮しの夢のフロンティア : 西武百貨店』(1962年出版)というのが出版されている。堤清二が作家でもあるということで、武田泰淳や丸山邦夫のようなこの手の経営本には出てこないような人が寄稿していて、池袋を考える上でもソレナリに興味深い内容となっているんだが、その中でも幸田文の「池袋のこと」という随筆は古手の東京人が池袋をどう捉えていたか十二分に分かる内容なので少し引用してみよう。
世間の噂から大分遅れて池袋西武を訪れてみたが、登り坂の輝きと張りのようなものを感じたとちょっと持ち上げた後~

店の中は景気があがっているというより、むしろ荒いといった調子だった。中央の諸店の上品で、柔和で行届いた態度にくらべると、ここは不作法な忙しさがあって、よくみると客は不作法な忙しさを好いているふうで、客みずからその煽りに乗り、同調し、結構気分よくなっているかにみえた。店と客は具合よく一つの渦に巻いていた。
たしか下着売り場だったようにおぼえる。私は突然すぐ眼の前へ指をつきつけられて、いわれた。「幸田文がいるっ」「どれ?どこ?」「ここ。この人」いささかのひるみもない、そのずかずかとした動作と口調に、こちらが却ってうろたえたが、驚いているひまにあっちは人なつこく、にいっと笑った顔になっていた。
その地域だか、その地域に住む人の気風だか、又はその百貨店がかもす雰囲気だか、とにかくえらく元気で、むき出しで、そして若さ、生(いき)のよさが後味に残った。

一応この後、今はそんなことないし、これから益々~みたいな形でまとめているんだが、西武持ち上げ本でこういった内容を寄稿してしまう幸田文サイコーである。こういった古手の東京人は食料困窮の時代に、大なり小なり闇市で苦い思いをしているってのも押さえておく必要がある。
結局、池袋での堤清二の苦労はガチガチの風評の前に実らず、同じ闇市上りだが坂による広がりがある渋谷の方で上手くいくことになるわけだが、スキャンダル誌「噂の真相」の編集長・岡留安則は荒木経惟との共著『新宿よ!』(1984年出版)で、“ヤサ”新宿を含む三つの街の違いを「アナーキー新宿、アウトロー池袋、コマーシャル渋谷・原宿・六本木」と表現しており、池袋を「文化の香りを感じさせてくれない。」と書いている。が、岡留安則氏は東京から遥か遠い鹿児島出身なんである。闇市なんてカケラも知らないのだ。
要するに(要してない)、地方出身の“新東京人”が“シン東京人”になるために“旧東京人”の池袋評価を引き継ぎつつ、自身が捨ててきた(と思いたい)田舎の蛮性というものを抱えた池袋を近親憎悪をもって引き下げたい~というのがほぼ地方出身者が主体となった70年代、80年代に入ってからのメディアだったりマスコミの基調となり、岡留安則氏もそこに乗っかっているわけなんである。まぁ岡留氏の場合“ヤサ”新宿を過剰に持ち上げたいというのもあるんだけど。
地方出身者でも安心して叩いてバカに出来る“東京”。この頃になると池袋のイメージは幻想半分になっているわけである。冒頭のたけしも実際は地元の足立区から、池袋に始めて行ったときはその<都会性>にビビったというようなことを語っている。

池袋西口公園野外劇場

池袋出身の独文学者で博覧強記の人・種村季弘のように「池袋はバカにされている。徹底的にバカにされている。」(『偽物漫遊記』より)と嘆く声もないわけじゃないんだけど、このバカにされる原因でもある文化の無さというのは、戦後の面倒くさいカルチャーを背負う必要がなかったということでもあり、特にそういったものから逃れたい若者(または気分だけソレに寄り添いたいジジイ・ババア)からすると、上方からの軽さと横のしがらみの希薄さというある種の自由を感じさせる部分も無いわけでもないんである。そういったトコロから『池袋ウエストゲートパーク』のような作品群も産まれることになったということでは、それほど気にする状況でもなくなったんじゃねえのって思ったりもするんですが、どんなもんでしょね。

といった辺りで店へと向かおうと思うが、池袋は自分が埼玉出身というのもあるが、子供の頃の記憶が濃厚な街だったりする。ガキの頃、父親は新宿の事務所で多忙にしており、家にほぼ帰ってこれないため、土曜半ドンの日に母と共に父親に会うために東京へと行くのだが、仕事のキリが良くなるまで時間を潰すのが池袋だったのである。新宿と比べて、駅の両側のデパート屋上とサンシャインシティとガキ向けの場所があったからだと思う。当時はまだ、埼京線は無く赤羽で赤羽線乗換だった。ということで、今回紹介する店も何回か出入りした記憶がある。

池袋西武百貨店

といっても今回の店、タカセ洋菓子は東口出てすぐなんで、あっという間に着いちゃうんである。イロイロややこしいことになって墓標のように見える西武百貨店を横目に、実はタカセには今のタカセになるまでの歴史ってのがあるので、それをザッと見ていくことにしよう。

大正5年・池袋駅周辺地図

1920年(大正9年)に香川から上京してきた森茂吉氏が東口の今と同じ場所にあんぱんを主力としたパン屋(パン製造・販売)を開業したのが始まり。
当時の池袋は、西口が師範学校や立教大学を中心にいくつかの教育施設あり、それを囲む形で文化的な拠点(後の池袋モンパルナス等)も形成されていたのに対して、東口は巣鴨監獄や隔離病院、廃兵院等の暗いイメージの施設が多く、そういったことも影響してか商店もあからさまに西口が優位だった。上の画像は1916年(大正5年)の周辺地図。森茂吉氏は商売敵が少ない新天地に掛けたのだろう。かといってただ雌伏しているだけではなく、1932年(昭和7年)には豊島区の区議会議員に立候補し、地域(東口)を発展させるための諸運動~特に都電の誘致なんかを進めている。随分なやり手なんである。あんぱんの製造・販売がヒットして、行動の自由が利くようになったというのも大きいようだ。

森永キャンディーストア・京橋店

1935年(昭和10年)には森永の販売チェーン「森永ベルトライン協会」に加入。森永の指導の元、店舗をビルに建て替えて、パン製造に加え、洋菓子の製造・販売、喫茶とレストラン経営も開始。
この森永のチェーン形式は正式にはボランタリー・チェーンといい、フランチャイズと違い、森永と小売店側は商号を平等に使える等のフラットな関係性の中で、連携し、協力し合うというのが特徴。フランチャイズは縦の繋がり、ボランタリーは横の繋がりって感じですかね。
当初、森永はキャンディーストアという直営店で販売網を広げようとしていたが(上の写真はキャンディーストア・京橋店)、アメリカからボランタリーチェーンの普及の情報が伝えられると、そっちの方が広がるスピード的に良くね、と「森永ベルトライン協会」を設立したってわけ。

森永スイートガール

このように販売網を広げることを目的としているため、ある程度の制約(指定された設備と整えるとか、他社の菓子売るなとか)はあるものの、大きくは店舗設計から~小さくは菓子の包装紙のデザインまで援助・指導が受けられるだけでなく、店員の斡旋から直営店での訓練、専門雑誌の発行とポスターや宣伝旗等の無料配布、販売促進のためのイベント設定とキャンペーンガール(スイートガール)の派遣と、小売店側に有利過ぎる内容で、最盛期には台湾・朝鮮・満州・樺太を含む全国に4500店舗まで増えたそうである。なお、スイーツガールからの出世頭として、戦前には桑野通子、戦後には白川由美らが居る。
こうして、単なるパン屋から「森永ベルトラインストア」に脱皮し、大森永のノウハウと技術を蓄積していくことに。

都電・池袋まで開通

1938年(昭和13年)の4月には都電の誘致運動が実り、店の目の前に停留所が出来ることに。開通初日は都電から鉄道に乗り換えて、豊島園等の郊外遊楽地・景勝地に行く人で溢れ、武蔵野鉄道(後の西武)は駅員に大入り袋を出すほどだったという。当然、店の売上もズバッと上昇。この頃には森永ベルトラインの中でも旗艦店(ベルトライン的には“本部”というらしい、森永は“総本部”)というポジションになっていたようだ。近隣に住む人の間では、見合いをするならココという場所だったとか。1940年(昭和15年)には武蔵野鉄道が東口駅前の菊屋デパートを買収している(後の池袋西武百貨店)。

敗戦後の池袋東口

が、戦争が深まってくると1942年(昭和17年)に「森永ベルトライン協会」が解散。1945年(昭和20年)には東京大空襲によって一帯が焼け野原に(ビル構造だったため、完全な焼失は免れたようだ)というダブルパンチを喰らった後、戦争が終わってようやくとなったのに、店前の空き地(現在の駅前ロータリー)を闇市に占有されてしまうのである(上の赤い部分)。店舗の営業は1年の休業ののち再開している。

池袋東口・闇市

始めは単なる青空市場だったが、しばらくすると森田組(テキヤ系)仕切るようになり、なんとボランタリーチェーン方式で露天業者達をまとめるようになるのである。闇市を集合体的なマーケット形式にしたのは実は池袋・東口が最初なのだ。この後に“森田組東口マーケット”と呼ばれることになる闇市は、貴族院議員の松本学(元内務官僚)を表に立て、役所とも細かく連携したことから、西口の闇市に比べて治安等は良かったようなんだか。

池袋東口・闇市解体後

当然というか、森茂吉氏は池袋復興会を作って、“新しい街づくり(闇市勢力の追い出し)”に奔走することになる。
その奔走のかいというわけでもなく、言われなくとも東京都は駅前のような重要地にある闇市の固定化の阻止を最優先事項としており、1949年(昭和24年)に都知事や警視総監との連名で出された露天撤去通告の後、森田組東口マーケットは同年内にトットと着手が入り、都内各所から合力に来た武装警官達によって、わずか2日で撤去されてしまうのだ。まとまりが良かったことから権利関係がスッキリしていたのが、幸い(闇市側からすると災い)だったようなんである。まぁ政治家表に立てておいて揉めるのはマズいってのもあったんだろう。

池袋東口・森永ベルトライン

この間に森茂吉氏は焼けてしまったビルの建て替えにも動いている。本当にやり手なんである。戦後、森永は「ベルトライン協会」を「エンゼル会」という名称で復活させるが、新たに出来た独禁法の関係で他の商品を排除するような制約のない、かなりゆるい~森永側からのサービスも含め、というものだったようだ。ビルは闇市が片付いた次の年、1950年(昭和25年)にはもう完成している。一階が販売、二階が喫茶、三階レストランってのは、今もそうだけど、継続性があるもんなんですな。

池袋東口・森永ベルトライン・二階喫茶室

が、この頃としてはガッツリとした商店建築ということで、建築誌に掲載された新店舗を見ると、思いっきり看板がモリナガモリナガで、結構な協力関係があったというのが伺える。森茂吉氏の手腕もあるんだろうけど、どう考えても今後発展するだろう池袋~その駅前にある“旗艦店”との関係を、森永側でも重要視していたのだろう。

池袋東口・昭和40年代

その関係も1962年(昭和37年)には終わることになる。戦後にスーパー等の量販店での菓子販売が普通になり、そこへの供給のため大量生産という方式が進むと、森永がこれまで小売店とともに広げてきた販売網が完全に食われる形になってしまうのである。旧来のシステムが、森永的にも小売店的にも、メリットどころか商売的にお互いの足を引っ張り合う形になってしまうという。
森茂吉氏がその辺に気づかないわけがなく(この辺ソーゾー)、関係を解消して商号を「タカセ」に変更し法人化。ここでようやくタカセがタカセになるわけだ。この名称は森茂吉氏の出身地の香川県三豊市高瀬町から来ているとのこと。議員になったりして、完全に“池袋人”になったと思ったら、故郷のことは忘れていなかったんですな。創業時に何らかの支援でもあったのかも。なお、森茂吉氏はこの時期に豊島区議会議長になってます。そりゃ“旗艦店”だろうがスンナリ関係の解消も出来るわ。
森永の方も一応触れておくと、10年後の1972年(昭和47年)にエンゼル会は限界を迎え、単なる親睦団体へ改変させて継続することになる、と。

こっから先のタカセの歴史は、どっかにあると思うので、いいかげん店へ向かおう。

タカセ全景

現在のタカセビルの全景を見るには池袋駅地下から43番出口を目指すと良い。現在のタカセビルは1976年(昭和51年)に建て替えられたもの。
なお、ふれていなかったが、撮影当日は朝から熱中症注意報が出ているような、ぶっ倒れそうな気温だったりする。多分暑かったんだろうと思うが、赤信号を無視して横断歩道を渡ろうとするオッサンが、横の交番からマイクで怒られていた。

タカセ・入口

タカセ前はサンシャインシティへと向かうメインストリートであるため、流石に人通りがガッツリと多い。そういや、この先の辺りってキャッチだらけだったな、とパトロールしてみたが、コロナ禍中にほぼ絶滅したようだ。

タカセ・パンのワゴン売り

タカセ入口で目立つのはパンのワゴン売り。伝統のあんぱんもあるわけだが、このワゴン売りはコンビニでのパン販売に対抗して産まれたもので、以外に新しいものなんだそうだ。1階の売上の半分がコレの日もあるとか。なんというかオシャレさよりも質実という古き良き池袋らしい売り方なんである。まだ昼には早いのに結構売れちゃってるね。

タカセ・パンのワゴン売り

森永との関係を解消してから、タカセが商売の基本に据えたのはこの池袋の地域性といった辺りのようだ。元々下町の濃いめの味が好まれる土地柄があるところに、この街に来る年齢層は他よりもかなり若めというのもあり、池袋の飲食店は他の街よりも醤油や砂糖の使用量が多いんだとか。それに合わせてタカセも特にパンなんかはこってりとした味ってのを基本にしているようだが、現在タカセの会長になっている森弘治氏は90年代の常務時代に専門誌に対してこう答えている。

なまじ新製品を追いかけるより、地域のカラーに沿う味を絶やさず、できるだけ安く提供し、地域社会に溶け込む。これがタカセの一貫した方針で、これからも変えるつもりはありません。

この庶民路線堅持ってのはタカセの真骨頂だろう。あくまで池袋の店なんである。

タカセ洋菓子・一階

その辺の事情だろうが、一階売店はどう考えてもご近所ですよね~みたいなオバちゃんが多い。
自分も何か土産に何か買おうと思っていたが、当日の余りの暑さに持って帰れんわいとパス。まぁしゃあない、次回に期待。

タカセ洋菓子・一階看板

向かうのは二階の喫茶室。最近は九階のコーヒーラウンジがやたらと進められたりするが、歴史的にやはり二階に行くべきであると。

タカセ洋菓子・階段

エレベーターがオッサン、オバサンで詰まっているので、階段で二階に向かうが、昭和丸出しなので嬉しくなってしまう。

タカセ洋菓子・喫茶室入口

入口に到着したら、数組だが待っている人が居る。時間的に空いてるかと思ったんだけど~これがガチャポンが出るようなじゅんきっさパワーか…と思っちゃったんだけど、単に11時までモーニングをやっていてその客なのだった。知らずに来たのでしょうがないと待つことにしたが、入口は冷房無いんである(恐らく冬場は暖房も)。回転は悪くないんで、すぐに入れたが注意報が出てるような暑さの中で待つのはナカナカ辛いので、この辺駄目な人は要注意である。11時以降は店内も空いていたので、モーニングじゃなくてもって人はそこを狙ってくるのが良いでしょうな。

タカセ洋菓子・喫茶室内

順番が来て、丁度店内の状況が分かるような席に通される。普通だったら窓際の方が良いんだろうけど、イロイロ見させていただきたい面倒くさい客なので、かえってこういう席の方がありがたいのである。
正直思ってたよりも、客層はバラけており、というかレトロ喫茶店好きの女性がほとんどなんじゃないかと想像してたんだけど、そういったソロ客の方々は半分ほど。恐らく近所から来たと思われる、定年がない自分の店で働いてそうなバアさんやアンダーアーマーを着たでっぷりと太ったオッサンなんかも居て、その間にカップルが~という感じ。やっぱり、ちゃんと地域の常連も居るのである。
ソロ女性はここが目的地なので長居をしているが、カップルが次の目的地があるのでとっとと帰っており、その辺で回転が上がっている感じ。

タカセ洋菓子・喫茶室メニュー

タカセといえば東郷青児の絵が、このメニューのそうだけど~包装紙・箱パッケージ等に使われてるってのが知られているわけなんだけど、今回菓子は買わなかったし、多分ネットにいくらでもあると思うんで、ソレはそちらでどうにかしてください。

タカセ洋菓子・クリームソーダ

まず、始めに来たのはお約束のクリームソーダ。アイスクリームといい、チェリーといい王道中の王道といった感じ。時代に阿る部分は皆無である。暑い中待った甲斐がある。

タカセ洋菓子・プリンアラモード

続きて来たプリンアラモードもタイムマシンでやってきたような逸品。プリンも今よくあるトロリやらは完無視で、全体としてはこちらもよくある果物での誤魔化しもあさってに、というストロングスタイルである。持ってくる時に「ちょっとガタガタしますので…」と店員さんに言われたので、何だろうと思ったが、プリンアラモードが入っている皿と下の皿の大きさが合っていないのだった。こういうのは昔の喫茶店とかだと良くあったなぁとニヤリとしてしまう。

タカセ洋菓子・ナプキンと先割れスプーン

ナプキンと先割れスプーンもチェックしていただきたいところである。

タカセ洋菓子・ディスプレイ

というわけで、食ったらとっとと出るのである。というのも、店が持つ陽性の何かなのか、通常喫茶店に来ると多少は湧いてくるアンニュイというかメロウというか、という気分に全くならないのだ。逆の次行ってみよう!という気分になってしまうのだ。カップルがどんどん出ていくのもむべなるかな。

タカセ洋菓子・看板

タカセ洋菓子店は、自分の思い出とリンクしているというわけでもなく、明日も休みだ!みたいな土曜日の半ドン感が溢れる店である。
これは恐らく池袋と地域性というものに寄り添って来た店の姿勢から醸し出されたものなのだろうが、この良い意味での軽さが新たな客を獲得しつづける秘訣なのだろう。
今後もタカセ洋菓子店は池袋東口の顔として繁栄して行きそうである。

タカセ洋菓子・看板

タカセ洋菓子店 池袋本店
住所:東京都豊島区東池袋1-1-4
電話:03-3971-0211
定休日:無休
営業時間:階によって違うため店のHPをチェック
最寄り駅:池袋駅

日本、〒170-0013 東京都豊島区東池袋1丁目1−4

カフェブックマーク一覧

西口の闇市に関してはこちら
池袋西口 「さかば ふくろ」西口本店 ボンクラ座礁酒場

森永製菓 クッキー&ビスケット 6種食べ比べ アソートセット
森永 PARM(パルム) Pino(ピノ) MOW(モウ) アイス詰め合わせセット
森永 ビエネッタ 6個セット <バニラ3個・ティラミス3個>

De’Longhi (デロンギ) 全自動コーヒーマシン
パナソニック コーヒーメーカー 全自動 ミル付き
ネスプレッソ カプセル式コーヒーメーカー エッセンサ ミニ

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA